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煮干しはね。だしをとるまえに頭と内蔵をとっておく。そうすると臭みがとれて上品なだしがとれるわけだね。

「すごいや! さすが味噌汁の貴公子だね! さっさと嫁に行け!」

 意味が全く分からない褒められ方をどうもありがとう。

 まあ、味噌汁の貴公子ではなくたって、一人暮らしをしてれば自然と味噌汁の一つや二つ作れるようになるさ。

 さっきの千里さん作の味噌汁らしい何かとは違った味噌汁ができあがろうとしていた。

 ちなみにあの味噌汁らしきものは今頃、大学で飼われている犬の餌になっていることだろう。犬が食べてればの話だが……。僕が犬だったらそんな得体のしれないものは食べないけどね。

 味噌を溶かしたあとはすぐに火を止める。煮立ってしまうとおいしくないからね。

「うわ、本気でおいしそうじゃん。まるでひこまろみたいだね!」

 食レポじゃなくて、せめて料理自慢の芸能人で例えてくれ。なんの宝石箱でもないただの味噌汁なので。

 熱いうちに器によそって、千里さんの前にご提供。

「じゃあ、いっただきまんもーす」

 マジでヤング達に流行ってるの、それ。たぶん二一世紀には絶滅しつつあるであろう食事のあいさつで僕らは味噌汁をすすりはじめる。

「うまー。インスタントの五〇〇倍はうまー」

そうでしょ。ちゃんとだしをとるとここまで違うわけ。覚えておいてね千里さん。

「うん、覚えておく」

そうすれば、いつかお母さんになった時にも困らないね。

「……お母さんか」

 千里さんはそう言うと箸を止めて少し何かを考えているようだった。

あれ? 何か変なこと言っちゃった?

「ううん、言ってないだけど私最近考えることがあるんだー」

 また魔法使いの魔法にかけられたようだった。彼女に目を見つめられるだけで僕はこの魔法使いを好きになってしまうのだ。

 じっと僕らは顔を見合わせる。すると千里さんはふっと吹き出して、小さく笑った。

「いや、あのね。こんな風に君と過ごしてるのが居心地が良すぎるんだ。ずっとこの居心地のいい空間にいすぎて時間があっという間にたっちゃうんだ」

 なんだか彼女の顔が悲しげに写る。僕は彼女の言いたいことがなんとなく分かっいた。

「もう、私達は三年生になっちゃうんだよ」

そうだね。

「二十歳を超えてからの時間の流れがあまりにも早すぎて、そうしたらあっという間に大学卒業して――、君が言うようにお母さんになったりするんだろうね」

 そうなのだ。大学に入って二十歳になったあたりからの日々の流れていくスピードが本当に早すぎる。そのスピードに振り落とされないように必死に僕は生きてる。それでもいろんなことを振り落としながらもなんとかしがみついたらもういつの間にか僕らは大学三年になってしまう。

 もう、就職活動とやらが始まる。早いところだと卒論指導なんかも始まるらしい。

 振り落とされないようにしがみついてなんとか着地したら、もう周りが大人になっていく。僕なんて子どものままなのに。僕だけじゃあ何もできない子どものままなのに。

「あ、お母さんになれたらの話だけどね」

 彼女はそう言って、笑う。自虐と不安が交わったぎくしゃくした笑いだ。

なれるよ。

 そういうと、彼女は何故かほっとしたような笑みに変わる。

 このまま、あっという間に時間が過ぎればこの空間にいつまでもいるわけにはいかない。もしかしたらこのアパートを出なければいけないかもしれない。もしかしたら二人は別々に暮らすかもしれない。もしかしたら、もうこんな風には会えないかもしれない。

 そんなまだ先に思えて、すぐそこにも思える不安を僕ら二人は感じていた。

「なれるかな」

 もう一回、彼女が聞いた。

なれるよ。

 僕は同じことを繰り返した。

「なれるかな」なれるよ。

「なれるかな」なれるよ。

 そんなことを繰り返した後、僕らはだまって目の前の味噌汁を見つめる。ds

 味噌汁は少し冷め始めていた。僕らはそんな小さな湯気の中、勝手に不安とくすぐったさに包まれたまま、味噌汁をすすっていた。


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