3
「今から結婚生活をしてみようと思います!」
魔法使いは胸を張って宣言する。
彼女は僕を無理矢理起こすやいなや、「ナイスアイデア」と言わんばかりに僕に一つのことを提案してきた。
それは「夫婦ごっこ」をすることだった。
つまり疑似結婚生活をこれからするわけなのである。ああ、なんて平和なんだろう。そしてなんて大学生って暇な人種なんだろう。
「というわけで、さっそく始めようか」
この魔法使いはヤケにノリノリである。
始めるたって……なあ。
正直な話、何をしていいか全くわからない。
「まずは結婚指輪をするところから始めるんだよ」
この魔法使いは基本的に変なことを言うらしい。いや、わかってはいたけど。
いきなり何を言い出すの? 結婚指輪を買うお金なんてあるわけないじゃない。自慢じゃないけど僕は奨学金というすばらしい借金制度のおかげで今生きているんだよ? 結婚指輪を買うお金なんてないよ。
結婚指輪どころかペアリングを買うお金もないんだろうな。そう思うと無性に悲しくなってくる。たぶんペアリングなんて高校生カップルだって持ってるいぞ。知らんけど。
やっぱりバイトの一つぐらいやったほうがいいのかもしれない。
「わかってるよー。そんなことは。君がどうしようもない貧乏学生で、それでいてどうしようもないほどバイト不適合人間であることはよくわかってる」
あれ、おかしいな。目から液状の物が――、しかも全くもってその通りなので言い返すこともできない。
「これをつかうのです」
彼女は髪をまとめていたヘアバンドを外す。
するりと髪がほどけて、肩にかかる。
どうしよう。この魔法使いがすごく、すごく好きだ。
「はい」
そのヘアバンドを僕に渡してくる。
「はめてください」
すると彼女は左手の薬指を僕の方に向けてきた。
綺麗な指だな、といつも思う。
ささくれひとつなく、爪もちゃんと整えられてくる。
魔法使いはこんなにも身だしなみがしっかりしているものなのだろうか。もしくは、魔法使いはささくれもできないし、爪も伸びないのかもしれない。
ヘアゴムを小さくまとめて小さな輪にすると彼女の薬指にはめてやる。
たかがこんなことなのに無性に緊張した。
指が震えた。
そんな僕の様子を見て彼女は優しい笑みを浮かべる。
やっぱり僕は何をやっても絵にならないなって思う。これから先もずっと――。
「むふー」
魔法使いは満足そうだった。一方の僕はというと自分への劣等感に溺れていた。
「というわけで、ふつつかものですが、よろしくお願いします」
彼女は床に手を合わせてぺこっとお辞儀してみせる。
普段そんなことをされることがない。というより普段からこんなお辞儀をされている大学生なんていないと思うが――。
またまた緊張してしまっている。
こんな「夫婦ごっこ」で緊張している僕は本当に大丈夫なのだろうか。
これから大学を卒業して、ちゃんと暮らしていけるのか、そんなどうでもいいことばっかりが頭の中を頭をぐるぐる回っている。
とりあえず僕もぺっこりとお辞儀。
お互い頭を上げて二人で笑った。
笑っていたらさっきまで考えていた劣等感だとか不安なんかがふっとんでしまった。
きっとどうにかなるのではないかな。この魔法使いがいればきっと――。
いざ、「夫婦ごっこ」を初めてみたはいいけど、結局やることはいつもの僕らと同じだった。返却期限が近いDVDの映画を二人でみたり、彼女が文庫本を読み耽っているのを僕が一方的に眺めていたり、僕が食器を洗っているのを彼女がオリジナルの変な踊りで邪魔をしてきたり、いたって日常の僕らだった。
「結局、結婚ってなんなんだろうね」
魔法使いも僕と同じ疑問を持ったようだ。
「これじゃあ、いつもと一緒だもんね」
結婚ってそういうものなんじゃないの。よくわからないけど。
「そうなのかもね」
また二人で笑った。
きっと結婚って好きな人と楽しく過ごすことなのだろう。まだまだ僕らが子どもだからよくわからないけど、今はこれでいいと思う。
「あ、そうだ。私帰らないといけないのだった。宅配便が届くのだ!」
家から?
「そう家から。めんどうくさいなー。きっとリンゴだよ。鬼みたいに大量に送ってくるのだよ」
彼女の地元ではリンゴ農家が多いらしく、秋になると家にあふれるほどのリンゴがあるのだという。
「届いたらここに持ってくるからね。全部」
おっと、それは押しつけというものなのではないかな?
「私は魔法使いだから『押しつけ』って言葉の意味がわからない」
便利だな。魔法使い。僕もなれるものだったらなりたかったね。
「じゃあ、ここで『結婚生活体験版』はおしまいですね」
そんなゲーム雑誌のおまけみたいなタイトルがついていたのね。
そうなるかな。
「またやろうね」
そう言うと彼女は左指の薬指の結婚指輪――もとい、ヘアゴムを外して、再び髪を一つにまとめた。
「じゃあね」
うん、帰り気をつけてね。
「ありがと……あ、一つ忘れてた」
え、な――。
そう言いかけた時だった。
彼女の小さな唇が僕の唇をふさいだ。
緊張を通り越してショート寸前になる。もはや自分が何をしているのかわからない。ただ甘かった。そして柔らかかった。
「『行ってきます、のちゅー』だよ。そんじゃあね」
そう言って魔法使いは僕の部屋を出て行く。
ホウキで空を飛ぶわけでもなく、ワープするわけでもなく、徒歩で。
「夫婦ごっこ」がおしまいなんて嘘じゃないか。どうやら「夫婦ごっこ」は彼女の中では続行中らしかった。今度彼女が僕の部屋に来る時は『おかえりのちゅー』が待ってるのだろうか。口の中の甘さを感じながら僕は一人そんなことを思っていた。
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