7
後悔した時はすでに遅かった。
あろうことか僕はこのどうしようもない夏休みのことを彼女に話してしまっていた。
たぶんこんな話は人にすべきことではないんだろうと思う。
だから僕は基本的に人に自分のことは話さなかった。というよりここ最近は人と話すこともなかったのだが、なぜだろう。気がついたら彼女に絶望的に引かれることうけあいな話をしてしまっていた。
もしかしたら徹夜続きで多少テンションが高くなっていたのかもしれない。
どん引きされるのは正直覚悟していた。
もしかしたら彼女と話すのもこれで最後かもしれなかった。なんであんなことを話したのだろうという後悔で一杯だった。
僕が話終えたとたんに彼女はすっと立ち上がった。やっぱりなと僕は視線を下に向ける。
その瞬間、ふわん、と頭に何かに包まれた。
それが彼女の手だということがわかるのには少し時間がかかった。
柔らかくて暖かい彼女の魔法の手。
もう人の前では白いミトンはつけることはなくなった。彼女は魔法の手を自分自身で認め始めていたのである。
やめてよ、と僕は言った。というのは別になでられる行為そのものがいやだったわけではない。徹夜明けでボサボサで油っぽい頭を彼女に触らせることに抵抗があったからだ。
「ううん。やめない」
悪戯っぽい口調な彼女は言葉通りなでるのをやめなかった。悪戯っぽいのは口調だけでなでる手はとてもゆっくりで優しいものだった。僕は抵抗することを諦めて彼女に身を任せた。
「つらかった?」
彼女の問いに僕はちょっとだけ考えて「わからない」と返す。
つらかったのかもしれない。ただつらかったという記憶があまりない。
同級生に嘘の笑顔を作っていたのはあの夏休みだけじゃない。地元にいる間僕はずっと笑っていた。確かにおもしろいから、楽しいから笑っていたわけではなかった。
あのころの僕はつらかったのか。そう過去の自分に問いかける。痛みが止まない腹部を自分の手でなでる僕に問いかける。お前、つらくないか。
一粒の涙が頬を伝うのがわかった。それが過去の自分からの答えだったに違いない。
僕は彼女に顔を見られまいと僕は足下に目を落とした。それでも彼女は変わらずに僕の頭をなで続けてくれている。
涙がとまらなくて僕のジーンズに斑模様を作る。
試験前のはずだった。これから試験に臨むはずだった。
涙がこぼれ落ちるのと同時にどんどん知識が抜け落ちていくような気がしてくる。
試験前に泣いてる大学生がどこにいるのだろう。しかも女の子の前で。こんなにかっこわるいことがあるだろうか。
時計は八時を回っていた。
もう単位のことなんてどうでもよかった。ただただ彼女の前で僕は泣き続けていた。
気がつくと僕は布団に横になっていた。
時計は午後の四時を回っている。
もうとっくに「法哲学」の試験は終わっていた。結局試験を受けずじまいになってしまっていたのだ。出席をしなかったのでもう追試も受けることもできない。
だけどなぜか気分はすっきりとしていた。久々にまともな睡眠をとったからだろう。
横になった記憶がないから眼鏡をしたまま眠ってしまったのだろうと枕元を探して見るが一向に自分の眼鏡は見つからなかった。
起き上がって周りを見渡すとパソコンデスクに自分の眼鏡らしきものを見つける。
寝ぼけている自分が律儀にパソコンデスクに眼鏡を置くわけではないのできっと彼女がここに置いてくれたのだろう。
僕は眼鏡をかけると彼女を探す。
どうやら彼女は部屋から出て行ってしまったらしく、彼女のカバンも靴も見当たらなかった。
そうだよな。こんな朝から泣き出して寝てしまう男の部屋になんかずっといる理由なんてないもんな。それに彼女だってまだ試験は残っていただろう。僕と違って優秀な彼女のことだからもしかしたら図書館で試験勉強でもしてるかもしれない。
僕は試験勉強で荒れた部屋を片付けつつ、試験の時間表を確認する。すると今日の「法哲学」の試験で僕の試験全日程がほぼ終わっていたことに今更になって気づく。
正確にはあと二教科ほど残っているのだが、その講義の感想を数行書くだけ、という試験対策もなにも必要ないのでもう眠い目をこすってモニターとにらめっこする必要はなかった。
何もする必要はないとわかると急にもの寂しくなってしまった。
試験中はいろいろとやりたいことがたくさんあったはずなのに、いざ急に暇になってしまうと何も思い浮かばない。
ただ魔法使いに会いたくて仕方がなくなっていた。
一応彼女の電話番号もメールアドレスも僕の携帯には入っている。
だけど彼女は今試験中かもしれないし、勉強中かもしれない。そんな彼女に連絡するのは気が引けた。
もう一眠りしてしまおうか。そう思った瞬間、階段を上がっていく音が聞こえてきた。
彼女だったらいいな。そう思いながら僕は布団にもぐりこんだ。
「まだ寝てるの?」
昨日と同じ服を着た彼女はコンビニの袋をぶらさげながら僕の前に現れていた。僕はとりあえず狸寝入りをしてみる。
「そこ。寝たふりしない」
なんでばれたんだろう。
「眼鏡。したまま寝ないの――でしょ」
どうやらこの魔法使いには全てお見通しらしかった。
どこ行ってたの? と尋ねると「これ買ってきた」とコンビニ袋から缶ビールを取り出した。
彼女は僕の横に座ると「ほいっ」と僕にビールを渡す。
何で? と僕が言い終わる前にプシュウっとプルトップを開けていた。
僕もそれを見て缶を開ける。
そこそこ歩いてきたようで泡がこぼれそうになったので思わず口を押しつける。
「あー、フライングだ」
いや、これは不可抗力だよ。
「まあ、いいや。乾杯しよ」
タンっと軽く缶ビール同士をぶつけ合うと僕はビールを思いっきり喉に押し込んだ。
起きたばかりの喉に痛いくらいに弾ける炭酸がなんとも心地よい。
同じく喉を鳴らしてビールを貪り飲んでいる彼女も「くぅあ」とおっさんみたいな声を出す。
「やっぱり昼からのビールは格別だね」
うまい――けどさ。何で?
「何でって?」
いや、さっきフライングとか言ってたから。
「ん? 夏休みが始まるお祝い」
彼女はそう言い終わるや否や缶ビールを一気に飲み干した。
ってことはもう試験終わったの?
「うん、さっきね――」
僕が寝てる間に試験に行ってきたのだろうか。
「時計見たら試験時間終わっていた」
彼女はそう言うと二つ目のビールを開けていた。ということは君は今の今までアパートにいたってことで――。
「うん、君の寝顔を観察してました。今度この様子を論文にして発表しようと思ってる」
そんな一単位にもならない論文は書かない方がいいと思う。
「それでね。君も今日試験があるのに寝ちゃってて、単位を落とすだろうと勝手に思ってビールを買いに走ったのだ」
なんでそんなことまでわかったの。正解だよ。
「ふふん。魔法使いの勘ってやつだよ」
そこは魔法使わないんだ、というツッコミは言うだけ野暮な気がした。
窓から心地よい風が部屋に入ってくる。
僕らは缶ビールを三本ずつ開けてお互いほろ酔い気分で風にあたっていた。
窓から外をのぞくとなぜだかいつもより騒がしい気がした。今日は平日なのになぜ――そんなことを考えてると、彼女が僕の手をぎゅっと握ってきた。
「それじゃあ行きますか」
なんのことだかわからなかった。
何処へ、何をしに? そう聞く前に彼女はぐいぐいと手を引っ張って外へと僕を連れていく。
連れて行かれた先は近所の商店街だった。
普段は寂れているはずの小さな商店街にはいろんな種類の出店が並んでいた。
どうやら商店街規模のお祭りがやっているらしい。縁日と呼べるほど大きなものではないが、浴衣を着た中高生や家族連れで賑わっている様子だった。
「行こう?」
僕の手を魔法使いは僕の手を優しく握る。正直こういう出店の中を歩くのは生まれて初めての経験だったから思わず足がすくんでしまう。
「大丈夫だよ。この夏は私が君を守ってあげる」
彼女は僕の手を引っ張って人混みの中へ連れて行った。自然と重かった足も彼女の後を追えるようになる。
やっぱり彼女は魔法使いなんだと確信した。
僕の手を握った後、彼女の顔が少し赤くなる。さっきのビールが今頃顔に出たの……なんて聞くのはなんだか恥ずかしかった。
もしかしたらそれは魔法の代償なのかもしれない。僕は黙って魔法にかかることに決めたのだった。
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