2



 たぶん大丈夫だろう、という気持ちといや、もしかしたら――なんて思いがぐるぐると頭の中を駆けずり回っている。

 確かこれと似たことが以前あった気がする。

 そうだ。この大学の合格発表の時だ。

 あの時も僕はこの大学の掲示板の前にいたんだっけ。

 やれることはやった。

 それでもやはり不安というものは消えるものではないらしい。

 第一志望、第二志望と気持ちいいくらいに不合格をくらっていた僕にとって、この大学の三月入試がラストチャンスだった。

 今考えると、浪人するという選択肢もないこともなかった。

 だけど友達と呼べる人間がいなく、学校に敵しかいなかった僕にとって、地元の予備校に通うことはもう一年地獄で過ごさなければならないようなものだった。

 だから是が非にもどっかしらの大学に入っておきたかった。

 僕にとって大学進学は地元を離れるきっかけでしかなかったのかもしれない。

 別に華のキャンパスライフみたいなものを期待していないわけではなかった。大学デビューってやつに期待していないわけではなかった。

 だけど、やっぱり僕は僕なわけで、人見知りは人見知りなわけで、友達ゼロは友達ゼロだったんだ。と今になって僕は思う。

 だけど受験番号を見つけた瞬間だけは自分に対するマイナス面は一切忘れていられた。

 自分はヒーローだと思った。映画の主人公にでもなった気でいたのだ。

 その後にある大学生活の準備やらアパート探しやら入学金の振り込みやら――そんなことは全く考えてなかったのを覚えている。

 それから四年の月日が経つことがこんなにも早いものなのだろうか。

 あの時と同じ掲示板の前に経っている。

 あまりにもあっという間だったせいで、四年前に比べて僕という人間が何一つ変わっていないように感じた。

 いや、たぶん何一つ変わっていないのだろう。

 なにせこんなにもあっという間だったのだ。成長する時間なんて少しもなかったんだ。

 僕は掲示板から自分の番号を探す。全く四年前と一緒。

 違う点があるとすれば、その番号が受験番号から学生番号になったこと。そして四年前は不合格だった場合は即座にこの学校から去らなくてはいけなかったが、四年後の今日は不可であった場合は、もう一年学校に残らなくればならない。

 卒業合否発表。

 それは思ったより閑散としていた。

 考えてみれば朝から掲示を待ち続けて、発表と同時に食い入るように掲示板を凝視してるようなやつは卒業すれすれでなおかつ就職先が決まっってしまったやつに決まっているのである。

 ほとんどの学生はもうすでに卒業単位をとりつくして、残ったわずかなモラトリアムを堪能しているわけで――。逆に開き直って留年確定のやつは今頃まだ布団の中だろう。

 こんな朝っぱらから大学に来ようなんてやつは珍しいのかもしれない。僕はその珍しいやつの一人なのである。

 卒業合否発表は自分の学生番号の隣に記号が書いてある形式である。

 ○なら卒業、×なら留年というものすごくわかりやすい見た目となっている。

 自分の学科の掲示板に紙が張り出されるなり、僕は食い入るように自分の番号を探す。

 上から順番に見ていくと、やはり○が続く、ただ時々挟まれる×が僕の心にとんでもないダメージを与えていく。

 普段だったらこのダメージを回復してくれる魔法使いが僕の隣にいるのだが、たぶん今頃彼女はまだ布団の中だろう。

 ついに僕の番号までたどりつく。

 これで不可だったら親になんて言おう。そして内定先の会社になんて言おう。


 僕の就職先が決まったのは、十二月の終わりだった。

 この時期に就職先が決まるなんてのはかなり遅いほうで、たぶんこの時期に就職先が決まるなんて僕ぐらいのもんじゃないだろうか。

 就職先は文房具を製造している小さな会社で、そこの事務として僕は春から働くことになる。

 なぜこの会社なのか。別に文房具が好きだったわけじゃない。

 ただここの社長さんが僕の父親と同級生、ということだけだ。

 言うなればコネ入社ってやつである。

 十二月まで就職先が決まらなかった僕を見かねて親が話を進めていたらしい。

「就職先が決まったぞ」

 そう、親から言われた時、何余計なことしてくれてんだよ! と正直思った。

 けど僕はそんなことを言う資格は全くない。

 なぜなら僕は就職活動を全くしていなかったからだ。大学が主催するガイダンスはおろか、企業の合同説明会さえ行ったことがない。

 普通の大学生としてはありえないことだろう。自分ですらありえないと思う。

 なんでこんなことになったんだろうと自分で考える。

 僕は普段から人と話す機会がなかったからじゃないか、という結論に至った。

 もしも友人と呼べるクラスメイトが一人でもいたならば、自然と就職活動の話はするだろうし、いろんな対策をしただろう。

 僕にはそういう友人がいなかったのだ。

 ただ一人、魔法使いを除いて――。

 

 魔法使いもまた就職活動をしていなかった。

 彼女の場合はしていなかった、というよりは必要がなかったといった方が正しい。

 なぜならすでに就職先が決まっていたのである。

 彼女の実家は地元でも有名な老舗旅館だ。そしてこの魔法使いはその老舗旅館の一人娘なのである。卒業後は地元に帰って女将修行することがもう決まっていたらしい。

 そしてこの魔法使いはさっさと卒業に必要な単位を取り付くし、完全に暇を持て余すようになっていた。山のような文庫本を消化し、映画を見て、夜になったらお酒を飲んでいた。場合によっては朝から飲んでいた。

 僕のアパートで――だ。

 だから自然に僕も同じ行動をすることになる。

 おそらく、同じ学年の学生がスーツを着て、企業説明会に出たり、面接対策をしている時に僕は魔法使いと一緒に本を読み、映画を見て、酒をあおっていたわけである。

 こんな僕に就職先なんか決まるわけがない。僕はずっとそう思ってた。

 というより就職する気がなかった。もっと言うと卒業する気がなかった。

 だから授業は登録だけはしていたものの、全く出席をしていなかったのである。

 ただ世の中というものは本当に不条理なものなのだ。

 こんな僕に就職先が決まってしまうのだから。

 親は親なりに一生懸命、就職先を探してくれていたらしく、僕を雇ってくれる人が見つかったことを素直に喜んでいた。

 そんな親に言えるわけがない。

留年させてくれ、なんてことは――。

 そこからは地獄だった。

 まず、いままで全く出ていなかった授業の教科書をそろえ、すべての講義に出た。

 予想通り全くわからない。

 それもそのはず。もう授業も終盤にさしかかるシーズンで、講義によってはすでに試験範囲の発表までしている。

 そして友達がいないということに定評のある僕には、ノートを貸してくれる人もいない。そしてもちろんのことながら知らない人からノートを借りる度胸も持ち合わせてはいない。

 そんな僕がたよれるのはもう一人しかいない。

 青い猫型ロボットを頼るメガネ少年のように僕は魔法使いに泣きついた。

 あきれ顔で魔法使いはマンツーマンで試験対策を伝授してくれた。

 各教授の出題パターンからヤマの張り方まで僕が知らないことが盛りだくさんだった。旅館の女将なんてならないで家庭教師とか予備校講師とかになればいいのに……なんて思う。

 たぶん僕は大学生になってから一番勉強したと思う。

 魔法使いも気をきかせてか、僕のアパートに寄りつかなくなった。

 魔法使いと会えない。

 それはそれで地獄だった。

 だけど僕は毎日毎日机にかじりついた。

 そして出せるレポートは全て出し、試験も全ての空欄を埋めた。


 その地獄の結果が今日、この瞬間に明らかになる。

 そう思うと手から汗が出てきた。

 まだ春には遠い三月、しかも朝だから冷え切っていた。

 だけど僕は緊張で体が熱かった。

 今この僕の学生番号の隣を見るだけでこの地獄の結果が出る。

 僕は、自分の結果を見る――。


「あ、合格じゃん。おめでとー」


へ?

 おもわず変な声を出してしまう。

 僕はとっさに視線を掲示板から僕の隣に移す。

 そこには見覚えのある銀縁の眼鏡と艶のある黒髪ロング、そして白いミトン。

 魔法使いがそこには立っていた。

いつからそこにいたの。

「ん、今きたとこ」

おめでとーって?

「いや、そりゃ……卒業できて――え?」

まさか掲示板よりも先に君から結果を知ることになったとは――。

 改めて僕は掲示板に目を移す。

 僕の学生番号の横には○が書いてあった。

「なんでまだ見てなかったんだよー」

なんで先に言っちゃうんだよー。

 けどもうそんなことはどうでもよかった。なにせ合格したという事実には代わりはない。

「おめでと」

 彼女は僕の手をぎゅっと握る。

 抱きついてやろうか、そう思ったけど少なからず周りに人がいたのでそれはやめておいた。

 

 地獄が終わったと思ったら僕はまた再び地獄を見ることになった。

 卒業発表が終わった僕らに待ち構えていたのは、段ボールとビニールひも地獄だった。

 地獄って針の山だったり血の池だったりするものなんだろうけど、実際のところはたぶん段ボールとビニールひもなのかもしれない。

「ぼーっとしないで手を動かしてください」

 うでまくりをした魔法使いが僕を叱ってきた。

はい……すいません。

 僕は彼女に逆らうことができなかった。

 逆らうことなんてできるわけがない。この段ボールとビニールひも地獄は、僕が今日の今日まで全く引っ越しの準備をしてこなかったせいだからである。

 彼女に怒られながらも僕はひたすら荷物と格闘する。

 何でここまで僕は引っ越しの準備に手をつけなかったか。

 卒業が決まってもいないのに引っ越しの準備をする気が起きなかった、と彼女には伝えていた。

 だけどそれは表向きの理由。

 本当はこの魔法使いとの思い出がつまったこの部屋を壊したくなかったから。

 それだけのことだった。本当のことを言うとこのままずっと今のままでいたかった。

 変わりたくなかった。未来が怖かった。日常を壊されたくなかった。

 なんでこの環境を捨てなければならないのだろう。

 僕が何か悪いことをしただろうか。人に迷惑をかけただろうか。

 今日、この時まで僕は自問自答を続けてきた。

 それでも引っ越しの日はやってくる。

 もう一週間後には地元の企業で研修が始まってしまう。それまでに実家に荷物を運ばないといけないのだ。

 泣き言を言っても誰も待ってくれやしない。

 泣き言を言ってどうにかなるのは子供の時だけ。

 僕はもう二十二歳になっている。

 のど仏も突き出しているし、ヒゲも生えているし、声も低い。

 こんな僕を子供扱いしてくれるような人はもう誰もいない。

 だけど僕はまだ子供なのだ。二十二歳という鎧をむりやりつけられた子供なのだ。

 僕はまだいじめられっこで内気で人見知りでそれでいて臆病で――、なにひとつ大人になんてなれてなんかいないのだ。

 

 僕は食器の片付けに手をかけている。

ねえ、これ持っていく?

 僕は魔法使いに尋ねる。

 それは彼女が愛用していた湯飲みだった。僕が実家から持ってきた寿司屋の湯飲み。

「うん、ありがとう」

 彼女は笑顔を浮かべる。

 それが少し悲しげに見えるのは気のせいだろうか。

 悲しいのは僕なのに――。

 だって彼女がこの湯飲みを使うところはもう見ることがないと思うから。


 僕が引っ越しを済ませた後、彼女もまたこの街を離れることになる。

 実家に帰ったその日から、彼女は実家の旅館での女将修行が始まるのだ。

 僕ら二人には、物理的な距離ができてしまう。

 いままで何をやるにも隣にいてくれて、ただただ笑っていてくれた魔法使い。

 そんな彼女と僕の間にはものすごい距離ができてしまう。

 僕は彼女の魔法がかからない場所へと行ってしまう。

 そのことはたぶん向こうもわかっているだろう。

 だけどお互い何も言わなかった。

 たぶん声に出したらどうしようもなくなってしまうから。

 それこそ彼女の魔法じゃどうにもならないくらいどうしようもなくなってしまうから。

 わかっていたことだった。

 だけどもうするとどうしようもないことだった。

ねえ、千里さん

「ん?」

 本をビニールひもでしばっている千里さんに僕は問いかける。

もしかして、千里さんは時間をもどせる魔法が使えるんじゃないの? 僕らが出会った日にもどしてよ。そうしたらまた二人でフレッシュマンプログラム受けて、トーイック受けて、そしたら――。

「ごめん」

 僕の言葉を遮るように魔法少女は僕に笑いかける。

「そんな魔法は使えません」

うん。 

それはとても寂しそうで、そしてとても優しい笑顔だった。



 段ボールも積み終わり、残るは部屋の掃除だけになった。

 時計は午前四時半を示していた。

 どれだけ僕は部屋を汚くしていたんだろう。

 それはもしかしたらわざと汚くしていたのかもしれない。

 彼女と一緒にいたいから。ただそれだけ。

 だけど引っ越しの準備が終わりに近づくにつれてだんだんこの部屋がからっぽになっていく。

 まるでいままでの僕らの時間がなかったことになってしまうような、そんな寂しい感覚が心をずきずきと痛めつけている。

 夜通しの作業にさすがの魔法使いも疲れたらしく、何もなくなった畳の上でちょこんと腰を下ろしている。

 ただただ僕らは黙っていた。

 聞こえるのはアパートの外を走る車の音だけ。

 普段は――まだここに住んでいたころは、何も気がつかなかったのに。

コンビニ行こうか。

 ふとそんな言葉が僕の口からこぼれる。

 別にコンビニに行きたかったわけじゃない。

 ただこのからっぽの部屋にいる状態があまりにも悲しかった。

 僕らはアパートを出て通り慣れた道を歩く。

 三月なのにまだ吐く息が白い。

 僕と魔法使い、二人の白い息が並んで吐き出される。

 もうたぶんこの道を二人で歩くこともなくなる。

 彼女に二度と会えないわけではないことはわかってる。

 ただ、僕たちはこの町で出会い、共に時間を過ごした。

 僕がこの町を出て行ってしまったら、その途端に彼女は消えてしまうのではないか――それこそ魔法のように。

 僕は、そんなことしか考えられなくなってしまっていた。

 

 早朝というだけあって客は僕たちだけだった。

 店内にはそのコンビニオリジナルのラジオ放送が流れる。


三月は出会いと別れの季節ですよねー。


 落ち着いた声の女性DJが誰に向けているのかわからない無難な季節話を始める。

 そんなことを気安く言うな、って思う。

 僕らが離ればなれになってしまうという現実を「三月は別れの季節だから」でまとめるな。僕は見えないラジオDJに向かって敵意を感じた。

 だけどここで怒りを感じてどうするというのだ。

 二人が離ればなれになってしまうという現実は代わりはしないのに。

 僕ら二人は缶コーヒーとサンドイッチをかごに入れる。

 そういえば普段缶コーヒーなんて買ったことがなかった。インスタントコーヒーを湯飲みとマグカップで飲むのが日課だったから。

 僕らは、缶コーヒー二つとサンドイッチ二つが入ったかごをレジに持って行く。

 レジには見慣れたバイトの男性が半分寝ているような顔で出迎えてくれた。

 こっちは名字を知っているのに、向こうは僕らの名字を知らない。

 そもそも別に毎日通っていたわけではないから、僕らの顔自体もあっちは覚えていないかもしれない。

 確か大量におでんのはんぺんだけを買ったのもこの店員さんからだったっけ。

 もしも僕らのほかに大量のはんぺんを買っていったお客さんがいなければ、頭の片隅で僕らのことを覚えてくれるかもしれない。

 これから先もずっと、はんぺんが売れるたびに思い出してくれればいいな、と思う。

 もうこの店員さんと会うこともないんだろうな。

 そんなことを思うと、特に愛着があるわけでもないこの店員さんとの別れに対しても寂しさみたいなものを感じとってしまっていた。

 

「さぶっ」

 本当に春が近づいているのか、と不安になってしまうほどにコンビニの外は寒かった。

 日が昇り始めていた。

 携帯のディスプレイが僕らに午前の五時を回ったことを教えてくれていた。

「きれい」

 魔法使いは僕の手をぎゅっと握ると魔法の指を僕の指に絡めてくる。

 いつもだったら朝日に向かって、きれい、なんて言わないだろう。

 そもそも何に対しても、ふーん、としか興味を示さない彼女なのだ。

 魔法使いはそこから動こうとしなかった。ずっと上ってくる朝日を見つめていた。

 時間が止まればいいのに……。

 彼女は僕と同じことを考えているのか、それとも単純に朝日に見とれているかはわからない。


 僕は彼女を後ろから抱きしめていた。


「人見てるよ」

 そんなことをいいながらも、彼女からは怒りだとか恥ずかしさだとかそんなものは微塵にも感じられなかった。

こんな時間に人いないよ。

「いるよー新聞配達の人ととか牛乳配達の人とか」

別に見られたっていいじゃん。

 ――もうここには来ることはないのだし。

 僕はそう思ったが口に出さなかった。

 口に出したら泣いてしまいそうだったから。

「ばか」

 魔法使いはくるっと僕の方に向きを変えると、ぎゅっと僕に抱きついてきた。

 そして僕らはキスをした。

 それはいままでとは比べものにならないほど長く、今までとは比べものにならないほど気持ちよかった。

 もしかしたら、新聞配達の人や牛乳配達の人に見られているかもしれなかった。

 もしも彼らが僕らのキスを見ていたせいで、新聞や牛乳が無事に届けられなかったとしたら申し訳ないな。

 そんなことを思うくらい、今この瞬間のキスはよかった。世界一よかった。宇宙一よかった。


 僕らは段ボールだらけのアパートに戻り、サンドイッチを食べて、缶コーヒーを飲んだ。

 これから先は缶コーヒーを飲むことが多くなるんだろうな、と思いながらアルミ臭いコーヒーを喉に流し込んだ。

 あとは、部屋を掃除して、引っ越し業者がくるのを待つだけだ。

 僕と彼女はなんとなくゆっくりと作業した。

 休憩を何回か挟んだ。そしてゆっくりと会話をした。

 それでも掃除というのはすぐに終わってしまうもので、引っ越し業者を待つ間は僕たちは段ボールに囲まれて大の字になった。

「このまま寝ちゃいそうだね」

 魔法使いが笑う。

寝ちゃえばいいんじゃない。

 僕も笑う。

 彼女が寝てしまえば、僕は引っ越しを終えてそのままこの町を出ていける。

 そうすれば、彼女の寂しい顔を見なくて済む。

 そう思った。

「けど、コーヒー飲んじゃったから寝られないや」

……そうだね。

 なんでコーヒーなんて飲んだんだろう。

 なんでコーヒーにはカフェインが入っているんだろう。

 なんでカフェインにはなんで人を眠らせてくれないんだろう。

 二十二歳の僕らにはまだ知らないことだらけだった。

 三十歳になれば、もしくは四十歳になれば、知らないことは減っていくのだろうか。

 そんな先のことは考えられない。

 そんな先のことどころか数時間後のことも考えることができなかった。

 ただ僕らにできることと言えば、大の字になって笑いあっていることだけだった。


 引っ越し業者が荷物を持っていった。

 広い。

 荷物がなくなった部屋を見て僕はそう思う。

 こんなに広かったっけ? なんて思う。

 もう来週には新しい入居者が入ると大家さんが言っていた。

 もうここは僕の部屋ではなくなる。

 他の人の部屋になってしまう。

 ついこの間引っ越してきたと思ったのに四年もの月日が経とうとしていることに僕は驚きを隠せなかった。

 ここに引っ越してきた当時はここが自分のいる空間とは思えなかった。

 他人の家に寝ているように思えた。

 そわそわしてしまって眠れなかった。

 ようやく眠れたと思ったらすでに外は明るくなっている。

 そして携帯のアラームが起こるように僕を起こす。

 今覚えば、数日前まで実際に誰かの人の家だったのだから慣れなくて当然だったのだ。それでもどうにか慣れてきて、今僕はそこから出て行かなければならない。

 もしかしたら僕は金魚すくいの金魚のようなものだったのかもしれない。

 僕はここに来るまではちょうどいい温度で泳いでいて、まわりには家族がいた。

 そこから急にポイですくわれて、僕は新しい環境、新しい水の中――つまりはこのアパートに一人で暮らすことになった。

 最初は冷たくてしょうがなかったこの水がだんだん僕の過ごしやすい温度になっていく。

 そして水槽には水草が一杯増えた。

 そして今僕の隣には今までとは違う真っ赤でとても綺麗な金魚がいるのだ。

 けど僕はまたあの慣れた温度の場所に戻らないといけない。

 この赤い金魚を置いて――。

 もっと彼女と一緒にいる道はいくだってあったと思う。

 このようやくなれてきた水槽に残っている選択肢はいくらでもあった。

 だけどその選択肢を自分で作るほど僕は大人ではなかった。

 まだまだ子供な僕は決まった道を選び、決まった水槽で暮らしていく以外はなかったのだ。

 そんな自分の無力さがどうしても許せなかった。

 嗅ぎ慣れた畳の上で僕はただ座っている。

 帰りの新幹線の時間が近づいてきていた。



 魔法使いは新幹線の駅まで僕を送ってくれた。魔法使いも魔法を使わずに切符を買うし、電車に乗るのである。

 携帯電話という魔法の機会で電車の乗り換えを確認するというちょっとした魔法を使ったが、不思議なことにその魔法は僕にも使えるものなのだ。

 改札には通学、通勤の利用客でごったがえしていた。

 もうこの改札をくぐったら僕らはあのころのように一緒に過ごすことができない。

 一緒にあの部屋にお茶を飲むことも、一緒に本を読むことも一緒に映画を見ることもできない。

「もっと早く君と出会えていればよかったかもね」

 魔法使いがそういって僕の服の袖はぎゅっと握る。

 彼女の魔法の手が震えているように感じるのはきっと気のせいだ。

そうかもね。

 僕は彼女の手をぎゅっとつかんだ。

魔法でどうにかなんないの?

 僕がそう聞くと彼女は悲しそうに

「こういうときは使っちゃいけないんだ」

 と笑う。

そう

 と僕はそれだけ返す。

 それ以上僕らは何も言わなかった。

 この時間が永遠に続けばいいのにって思う。

じゃあ、いく。

「気を付けてね」

その言葉は運転手さんに言ったほうがいいかもね。

「そうだね」

 僕らは手をぎゅっと握りあう。

 次に彼女の魔法の手を握るのはどれだけ先のことになるだろう。

 けど今はそんなことを考えないで魔法の手の感覚をいつまでも感じていたかった。


 僕は改札に向けて歩き出す。

 後ろは振り返らない。

 だから今魔法使いがどういう顔をしているのかはわからない。

 けど僕は後ろの彼女に見せられるような顔をしていなかった。

 だからたぶんこれでよかったんだと思う。

 手には彼女の手の柔らかい感覚がまだ残っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る