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夜は完全に明けていた。時計の針は午前六時を指し示している。
正直なんとかなりそうになかった。結局、今の今まで「試験前の馬鹿力モード」は発動することはなかった。
ここに来て一つの疑惑が浮上してくる。
実はこのモードは女の子が横に寝ていると発動しないのではないか、ということである。
いや、もう疑惑どころじゃない。これは確信だ。
女の子――というより千里さんが僕の横に寝ていると「試験前の馬鹿力モード」は発動しない。絶対に。
僕の頭の中には暗記すべき文章が入ってくるどころか彼女の寝顔ばっかりが埋まっていく。たぶんもう僕の頭には文章が入るスペースはない。
僕は試験を半分諦めて魔法使いの寝顔を眺める。
彼女の幸せそうな寝顔を見ていると試験なんてどうでもよくなっていく。
目の先の試験のことだけじゃない。
大学のこととか、就職活動とか、これから選ぶゼミとか、卒業してからのこととか、今まで手を付けずに放っておいてあるこれから先への漠然とした不安をも彼女の寝顔を見ていると忘れてしまいそうになるのだ。
緩やかな寝息が止まった。彼女の小さな瞼がゆっくりと開いていくのがわかる。
起きた?
僕が尋ねると彼女はゆっくりと頷いて「起きた」と返してきた。
「ここ、私の家じゃないね」
眼鏡をかけていなくてもここが自分の家ではないことはわかったらしい。僕はこたつの上に置いておいた眼鏡を彼女に差し出す。
眼鏡をかけた彼女はやっぱり高峰千里さんに間違いがないようで一気に見覚えのある顔になる。 だけどやはり瞼は重そうで全体的にとろーんとした雰囲気を醸し出している。やっぱりまだ眠いらしい。
「おはようございます」
彼女は瞼が重いながらもぺこっとお辞儀。僕もそれにつられて「おはようございます」と頭を下げた。
「今何時?」
そうね。だいたいね。
「え?」
何言ってるの? という顔で千里さんがこっちを見てるので無償に恥ずかしくなった僕はパソコンデスクに置いてある目覚まし時計を彼女に渡すと流し台へと逃げた。
「ねー。何が『だいたい』なの?」
すいません。忘れてください。お願いします。もうしません。
「……変なの」
どうやら僕をからかってるわけでもなく彼女は純粋に知らないようだ。
そんな彼女の無垢なところが死ぬほど好きなのだが、この気持ちをどう処理していいかわからない。
僕は電気ケトルでお湯を沸かすと、粉末のインスタントコーヒーを入れた例の寿司屋の湯飲みに注いだ。
「湯飲みにコーヒー」は「湯飲みに紅茶」に負けず劣らずのミスマッチさだが、マグカップというものがないものはしょうがない。自分の分は味噌汁用のお椀に注いだ。
「まさかずっと試験勉強してたの?」
僕が部屋に戻ると千里さんはパソコンデスクにある栄養ドリンクの数を数えていた。
まあね。
僕は湯飲みコーヒーを千里さんに渡すと彼女の隣に腰を下ろした。
何のツッコミもなしに湯飲みに口をつけている彼女を見ているとマグカップくらい買ってもよかったんじゃないかという気になってくる。今度百円ショップでものぞいてくるか。
「あひゅい」
千里さんは涙目ながらに訴えてくる。どうやら「熱い」と言っているようである。
そりゃあいれたてだから熱いのは決まっているのだが、涙ぐんでいる彼女が可愛らしくみえたので黙ってその様子を観察することにした。
ふーふーと子供らしい優しく息を湯飲みに吹きかけてゆっくり恐る恐る口にコーヒーを運ぶ。
「――うま。君は法律を勉強してる場合じゃないよ。早く田舎に数人の常連客だけでなんとかなりたっているような喫茶店のマスターになるべきだ」
粉末にお湯を注いだだけなんだけどな。あとその喫茶店の設定付けがよくわからないし。
それにしてもなんでこんなにうれしそうにコーヒーを飲むのだろう。いつもながらに無邪気な彼女の笑顔には小さな笑窪が浮かんでいる。
彼女と出会った当初はこれを見て赤面してたのだが、今となってはお椀のコーヒーをすすりながら眺めることができるようになっている。
もう完全に「法哲学」の単位を諦めて僕は彼女と朝のコーヒーを楽しんでいた。
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