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初めて会話を交わしたといってもそれから僕らに何か大きな変化があったわけではなかった。いつものように魔法使いは僕の前に座り、僕は彼女の後ろ姿をただただ見ていた。
授業後には魔法使いの方から話しかけてくれ、僕は彼女の話に相づちを打った。
魔法使いはいつもの白いミトンの手袋をしていた。秋も冬も、春も夏もいつも同じ手袋をしている。
魔法使いはこの手袋について何も語らなかった。僕も何も聞かなかった。
よっぽど大切な手袋なんだろうな、そうずっと思っていた。
実際に今とーいっくの試験真っ最中にもかかわらず、彼女は手袋を外していない。なぜ魔法使いが手袋をしていることがわかるのか、それは僕が試験そっちのけで彼女に見とれているからである。問題を解くことを忘れ僕はずっと彼女の後ろ姿だけを見ている。もう試験終了時間が近づいているにもかかわらず――だ。
リスニング四十五分、リーディング七十五分の計二時間もかかるこの試験が、僕にとっては十分にも五分にも思えた。おかげでそこそこ準備していたにもかかわらず、後半は勘でマークシートを埋めるだけで終わってしまった。
これで今年一年の英語は基礎のコースで受けることが確定してしまったが、もう受けてしまったものはしょうがないので試験終了と同時に僕は魔法使いの席へと近づく。
どうだったの?
魔法使いはしかめっ面で答える。
「私のような魔法使いが一番苦手とするものは何か知ってる? それは英語なんだ。特にとーいっくなんて試験は私達魔法使いが一番苦手とする部類のものだよ」
魔法でどうにかなりそうなもんだけどね。
「君、それはズルって言うんだよ。もしもドラえもんが全ての事例を『もしもボックス』で解決したらそれはお話にならないでしょ。そんなことしたら天国の手塚先生は怒って火の鳥に乗って下界に降りてきちゃうよ」
よくわからないがとにかくズルに魔法は使えないということなのだろう。
あとドラえもんと手塚先生関係ないし。
「まあ、いいさ。私は君と一緒に基礎コースで英語を学習すればいいだけの話だから」
どきっとした。
なんで僕が基礎コースなんだよ。
「魔法使いなんだよ? それくらいわかるよ」
魔法使いはそう言って笑ってみせる。
いつものように右頬に笑窪が出てきて、僕はまた顔が熱くなる。
もう僕は駄目なのかもしれない。いろんな意味で。
「それで君はこれから予定があるのかい?」
……ないけど。僕が忙しそうに見えるんだったらすごく嬉しい。
「いや、暇そうだから言ってみたんだ。だから無駄に喜ぶ必要はない。やったね」
じゃあ、喜ばないことにするけど、なんでそんなこと聞くんだろう。
「うん。一緒に帰ろうと思ってさ」
僕と魔法使いは駅に向かって歩いている。
とーいっくを受けるだけに学校に来た、というやからが比較的多いようで、駅に向かう学生集団の中に僕ら二人は混じっている。
僕と魔法使いはよく話す間柄になったとは言え、教室を出たらお互い別れて帰ってしまう、ただそれだけの関係だった。だから、学校内を二人で歩いたこともなかった。当然、一緒に帰るなんて初めてのことだった。
僕にとっても誰か別の人と帰るなんて初めてのことなのだ。それも異性と――だ。
初めて知ったことだが、彼女は駅の近くで一人暮らしをしているらしい。
僕の通っている大学は、実家通いの学生が多い。特に女子はほとんどが実家から通っている。だから女子で一人暮らしをしているのはそれなりに珍しい。
たまり場とかにならないの?
「そんな仲間に囲まれているように見える?」
見えない。
「そんな即答されるとちょっとへこむ」
本当に文字通りちょっとへこんでるらしく彼女の口数は少しずつ減っていった。
駅前から寂しげな住宅街に入っていったこともあって周りはとても静かになって行く。
さすがに謝ったほうがいいと思って僕は言葉を一生懸命探していた。
「あれ」
いきなり魔法使いが声を上げた。
桜の木だった。
ふんわりとした薄紅色のソメイヨシノの花びらが優しく地面に舞い降りていく。満開だね、と僕は目を細めて住宅地にひっそりと佇む桜の木を見つめる。
「そうじゃなくて」
どうやら僕に満開の桜を見せたいわけではないらしい。
彼女の指さす方向を見るとその理由がわかった。桜の木の枝に白くて丸いものが見える。
白い猫が桜の木に登っていたのだ。
鏡餅のような白くてまるまるとした猫が木の上から僕らを見つめている。
「猫だ。降りられないんだよ。きっと」
そうかな……と僕がつぶやく前に彼女は心配そうに白猫に近づいた。
しかし心配そうな魔法使いを尻目に当の白猫は大きくあくびをしていた。
さてはこいつ降りられるな?
もうちょっとびくびく怖がっていれば可愛げのあるものを。
降りられるんじゃない?
という僕の言葉を聞いているのかいないのか心配そうな彼女の様子はいっこうに変わらない。
「降りられなかったら困るよ。誰がこの周りのねずみを取るって言うの?」
別にこの猫以外にも猫はいるだろうし、見るからにねずみを追いかけるような性格に見えない。
僕の予想はあっていたようで白猫はゆっくりと桜の木から地面へと移っていく。
白猫は魔法使いの心配なんて関係ないと言わんばかりに慣れた足取りで樹から下のコンクリートに着地した。
「偉いね。君は」
彼女は本当に感心したようで軽く手を叩くと、しゃがんで白猫と目線を合わせた。
「おいで」
魔法使いの言うことがわかったのか、白猫はトットッとこっちに近づいてくる。
そしてふわっと千里さんの胸におさまった。
「お利口だね」
千里さんは優しく白猫をなでる。まるで自分の子どもをあやすかのようにゆっくりと優しく白猫に触れる。
「君も撫でなよ」
彼女はそう言うと白猫を抱いたまま僕の方へとやってくる。
僕、駄目なんだ。
「あー、さては猫嫌いなんだ。だめなんだぞ。好き嫌いしちゃ」
好き嫌いとかじゃなくてさ。僕猫アレルギーなんだ。手が真っ赤に腫れちゃうんだ。
「本当に?」
いくら今日がエイプリルフールだからと言ってこんな意味のない嘘はつかないって。
昔は実家でも猫飼ってたんだけどね。その時は抱いても一緒に寝てもなんともなかった。だけど急に僕が猫アレルギーなのがわかるとその猫は親戚にもらわれていっちゃった。
「悲しかった?」
わからない。もしかしたら悲しかったのかもしれない。
けどそんなことはもう覚えちゃいなかった。
「それって失恋とかと同じ痛みなのかもしれないね。もしかしかするとさ」
彼女の口から「失恋」という単語が出てきただけで僕はどきっとしてしまう。
僕はいままで恋をしてこなかったから失恋の痛みなんて想像もできない。
「本当に?」
やっぱり彼女は嘘を疑っている。
うーんと正確に言うと一回だけ人を好きになったことがある。
「そのことについて詳しく聞きたいな」
嫌だよ。僕は首を横に振ってみせた。
「けち」
絶対に言えるわけがない。
その好きな人が君だなんてことは――。
けどエイプリルフールだから冗談として言ってしまえるかもしれない。だけど彼女にだけは嘘なんてつきたくなかった。
エイプリルフールだろうがなんだろうが――。
どうやらずっと撫でられ続けたから白猫は退屈しているらしい。
魔法使いがつけている白いミトンの手袋に興味を示し始めた。
小さな白い手でじゃれ始めたと思ったらかぷっと手袋に噛みついたのである。
「こら、だめ」
そんな魔法使いが忠告を聞く耳はもっていないようで、まるで親猫の乳にくらいついているかのように噛みついて手袋を離さない。
生地が伸びちゃうんじゃない。
「むー」
魔法使いはこっちが見ていてもわかるくらいあからさまに困った表情を浮かべる。
そりゃそうだ。常に身につけているくらい大事な手袋だ。
きっと思い入れがあるに違いない。
とりあえずそれ外したら。
僕にとってはほんの軽い気持ちで発した言葉だった。
だけど僕は自分の発言に後悔してしまう。
今まで見たことないほど魔法使いが落ち込んだ顔をしているからだ。
僕と魔法使いは一年しか付き合いはない。
それでも彼女の気持ちが不安定になっていることは見てわかる。
僕が謝ろうと口を開いた瞬間、先ほどの落ち込んだ表情は彼女から消えていた。
代わりに何かを決意したかのような強い表情を見せていた。
そしてゆっくりと彼女は手袋を外した。
魔法使いの手はとても美しかった。
手袋と同じように白く、綺麗な手だった。
僕は彼女の手を見とれていると魔法使いは恥ずかしさと不安が入り交じった表情を浮かべていた。僕には彼女が複雑な表情を浮かべている理由、そして常に彼女が白いミトンの手袋を欠かさない理由がわかった。
「だから魔法使いだって言ったでしょ」
彼女は僕に向けて手を広げて見せる。
彼女の右手は真ん中がぽっかりと開いている。中指と人差し指に当たる部分が欠けていたのだ。
舞い散る桜の花びらが白猫の鼻にそっと止まる。くしゅっと小さなくしゃみをするが花びらはとれない。
「小さいころから気味悪がられたよ。同級生は元より、実の親にもさ」
僕は何も言えずただ白猫の鼻についた花びらを見つめていた。
「小学校の時はいつもズボンのポケットに手を突っ込んでた。女の子でそんなことしてるのは当然私だけだから変な目で見られたし、生意気に思われていじめられたりもしたよ」
恥ずかしくって銭湯や温泉なんかも行ったことないんだ、と魔法使いは寂しそうな笑みを浮かべる。この時ほど彼女の笑窪を悲しく思ったことはない。
「けど辛いことばっかりで疲れたからもう悩むのはやめた。だから私は特別な力があると思いこんだんだ。この指はその印なんだって」
白猫が彼女の指をペロペロと嘗め始める。
僕は猫の舌のザラザラした感じを思い出していた。
さらに猫を触った後の手の腫れた感じとか小便するたびに腫れた手がジクジク痛む感じとかを思い出していた。
「だけどもう一九歳にもなったからそろそろやめようと思うんだ。結局その思い込みも逃げでしかないから。だから嘘をついた」
彼女は優しく猫の鼻をぬぐう。白い花びらがコンクリートに向かってゆっくりと落ちていく。
「実は私、魔法使いじゃないんだ。魔法も使えないし、指もない気味が悪い女なんだ」
彼女は猫をゆっくりと地面に優しく下ろす。
すると猫はあっという間に僕らの目に見えないところまで行ってしまった。
「ごめんね。別に君を困らせるつもりはなかった」
別に困ってなんか、だけどその言葉が口から出ていかない。
彼女はそんな僕にお構いなしで続ける。
「わざわざこんなところまで付いてきてもらって。しかも嘘までついて。ごめんね」
彼女の目が潤んでいるように見える。気のせいであって欲しい、僕はそう思った。
だけど彼女の目からは一筋の滴がつうっと流れていく。それも涙なんかじゃ無ければいいのにと僕は祈った。
「今日はわざわざありがとう。こんな嘘つきに付き合ってくれて」
もうここでいいから、彼女はそう言って僕に背を向けた。このまま彼女は僕のいない遠くへ行ってしまうような気がした。
もう会えない気がした。
嘘つきなんかじゃないよ。
今まで生きてきた中で一番大きな声を僕は出していた。
魔法使いが振り返ったのがわかった。僕が叫んだことが思いも寄らないことだったようで彼女はまん丸な目をして僕のことを見ている。
魔法を使えないっていうのは嘘で実は使えるんでしょ?
僕はゆっくりと千里さんに向けて歩を進める。
彼女は僕に何か言いたげだが上手く言葉が見つからないようだった。
僕は社交性が全くないんだ。そもそも人と交流することに全く興味がない。何週間、いや何年も人と会話しなくても大丈夫なんだ。僕はそういう人間なんだ。
こんなに言葉を発するのは実は初めてかもしれなかった。
ちゃんと発音できてるか、変なイントネーションになってないか、そんな心配ばかりが頭に浮かぶ。でも今は彼女に伝えたいことがある、その一心で僕は声を出していた。
そんな僕がこうやって人の目を見て人と会話している。これは魔法以外のなにものでないよ。
喉がひりひりして、そして重かった。唾を飲んだらきっとすごく痛いに違いない。
そして僕は一人の女の子を好きになった。今まで恋愛なんて一回もしたことなかった。だけど今はその女の子が好きで好きでどうにかなっちゃいそうなんだ。その子はいつも白いミトンの手袋をしてる。
僕は手袋を拾い上げると彼女に渡す。
そしてその子は魔法使いなんだ。こんな年の男が言うとものすごく変かもしれないけど、僕は魔法使いが大好きなんだ。
言いたいことは全て言い尽くしていた。もう何も頭に文字が浮んでこない。
だけどもう何かを言う必要がなかった。魔法使いが僕に抱きついているから。
魔法使いは僕の胸で身体を震わせていた。
もう彼女にかける言葉はない。僕ができることはこの魔法使いをそっと抱き寄せてやることだけだった。
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