第三章 僕とヘアゴムと魔法使い 1
喉がからからになって目が覚めた。もう九月とは言えまだ涼しくなるには早いようだ。僕は起き上がって、おもむろに冷蔵庫を開ける。
何もなかった。
普通「冷蔵庫に何もない」という状態は、少なからず何かしらのものが入っているものだ。 卵が一個あれば万々歳。中途半端に残ったタマネギやらキャベツやらが転がっていれば上出来。最低でも弁当についてきたけど使わなかった醤油だとか、持ち帰えり用の寿司についてきたけど結局食べなかったガリだとか、そんなものがいかにもすまなそうに置いてあるものなのだが、今回の場合は違う。
本当に何もないのだ。買ったばかりの時と全く同じ状態。
唯一違う点があるとすれば、飛び散ったキムチの汁やら醤油やらで軽く芸術的なデザインがついているぐらいのものだ。
何もないということは、この病的な喉の渇きを癒やしてくれるものが一切ないということになる。
ひょっとするとこれは命に関わるかもしれない。熱中症で命を落とす人が珍しくない昨今、これは決して大げさな表現ではない。
僕は意を決して水道の蛇口をひねる。
じゃあっ、とあまり勢いが強いとは言えない水を手ですくい、口元へと運ぶ。ぬるい液体が喉を通るのがわかった。
まずい。もう――いらない。
僕の住んでいるアパートの水は壊滅的に不味い。
最近は、都心でも美味しい水が飲める、という話を聞く。それは本当かもしれない。
けど都心で美味しい水が飲めるからと言って、日本の全ての地域で美味しい水が飲めるかというとそうではないらしい。
実際、この水道の水は美味しくないのだから。
なんだか釈然としないが、これが現実ならば受け入れるしかない。
ただでさえ家賃の相場が安いこの土地の中でもさらに安いボロアパートを選んだのはこの僕なのだから。
このぬるまずの水でも喉は潤せる。やっぱり水って偉大だな、と思う。
けどもし、今度引っ越すことがあったら水が美味しいところにしよう。そう心に誓いながらも僕はぬるまずの水を喉に押し込む。
だけど引っ越しなんていつになるだろう。少なくとも大学四年間はこのアパートで過ごすことになるのだ。そうなると次は就職する時か。はたまた結婚する時か。
結婚。
この響きに僕はどきっとしてしまう。
今年、僕は二十歳になった。アルコールも飲めるし、たばこも吸える。選挙に投票もできる。
そして、親の承諾なしに結婚することができる。
二十歳になったということは未成年から成人になったということである。
だけど成人になったからと言って僕は何をすればいいんだろか。一九歳から二十歳になったからと言って何かが急激に変わるわけがない。まだ僕自身は子どもなのだ。
身長も体重も中学生のころからあまり変わらずにここまで来てしまった僕は、たぶん心も中学生のままなんだろう。きっと成長するための燃料を置いてきてしまったんだろう。
だから、未だに人と話すことはおろか、目を合わせることもできないんだ。
そう人とは――。
「どうしたの? 朝から難しい顔して」
一人暮らしのボロアパートにそぐわない柔らかくて優しい声が聞こえる。
いや、別に。あ、そうだ。おはようございます。
「あ、どうも。こちらこそおはようございます」
僕は声の主に頭を下げる。すると向こうもぺこっと頭を下げてきた。
そして、僕らはお互いの顔を見つめる。彼女の薄青くすんだ瞳は思わず吸い込まれそうになるほど美しいものだった。
僕は、人と話すこと、目を合わせることはできない。でも彼女とはこうやって、会話を交わして目を合わせることができる。
なぜか――。
それは彼女が魔法使いだからであり、僕は彼女の魔法にかかっているからだ。
長い夏休みが終わって早いもので一週間が過ぎた。
バイトもサークルも資格の勉強もしていない僕は完全に長い夏休みを持てあましていた。
無駄に一日に五回くらい寝てみたり、無駄に一二時間ぐらいぶっ続けでラジオを聞いたり、無駄に五本連続で映画の半額になったレンタルDVDを見たりしていた。
それでも時間があまるのだから大学生の夏休みというのは恐ろしい。
僕が暇を持てあましている時も、クラスメイトであり魔法使いでもある高峰千里さんは僕のアパートにたびたびやってきていた。
そして今日は学校が始まって最初の土日。夏休みの習慣が抜けていないのか、彼女は僕の部屋にやってきていた。
僕のアパートに来て何をする――というわけではない。
まず、部屋に入るなりごろーんと寝っ転がると持ってきた文庫をおもむろに読み始める。
喉が渇いたら勝手に紅茶を淹れる。もはや彼女専用となった魚へんの漢字が一杯書いてある湯飲みに紅茶を注ぐとそれをゆっくり飲みながら文庫本との対決を再開する。お腹が減ったら、勝手に冷蔵庫を開けて、適当にもしゃもしゃと食事をする。
冷蔵庫が空っぽになるのはこういうわけだ。
もっとも元々冷蔵庫にはろくなものを入れていないので、彼女が僕の食料を食べ尽くしてしまうほどの大食漢というわけではない。
というより、僕が食が細い上にあまり、食べ物の興味がないという部分も大きい。
僕はよく食事を忘れる。気がつくと丸一日何も食べてないということもざらである。
この魔法使いもあまり多く食べるほうではない。しかし、食べる倍の量のお酒を飲む。
どうやら魔法を使うにはエネルギーがたくさん必要に違いない。
とにかく、僕の冷蔵庫にはとにかく食べ物が入っていない。それこそピークの状態で卵一個とか使いかけのキャベツやタマネギしか入っていないのだ。
お腹すいた?
僕は魔法使いに聞いてみる。
「お腹がすいて目が覚めた」
魔法使いは小さなお腹をさすって「お腹がぺこぺこです」というアピールをした。お腹が減っては魔法を使えない。それは困る。
僕が彼女と話したり、目を合わせたりできなくなってしまうじゃないか。時計を見ると午前九時になるところだった。ちょうど近くのスーパーが開店する時間だ。
スーパーに朝食を買いに行きませんか?
「何? それナンパ?」
生まれてこの方ナンパとは無縁な人生を送っているからよくわからないが、そんなナンパのする人はいないんじゃないだろうか。
というよりナンパって朝の九時から行うものなんだろうか。けどなんとなくだが健康には良さそうな気がする。『ナンパ健康法』っていう本とか出てたり……はしないな。おそらく。
そうそう。ナンパなんだ。実は。ヘイ、ヨー!
「オー、ヘイ、ヨー? じゃあ、ナンパされるからスーパーに連れて行ってください」
じゃあ、行きますか。ヘイ、ヨー。
たぶん、実際のナンパとはほど遠いであろう誘い文句で、僕は彼女をスーパーへと誘った。
着の身着のままの格好でアパートを出る僕ら。とは言っても、僕は黒いタンクトップに紺色のジャージのズボン。彼女は水色のTシャツにデニム生地のショートパンツ。外を出歩くのに特別おかしな格好をしているわけではなかった。
今日の魔法使いは長い髪をヘアゴムで一つにまとめていた。
男って本当に馬鹿な生き物なのだなって思う。
だって、普段と違う髪型を見せられるだけで、胸が痛くなるほど、彼女のことをもっともっと好きになってしまうのだから。
周りの人にどう思われているのだろうな、なんてことを考える。
もしかしたら、兄弟に見えるかもしれないし、もしかしたら友達同士に見えるかもしれない。けど、もしかしたら夫婦に見えているのではないか、そんな希望を持って僕は歩く。
「ん」
彼女が魔法の手を差し出してくる。
ん。
僕は魔法の手をそっと握る。
その手は魔法のせいかとてもすべすべしていて、とても柔らかかった。
ごめんなさい。僕の手はちょっと汗をかいているからべとべとしているかも。
「うん、君の手は妖怪『べとべとん』だね」
何それ。
「べとべとしているけど、手をつなぐにはちょうどいいという妖怪『べとべとん』」
彼女は僕の手をぎゅっと握り替えしてくる。指と指を絡めてやると魔法使いは少し頬を赤らめた気がした。
もしかしたら、千里さんは魔法使いなんかじゃなくて雪女なんじゃないかって思う時がある。
残暑真っ盛りで太陽がじりじりと照らしているというのにものすごく涼しい顔をしている。こっちが手にこんなに汗をかいているというのに彼女の手はさらさらで、それでいてこんなにさっぱりしている。
彼女は雪国の生まれだから雪女というのはあながち間違いじゃないかもしれない。
雪女は年をとらない。
彼女の容姿が幼く見えるのもそのせいかな、なんて思う。確か、雪女は正体を隠して主人公と結婚して十人の子どもをもうけて、それで自分が雪女だってことをばらすのだよな。
結婚。
どきっとした。
確かに僕らは十八歳を超えて親の承諾なしに結婚できる。
勝手に頭の中で家庭を持つことを想像することがある。一戸建てのマイホームにまだ小さな自分の子ども、その横には自分の愛する妻。その妻の顔だけが想像できずにいた。
もしかしたら、そこには今手を繋いでいるこの魔法使いが入るのだろうか。
そうであればいいなと思う。ずっといたいなと思う。だけど僕はそんなことを現実的に考えられるほど大人じゃないみたいだ。
「どうしたん? 黙っちゃって。夢でも見ていた?」
魔法使いは首をかしげて僕の顔をのぞき込む。今に抱きしめてやろうか。そんなことを思ったがやめておく。
いや、朝ご飯何にしようか考えていた。
「食いしん坊だね。君は。すごくいいことだよ。そういうとこ私は好きだな」
今度は僕の顔が赤くなる番だった。
これは別に僕が赤面症なわけでも、この短時間で日焼けをしてしまったわけでもない。
開店直後ということもあって、近所のスーパーは人がまばらだった。
今は人がまばらだが、午後のタイムサービス時は人が芋洗い状態になるほど混み合う。
このスーパーはとにかく安い。それだけ品質の保証はできないのだが、僕のようなバイトもしないで奨学金とほんのちょっとの仕送りでなんとか生きている貧乏学生には実にありがたい。といっても人混みの苦手な僕は、タイムサービス時には滅多に近づかないのだが、タイムサービス以外でもここでは食材が安く手に入る。
買い物カゴを持ってパンのコーナーを漁っていると、魔法使いがやってきて横からカゴにビールをこれでもかってほどに入れていく。
ねえ、千里さん。今僕らは朝ご飯を買いに来ているのだよ?
「主食だよ。主食」
この魔法使いはお酒が主食らしい。お酒は飲み物です。
それにしてもこの魔法使いはよくお酒を飲む。たぶんお酒を飲むことでマジックポイントを回復させているんだと思う。
この魔法使いは特にビールが好きらしく、水のかわりぐらいにビールを飲む。
その割にはあまり酔っ払うことがない。顔に出ることもないのでまるでお酒を飲んでいないかのようである。
もしかしたら魔法でビールのアルコール分をなくしているのかもしれない。
ただそんなビールははたして美味しいのか、という疑問は残るが――。
僕はいつものように薄切りの食パンとベーコンと卵、そしてインスタントのカップスープを買った。
「何を買ったのかな、少年よ」
何って、いつも通りだよ。
「もうちょっと冒険してみたらどう? たまには塩辛やキムチや枝豆なんかを買ってみるってはどうだい」
朝からどれだけ本気で飲むっていうのだ。この魔法使いは――。
「て」
スーパーからの帰り道、魔法使いが何かを小さくつぶやく。
何?
「……て」
そう言うなり、僕の手に指を絡ませてくる。ああ。「手」って言ったのか。
彼女の手を握り返す。
魔法使い、もとい雪女さんの手はやっぱり冷たかった。
確かにキンキンに冷えたビールの缶を持っていたから彼女の手が冷たいのもわかる気がする。だけど、やっぱり彼女の手は冷たい。
手が冷たい人は心が温かいなんて話を聞く。この話を初めて聞いたのは確か小学生の時だったかと思うが、そのときは
じゃあ、寒いところに住んでいる人はみんな心が温かいのだね。
と言って家族に笑われた。
二〇歳になった今では、必ずしもこの法則があてはまるとは思っていない。
だけど、今、手を握っているこの魔法使いはきっと心が温かいのだと思う。そう思えるだけでなんだか幸せな気がした。
アパートに帰った僕は、フライパンを温めてベーコンを焼く。
油はいらない。熱したベーコンから十分すぎるほどの油が出てくるからだ。
カリカリになったところでベーコンを取り出す。その油で今度は卵を焼く。僕はスクランブルエッグ、魔法使いは半熟の目玉焼きを食べる。
「君の目玉焼きは世界を救えるくらい美味しい」
彼女はそう言っていつも僕の作った目玉焼きを食べる。
一緒に目玉焼きを食べられれば、手間も少なくて僕の調理も楽になるのだが、僕はどうしても半熟の黄身が苦手だった。
自分が苦手なものを人のために上手に作っている。なんだか自分でもすごく変な感じだ。
味見もせずに僕は目玉焼きを皿に盛り、カリカリベーコンを添える。
そして自分用にやや堅めのスクランブルエッグを作る。
すると横からひょいっと手が伸びてきて、ベーコンを持って行かれてしまった。
犯人は言うまでもなく銀縁眼鏡の魔法使いで、右手には既にビールが握られていた。
ビールは魔法使い愛用の魚へんの湯飲みに注がれている。
この湯飲みはティーカップにもなるし、ビールのジョッキにもなるらしい。
これだけ便利に使われれば、これをくれた寿司屋の大将もさぞお喜びだろう。いや、喜びはしないか。本来、お茶が入るべきところに紅茶だのコーヒーだのビールだのが注がれているのだから。オーブントースターからはトーストの焼けた良いにおいが漂ってきていた。
魔法使いはトーストの上に目玉焼きを乗っける。
彼女曰く、子どもの時に見たアニメに影響されているらしい。
空から女の子が降ってきたのを親方に報告したり、四十秒で支度をしなければいけなかったり、眼鏡の男が追っかけてきて目が痛い! みたいなアレだ。
ただそのアニメのヒロインと明らかに違うのは、右手のビールを離さないということだろう。たぶんあのヒロインがビール片手に持ってほろ酔い状態で空から降ってきたら主人公は彼女を受け止めもしないだろうし、天空の城まで彼女を助けに行かないだろう。
「ん……何? じっと見てるの? あ、気づかなくてごめん。飲む?」
いや別にビールが欲しくてあなたを見ていたわけではないのですが。
「そう、じゃあ全部飲んじゃうよ? いいの?」
いいですよ。別に。
「あら、私を酔わせてどうするつもり?」
いや、別にどうするつもりはありません。僕のすることと言えば、この後ほろ酔いで眠るあなたにタオルケットをかけてあげることぐらいです。
予想通りに彼女は横になるなり、静かに寝息をたて始めた。
この寝顔を見ていると彼女は魔法使いじゃなくて天使なんじゃないか、って思う。
僕は予定通りに彼女にタオルケットをかけてやる。千里さんはきっと魔法使いの中で一番休みを満喫しているんだろう。
ねえ、結婚する?
ぼそっとつぶやく。もちろん彼女には聞こえないことはわかった上でのこと。
答えなんかいらなかった。というより答えられると少し困ってしまうかもしれない。
当然答えは帰ってこなくてその代わりに、静かで優しい寝息が聞こえてくるだけだった。
それにつられて僕もいつのまにか眠気が襲ってきてしまっていた。
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