epilogue 僕と彼女と魔法使い  1

『ここがその教室?』

そうだよ。ここで彼女と最初に出会ったんだ。

 二十年近くたっているはずなのに教室そのものはちっとも変わっていなかった。

 机も黒板も当時のままで、本当にあの時にタイムスリップしてきてしまったような気がしてきた。

 まあ、けど大学というものは元々そういうものかもしれないな。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、僕は大学特有の長い長方形の席に腰を下ろす。

『へえ。大学ってこういう感じで授業を受けるんだ』

 美凪(みなぎ)にとって初めての大学というのはどのくらい新鮮に映っているのだろうか。

まあ、授業の内容にもよるけどね。もっと大きな教室でやることもあれば、これより小さな教室で授業を受けることもある。

僕はゆっくりと美凪に向けて説明する。説明が終わると彼女はにまっと微笑みを浮かべた。

『そうなんだ。おもしろそうだね!』

 彼女は笑いながら自らの手で楽しさを表現している。僕は彼女の手から生まれる様々な表現につい見とれてしまっていた。

 美凪は生まれつき耳が聞こえない。彼女は音という世界を知らずに生まれてきたのだ。

 それでも彼女は自分の手で僕に自分の思っていることを伝えてくれる。

 僕は彼女と会話するために必死で手話を学んだ。

 しかし、なんとか僕が手話で自分の思ってることを伝えるころには彼女は既に僕の口の動きで言葉を読めるようになっていた

 僕は入学して初めて授業を受けた時のことを思い出していた。

 最初はどこに座っていいんだかわからずに後ろのほうをうろうろしていた自分。そして大学に慣れるといつの間にか自分の中での指定席が決まる。

 そして次の年になって、僕と同じようにどこに座ればいいかわからないでうろうろしている新入生をほほえましく思っていたっけ。

 教室内はとても静かで遠くで学生バンドの演奏がかすかに聞こえてくる程度だ。

 僕は前もって大学の学生課に電話をしていた。自分が卒業生であることを伝え、教室内に入れてもらえるかを尋ねたら快く了承してくれた。聞くところによると卒業生のそういった問い合わせはよくあることなのだそうだ。

 聞いた話によると、この教室棟は取り壊しが決定しているらしく、もう誰も使っていないらしい。

 そしてちょうど春休みにあたっているようで、この教室だけでなく学校全体が静かな時間が流れていた。

 このままだと美凪が大学は静かなものだと思い込んでしまうかもしれないな、なんてことを思う。また賑やかな時に連れてきてもおもしろいかもしれない。ちょっとパニックになってしまうかもしれないけど。

『ねえ、この教室のどこに魔法使いさんは座っていたの』

 教壇に立って教授気取りの美凪が興味津々で尋ねてきた。

ちょうど今座っているのが当時座っていた場所だったから、この前の席かな。

 一番後ろの席の左端。

 ゼミ形式の授業ではありえないほど教授とは離れた席だ。

 この席から単位を取れたんだから不思議な話だ。

 僕は前の席をぼーっと眺めた。

 なんだか彼女――魔法使いが今にも教室に入って来そうな――そんな気がしていた。


 僕らは大学の学生課に寄って職員の女性にお礼を言った。

 本来だったらこの手の問い合わせは総務課かオープンカレッジの担当が受け付けるらしい。どうやらその職員の女性は担当外だったにもかかわらず僕らを案内してくれたのだ。

 僕が頭を下げると、逆に向こうが恐縮してしまっていた。

「卒業生の方でも、以前は学生さんだったのですから、私達学生課が完全に担当外ってことはないですよ。またぜひ来てくださいね」

 女性はにっこり笑って僕らを見送ってくれた。

『いい人だったね』

 美凪はえらく学生課の女性が気に入ったようだ。

 僕は、そうだね。と彼女の手を引く。

『昔もあんなにいい人ばっかりだったの?』

 僕はなんとか思いだそうとしたが結局思い出せなかった。

 内気で引きこもりがちな学生にとって学生課なんて長居したい場所じゃなかった。用事だけすませてとっととアパートへと帰った覚えしかない。

『内気で引きこもりがちだったなんて信じられない』

 あまりにも驚いたような顔で彼女が僕の顔を見るから少しムッとしてきてしまう。

 そりゃあ仕事をし始めて、引きこもりがちではなくなったが、根の部分はあのころと変わってないのに。まあ、彼女の前ではその姿を見せてないから当然といえば当然か。

 僕らは学生課がある中央棟から正門へ向かって歩く。

『あれは何?』

 彼女が指を指す場所には、数人の学生が正門の近くで何かを見続けている。

あれは掲示板。

『掲示板って廊下とか職員室の前にあるあれ? なんでわざわざ外にあるの?』

高校みたいにいちいちホームルームがあるわけじゃないんだ。だからみんなの目にとまりやすいように外に掲示板をおいてそこに連絡事項を貼っておくんだ。休講情報だったり、教室移動だったり試験日程だったりね。

『へー。やっぱり面白いところだね』

うん、今は春休みだから貼ってあるとしたら、大学入試の合格発表だったり、大学卒業単位の認定の合否だったり、そんなところだろうね。

『ふーん』

 近づいてみると掲示板の様子はあのころと変わっていなかった。

 あの頃と同じように試験範囲が貼ってあったり、違法に駐車した自転車のナンバーが書いてあったり、サークル別の卒業アルバムの撮影日が書いてある。

 やっぱり二十年ぐらいの月日じゃびくともしない歴史がこの場所にはあるんだろう。

 そして思った通りに掲示板には卒業単位認定の用紙が学科別にずらりと並べられている。

 それを見ただけで僕は二十年前にタイムスリップしてしまう。

 いつもは忘れていたはずの卒業発表の日。蓋が開いたかのように次々とあのころの様子を鮮明に思い出すことができた。


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