2

「ティーカップない?」

 夜七時。僕の部屋に入ってきた彼女は開口一番そんなことを言ってきた。

「お邪魔します」の一言もないのだが、これはいつものことなので別に気にしない。

 男の一人暮らしのアパートにティーカップなんてしゃれたものはないので、実家から持ってきた湯飲みを渡してやったらため息一つした後、渋々と自分で紅茶を入れて飲み始めた。

 そんなに露骨な顔をしなくったっていじゃないか。地元では有名な寿司屋の湯飲みだぞ? なんてことを思いながら僕はアラビア文字解読を再開する。

 僕がパソコン用のデスクでノートと格闘している間、彼女はこたつで紅茶をすすりながら文庫本を読み耽っていた。

「ここはこたつがあるからいいね」

 彼女はこたつ布団を優しくなでながらぽつりとつぶやく。

そう? と僕は返す。

 実はただ単に片付けるタイミングを失って七月の今に至るのだ。本当だったら呆れられてしかるべきなのだが、なぜか彼女は喜んでいる。

「なんだか実家にいるみたい」と言って彼女は魚へんの漢字が規則的に並べられている湯飲みを口へと運ぶ。

 そういえば彼女は雪国の出身だった。

 彼女は北関東の中でもさらに北に位置する地方から来ていて、彼女曰く「東北の都心なんかよりよっぽど雪が積もる場所」らしい。

 なんでも通学にスキーを使うらしいがこれは本当のことかどうかはわからない。とりあえず寒いところから来ているということはわかった。

 彼女の地元ではまだこたつが七月でもフル稼働しているのだろうか。

 とにかく千里さんが喜んでいるみたいなのでこのこたつを片付けるのはまだ先になりそうだ。


 ようやくアラビア文字を解読できたころ、彼女は文庫本を片手に船をこいでいた。

 とうとう力尽きたらしくばさっ、と文庫本が床に落ちる。

おねむですか?

 半分馬鹿にしたような態度で僕が尋ねると彼女はだまってこくん、と頷く。どうやら本当に眠いらしい。

だったらちゃんと布団で寝な。こたつで寝ると体に毒だよ。

 普段からこたつを布団代わりにしている僕が言えた義理ではないのだが、一度このセリフを言ってみたかったのだ。

「君は母親かぁ」

 寝ぼけ眼で彼女はそう呟く。

 そりゃそうだ。僕がいつも母親から言われていることなんだから。

はいはい、わかったからお布団行きなさい。

 微妙に口調を母親に似せてみたが彼女がわかるはずがない。

 むー、と不機嫌そうな顔を見せると布団までとぼとぼと歩き、そのまま倒れ込むように横になった。

寝るときは眼鏡ぐらいはずしなさい。

 細かすぎて伝わらない自分の母親の物まねで彼女に詰め寄る。この言葉も耳にたこができるほど母親に言われたものだ。

 実はこの言葉は僕にとってはありがたいもので、この一言を無視してそのまま寝てしまうと翌日の眼鏡が大変なことになっていたりするのだ。

 レンズに深い傷がつき、フレームがあり得ない方向に曲がるというダブルパンチは長年の眼鏡愛好者としては実に痛い。

「むぅ。あれかな? 君は私のママをストーキングしているな。そうじゃなきゃここまでママの口癖をここまで再現できるはずがないのだー」

 もちろん僕はストーキングどころか彼女の母親に会ったことすらない。

 どうやらは母親というものはどこの家も似たり寄ったりするものであるらしい。

「うー、はずす気力がない。――もうわしはだめかもしれん。あとは頼んだぞ若人達よー」

 いや、勝手に後を頼まれても困るんだけども。

 本当に眠気がピークだったようで、千里さんは掛け布団代わりのタオルケットを足に絡ませるとそのまま寝息を立てて寝てしまった。

 試験期間だけあって、余裕に見える彼女なりにもやっぱり疲れているのかもしれない。

 僕は彼女に近づくとそっと眼鏡を外してやる。

 人の眼鏡を外すなんてことはこの二十年間の人生で一度もなかったので少し緊張した。

 彼女の銀縁のフレームはほんの少しの力でなんだかすぐに壊れてしまいそうだった。それは持ち主の千里さんが華奢な体から僕が勝手にイメージしてしまっているだけかもしれない。

 眼鏡を外すと同時に彼女の優しい匂いが鼻孔を刺激する。甘酸っぱくて安心感に包まれるような心地よい香り。

 女の子ってこんなに優しい匂いがするんだなって思う。

 香水とか制汗スプレーとかそういうのとは違う匂い。いつまでも彼女自身の匂いに囲まれていたいような気もする。

 ただパソコンデスクの栄養ドリンクの空き瓶の山で現実に戻されてしまうのだ。僕はタオルケットで彼女を覆ってやるとまたパソコンデスクへと戻ったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る