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彼女――もとい、魔法使いと初めて出会ったのは「フレッシュマンプログラム」という新入生を対象にしたゼミの授業でのことだ。
どうやら、僕のクラスは社交的な人間の集まりであったらしく、僕が窓から見える学生ぼーっと眺めている間に既にもうゼミが一つの仲良しグループと化していた。
僕と一人の女子を除いて――、それが魔法使いだった。
仲良しグループは授業が始まるや否や教室の前方の席を陣取り、担当の教授と楽しそうに雑談を始めていた。
たいがい孤独な学生というものは教授と仲がいいものなのである。
というのは、大学の教授というのは群れからはぐれているひとりぼっち学生を哀れんでくれるタイプの生き物だから。大概の教授はひとりぼっちの学生の話相手になってくれるものなのだ。だが、どうやら担当の教授はそういうタイプの生き物ではなかった。
仲良しグループと楽しそうに今、流行っているお笑い芸人の話なんかをしていた。
典型的な「私は君たち学生と同じ話題を話せちゃうそんなものわかりのいい人間なんですよー、そうだ、僕のSNS、みんなフォローしちゃって!」というスタンス。この手の教授と僕みたいなひとりぼっち学生は相性が悪いものすごく悪い。できれば近づきたくない人種であることには間違いない。
群れからあぶれた僕たちがお互い近くの席に座り、僕と魔法使いは共に脅されているかのように静かに授業を受けた。
ゼミ形式の授業にもかかわらず僕らはお互い一言も発しなかった。
おかげで僕のフレッシュマンプログラムの評価は単位認定ギリギリの「C」だった。たぶん彼女も同じような評価だったのだろう。
ディスカッションが主体となる授業でだんまりを決め込んでたので、単位はもらえないものだと思っていたのだが、どうやら全て出席していた僕らを落第させることはできないらしい。
最低な評価ではあるが、一応単位として認定してくれることになった。
それからも魔法使いとはなぜか授業がかぶることが多かった。
同じ学科であれば同じ授業に出席してそうなものだが、一般教養がメインとなる一年生においては、あらかじめ打ち合わせをしない限り授業がかぶるということはすごく希である。
僕と魔法使いはいつも似たような席に座っていた。
比較的周りが騒がしくない教室前方、かといって教授に指名されにくい端側。いつも前方の左端が僕たちの指定席だった。
魔法使いはいつも僕の前の席に座った。
九十分も続く長い講義の中、僕はふとした瞬間に魔法使いを盗み見することが習慣となっていった。
シンプルなデザインのペンケースや飲みかけのペットボトルの紅茶なんかを見ながら退屈な授業が終わるのを待っていた。
そんなことを繰り返しているうちにあっという間に九十分なんて終わってしまうもので、授業にでているにもかかわらず、覚えていることといえば、授業を受けている時の魔法使いのしぐさだったりだとか、魔法使いの白いうなじだったりとかで、肝心の内容なんかさっぱりわけがわからなかった。そんな授業態度だったので、魔法使いと一緒に受けている授業の大半は理解できないまま月日だけが経っていった。
同じ教室にいる人間から見たら、僕は毎回休まずに教室前方で授業を受けている真面目な学生にしか見えないだろう。だけど僕は授業の理解度でいったら授業を登録だけして一回も授業にこないタイプの学生と何一つかわらないのだ。
教室に生乾きの衣類のすえた臭いが充満する六月になった。
いつものように僕が教室に入ると明らかに生徒の数がまばらだということに気づく。
即座にこの授業が休講であることを僕は理解した。
教室に残っているのは有り余った時間を友人と話すことで消費しようと言う本気で暇な部類の学生だけであろう。
僕はそこまで本気で暇なわけではないので――というより話し相手なんて存在がいないので、もうアパートに帰ってしまおうと思っていた。
しかし僕の足の向かう先はアパートではなかった。足がいつものように教室の前方へ向いてしまう。
見つけたのだ。
僕がいつも座っている席の二つ前、普段と何も変わらない様子で魔法使いは座っていた。
えっと……休講みたいですよ。
気がついたら僕は声をかけていた。この行為に一番驚いているのは声をかけている僕自身だった。
今まで僕は異性に声をかけるどころか他人に声をかけるなんてことをしたことがなかった。
そんな僕が今まで会話をしたことない相手に話しかけている。
緊張していた。
お互い知らない間柄ではないのだから緊張なんかしなくていいはずなのだ。だけど、彼女と話すのはこれが初めてで、もっというと女の子に話しかけるという経験もこれが初めてなわけで――。普段、人と話すということをしない僕にとって、全く知らない場所に一人ぼっちにされたような心細さを感じた。
魔法使いのレンズが僕のほうを向く。急に恥ずかしくなって、僕は必死になって目をそらした。
わけがわからなくなった。
この授業が本当に休講なのか、ということまでわからなくなってきた。ただ教室にいる人数が少ないだけで本当はこの後に授業があるのかもしれない。単純に教室移動という可能性だってある。こういう日に限って学生用掲示板を見てくるのを忘れていた。
休講かどうか確認してから話しかければよかった、そんな後悔が押し寄せてくる。けど大概こういうことは後悔してからではもう遅いものなのだ。
「知ってる」
魔法使いはそう僕につぶやくとバッグから小さな棒状の羊羹を取り出すと美味しそうにちゅるりと吸い出した。もぐもぐもぐ、小動物のように一生懸命羊羹をかんで飲み込む。それだけなのに無性に彼女を愛おしく感じた。
じゃあ、どうして。
僕は続けて聞いてみる。身体が震えているのが自分自身でもよくわかった。けど今の僕にはどうにもできない。
相手にとっては相当変な男に見えているだろう。だけど魔法使いが僕を見る目に偏見や不信感というものはないように思えた。
優しい目だった。
この子だったらすべてを許せてしまうようなそんな汚れを知らない目。
僕は恥ずかしさを忘れて彼女の目を見つめ続けていた。彼女は僕の目をしっかりと見据えながらゆっくりと口を開いた。
「私はね。君に会えるかな、と思って」
この言葉を完全に理解するまでずいぶんと時間がかかった。
まずは自分の聴力を疑った。確か大学に無理矢理受けさせられている健康診断では聴力は問題ないはずだったのだが。
もしや幻聴が聞こえる、というレベルはもはや耳鼻科の管轄を越えてもっと大変な病気なのかもしれない。そうなったら大学なんて通っている場合ではない。だとしたら彼女に会えない。もう彼女と会うことはこれで最後なんだ、そんなことが頭の中をぐるぐるぐるぐる回っている。
「ん? 聞いてる?」
彼女の声で我に返る。
なんだかとんでもない方向へ妄想を飛ばしていたようだった。
いったいどんな顔を僕はしていたのだろう。『ザ・変態』ちっくな顔をしていたのだろうか。 とりあえず僕は、聞いてる、と短い返事をする。
「君は?」
ん?
「君こそなんでここにいるの?」
いや、別に特に理由なんてないけど。
心ない返事をしたのが見え見えだったようで、彼女は少しだけ怒ったような表情を見せる。
「むぅー。ちゃんと答えてよ。私は君の質問にちゃんと答えたんだから」
僕も、あの、君に会えると思って。
勝手に僕の口がしゃべった、そんな感覚だった。この声を出している人間が僕以外の誰かで、僕はそれをただぼっーと見ているだけ、そんな錯覚を覚える。ただ、この言葉を発したのは間違いなく僕であって、その言葉は目の前の魔法使いに向けられているものである、ということは確かだった。
――何言ってるんだ僕は。急に我に返った。ふざけてるのか僕は。馬鹿にしてるのか僕は。正気なのか僕は。
『なーんてね。冗談だよ』
そう言えばこの場は乗り切れるのだろうか。
だけどそんな一言がでてこない。何よりも、もう頭がくらくらで倒れてしまいそうだった。
尋常じゃないほどの汗が額から溢れてくるのを感じた。体中の水分が一斉に出て行ってしまうように感じた。このままだと僕は干からびて死んでしまうんじゃないだろうか。
お互い何も話さなかった。
いつの間にか教室に残っていたのは僕ら二人になった。
外で体育のフリスビーの授業をしている学生達の声が聞こえた。彼らは「男」とか「女」とかそういうのをまるで意識していないかのように楽しそうに授業の時間を過ごしているようだった。
一方僕らは、何もしゃべれずにお互い見つめあっているだけだ。教室には誰も入ってくる気配がなかった。
「たかみね」
彼女はひそっと何かをつぶやいた。
「たかみね――、高峰千里」
それは魔法使いの名前だった。僕もつられるように自分の名前を告げる――。
今思うと名前はお互い知っているはずなのだ。なにせゼミ形式の授業を共に受けていたのだから。
だけどその授業で僕らは一言も発していない。
もちろん自分の名前も発していない。
だからお互いが自分の名前を言い合うこの何気ないやりとりがとても新鮮に思えた。
それが魔法使いと話した最初の日だった。
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