第一章 僕とミトンと魔法使い 1
「ねえ、聞いてる? 私さ、実は魔法使いなんだ」
A棟の205教室。
ここでは「とーいっく」と呼ばれる英語の試験が行われようとしていた。
「とーいっく」って何? と聞かれると困ってしまう。結局のところ、大学の偉い人が「うけなさい!」って言って僕ら学生が「はい、よろこんで!」って受けているスタンスではないってことくらいしか説明できることがない。全部英語で進められる長い長い試験だ。
なんか、これの結果で将来働けたり、働けなかったりするらしいが、今の僕にとっては明日どうなるかわからないのに、将来のことなんて考えてなんていられない。明日の自分より、牛丼屋さんでどんな食べ物を食べようか、なんてことしか考えられない。御飯の上にデミグラスソースたっぷりのハンバーグを乗せてその上に無料の紅生姜を乗せたものの味を頭の中で巡らせるくらいの気力しか持ち合わせていないのだ。
四月特有のだるさを訴える溜息や、久々の仲間との再会を喜ぶ声で、教室は通常運転で騒がしい。
僕みたいな人見知りで友達もいない、一週間近く人に会わなくてもなんの弊害もないレベルな「ぼっちな学生」な学生にとっては退屈でしかない時間。
そんな、ぼっちな僕に一人の女子が話しかけて来たのである。ぼっちは話しかけられた瞬間にぼっちではなくなる。ただ、そのお話が終わった瞬間ぼっちにまた戻る。
よくよく考えたら、人間というものはいつかは一人になるタイミングがあるわけで、その時はみんなぼっちなわけで、ぼっちじゃない人はいないのだから、ぼっちだとか、ぼっちじゃないとかって区別がそもそもおかしいのではないだろうか。
「よくわからないことをずっと主張するけど、それはなに? とーいっくにそんな問題はでるの?」
僕に向かって首をかしげる彼女は僕のクラスメイト、いや新学期で次のクラスが発表されていない現段階では「元クラスメイト」と言ったほうが正しいのかもしれない。
銀縁眼鏡に清潔感のあるまっくろなロングヘアー。そして、グレーのプリーツスカートに白いタートルネックのセーターを着た彼女は他の学生と比べて小柄だ。にもかかわらず彼女からは大人の余裕みたいなものが感じられた。
そんな彼女がいきなり「魔法使い」という単語を口に出したのだ。一瞬にして退屈がどこかへ飛んでいってしまった。しかも、彼女自身が「魔法使い」であると言っているのだ。
えっと、魔法使いってホウキに乗って空飛んだり、魔法で変身したり、悪い敵を倒したりとかするの?
「うーん、夜遅くにやってるアニメの見過ぎかな。実際にそんなことするわけないでしょ?」
えーと魔法の国出身で魔法学校で魔法を学んだり。
「普通の公立高校卒業だよ?」
邪悪な魔物をやっつけるとか。
「この二一世紀の世の中そんなものいないよ」
ええと、それでも君は――。
「うん、魔法使いなんだー」
彼女は僕と話しながらも、もじもじと手遊びに興じていた。もう四月だと言うのに彼女は白いミトンの手袋をしている。雪で作ったうさぎを連想させるふかふかの生地は彼女の指をまとめて優しく包んでいるように見えた。
魔法使いなのはいいけどさ。なんで急にそんなこと言い出したの?
僕は何気なく聞いてみた。
「えっと……そういえば、うちの母親はテレビゲームのことをみんな『ファミコン』っていうんだよね。ソニーだろうが、セガだろうが、彼女にとってはみんなゲームは『ファミコン』なんだ。任天堂の株主か何かかな?」
僕の問いとは全く関係ないことを言い出す。
彼女がこんなことを言い出すときは明らかにとぼけている時だ。僕と目をあわせようとしないし、目が泳いでいるようにも見える。
なんでいきなり彼女がそんなことを言い出したか、それが僕にはなんとなくわかっていた。
今日の日付は四月一日、エイプリルフールってやつだ。彼女は僕に会って開口一番嘘をついたらしい。
それにしたって、もうちょっとまともな嘘をついたらどうなのだろうか。いくら僕が騙されやすいとはいえ、いくらなんでもこれは人を馬鹿にしすぎている。
だけど彼女のこの行為が僕にとってはとても嬉しく思えたりもする。今まで、エイプリルフールに嘘をつかれた、といった経験がない。だから、彼女が僕に嘘をついてくれたことがものすごく新鮮に思えた。
思えば、小学校から高校までの四月一日はそのだいたいが春休み中だった。だから友達に嘘を吐かれるということはなかったのだ。
今までの僕にわざわざ休みの日に僕に嘘を吐きにくる友達はいない。
さらに言うといままで友達と言える存在はいなかった。
小学校の担任の先生が「同じ教室で学ぶこのクラスはみんな友達だ」なんて吐き気を覚えるようなことを馬鹿の一つ覚えみたいに言っていたことを思い出す。
だけど、僕の教科書をビリビリに破いたあげくゴミ箱に詰め込んだり、女子トイレの便器に僕の体育着を押し込んだりするようなクラスメイト達を「友達」と呼ぶことが僕にはどうしてもできなかった。
それからも僕は、生まれながらの内気な性格と変に天の邪鬼な性格が相まって中学、高校と友達のいない学校生活を送っていた。
そんな僕にとって「エイプリルフールに嘘を吐かれる」という何気ない出来事に遭遇できたことが嬉しくもあり、それと同時に照れくさくもあったのだ。
彼女が真っ白な頬を緩めて僕の隣に座ってくる。隣から彼女の優しい匂いが僕の鼻孔をくすぐった。
ねえ、別のところに座ったら?
どうせ試験が始まったら席は一つずつ空けなきゃいけないのだから――。
そんなぼやきを全く聞いていない様子の彼女は、尻尾をぶんぶん振った子犬のように僕にすり寄ってくる。
彼女がにやけた時に右頬に現れる笑窪が大好きだった。顔が熱くなるくらい大好きだった。
顔が火照って仕方がなかった。現に今も目の下あたりがひりひりしている。
そして喉がからからに乾いてしまう。リュックに入れていたミネラルウォーターを取り出してほんの少しの量を口の中に含ませる。
こんな状態でもテストを受けなくてはならないのだから本当に面倒である。こんなテストがなかったらアパートに帰って布団にダイブしているところだ。
「うーんと、なんでそういうこと……って言ったね」
……えっと、彼女が魔法使いだという話だっけ。顔の火照りと喉の渇きでそんなことすっかり忘れてた。
「それはね……よく私にもわからないんだけど、そろそろ君に私の正体を明かしてもいいかな……って、そんな夢を見たんだ」
言ってる本人が「よくわからない」って言ってるんだから、聞いてるこっちはもっとわからない。とりあえず、君はよくわからないけど複雑な夢をみたんだね。
「そういうこと。だから私は君に魔法使いって正体を明かしてしまったのを今は軽く後悔してる。本当だったらとーいっくなんてひたすらマークシートの『1』を塗りつぶすだけの試験を受けている場合じゃないんだけど」
これ、そういう試験じゃないから――。あと確か選択肢は『1、2、3、4』から選ぶんじゃなくって『A、B、C、D』から選ぶんだったような。……いや、そんなことはもうどうでもいい。
「あーあ、本当にやる気を無くしてしまうよ。こんな試験じゃ……。学習塾の近くの夜間シフトのコンビニの店員くらいやる気がないんだ私は」
僕にはその例えはよくわからないけど、とにかくやる気がないことだけはよくわかった。あと、学習塾があってもなくてもやる気のある接客してる人だって探せばいるよ。
試験時間が近づくにつれて、教室の席がどんどん埋まっていく。
この試験は結果によってその年のクラスが決まってしまう。そんな意外に重要な試験なので、普段はあまり学校で見ない顔も教室にやってきたりする。
学生の試験に臨む姿勢はさまざまで、より上位のクラス入りを目指すガリ勉タイプは早くから教室入りするなり参考書とにらめっこしているし、とりあえず出席点だけいただいておこうというタイプのリア充グループは夜の飲み会の店選びに夢中である。
一方僕は……というとそこそこの勉強をしてきてはいたのである。上のクラスに行けば行くほど大人しい文化系のクラスメイトに囲まれるということを経験上知っていたから。
だけど教室でガリ勉アピールが恥ずかしいというのもあって、僕は静かにいままでの勉強内容を思い出しつつ、静かに試験に対して闘志を燃やすという、それなりにめんどくさい過ごし方を実行していた。
一方、隣に座っている彼女はバッグからチョコレート菓子を取り出し、それを美味しそうに貪っていた。
彼女が食べているチョコレート菓子はナッツがぎっしり詰まったヌガーに激甘のチョコレートがコーティングされているやつだった。遭難してもこれを食べてるだけで生き延びていけそうな栄養価満点の類のものである。
ねえ、魔法使いでもお腹が空くの?
暇を持て余しているだけの僕の質問に彼女は首を縦に振った。
「魔法使いだって人間だもの」
とだけ答えて笑ってみせる。
彼女の歯にはお歯黒のようにチョコレートがついている。
もしも、今、彼女にキスをしたら間違いなくチョコレートの味がするんだろうな、なんてことを思った。
とても苦いのか、それとも甘いのか。想像は全くつかないけど、気持ちいいんだろうな、と思う。とにかく気持ちいいんだろうな、って思う。
そんなことを考えてるとますます顔は火照り、喉は乾いていく。彼女の唇は柔らかいのだろか、堅いのだろうか。もし、僕が彼女とキスをできたとしても彼女の唇が柔らかいか、堅いかはキスの経験がない僕にはわからない。キスのことに関しては、おそらく教室の後ろにいるリア充集団のほうがはるかに詳しい。キスに関して単位が決まらなくてよかったな、と思う。そうしたら僕はきっとこの大学を卒業できない。
こんなことばかり考えていたせいだろうか、なんだか、いままでの勉強内容がすっと頭から抜けていく気がする。
僕はしょせんそんなことしか考えられない童貞丸だしの非モテ男子学生なんだな、と思った。
試験開始時間が近づくと彼女は僕の二つ前の席へと移動していった。彼女から漂っていた優しい匂いがどんどん遠ざかっていく。もう英語なんて僕の頭の中から消え去ってしまったようで、席を移動した彼女のことしか考えられなくなっていた。
試験監督が試験についての説明を始める。その説明なんて頭に入るわけなかった。
とりあえず僕は試験が始まるのをじっと待った。そして、とにかく落ち着こうと思った。高揚した気持ちを落ち着かせようと思った。ただ時間は僕が落ち着くのを待ってくれるはずがない。頭がぐちゃぐちゃのまま、試験開始を告げるチャイムが鳴り響く。
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