第3話「大人の言うこと」

-verse 1-

祇園女学院、応接室。

壁の時計が、分を指すたびに小さく音を立てた。

空調の風が、観葉植物の葉を揺らす。

校長、担任、そして使用人の佐伯が並んで座っている。

まつりはその正面。

真っ白なテーブルに手を置いたまま、じっと黙っていた。


「縁禅さん、あなたの家庭環境が特別なのは私たちも理解しています。ただし生徒会の活動に関しては責任をもって−–––」

「途中で投げ出すというのは、一番やってはいけないことです。

特にあなたのように影響力のある立場の方が−–––」

まつりは視線を落としたまま、何も言わない。

話を聞いているフリをして、耳の奥では全然違うことを考えていた。

佐伯の気配だけが、静かに自分の味方でいてくれていることに気付いていた。

「大人の言うことは、信じるに値するものだと、私は思います」

「一度、ご両親ともお話しさせていただく機会を設けたいのですが」

その時、佐伯がほんのわずかに身を乗り出した。

そして校長や担任の目を見ずに、まつりの方を見てゆっくりと頷いた。

まつりは目を伏せる。もう何も言えなかった。

でもたった今、何かを言葉にしたくてたまらない自分が目を覚ました気がした。

沈黙のまま、まつりは立ち上がる。

佐伯の表情は何も変わらない。

だが彼女は気付いていた。「行ってこい」と、背中を押してくれたことに。


-verse 2-

雨上がりの夜。

縁禅家の中庭に面した石畳を使用人の黒川と佐伯が歩いている。

空気は静かで、植え込みの葉が雨粒を落とす音だけが

続いている。

「まつり様、今日も何も口にされなかったそうですね」

「ええ。でも言葉にできない時期って誰にでもあるもんです」

黒川はふっと鼻で笑った。けれどその笑みにとげはない。

むしろ、どこか諦めに近い優しさが混じっていた。

「あの子が『この家の人間』でなければ、私ももっと違う

接し方をしたと思いますよ」

「『この家の人間』やからこそ、自分で言葉を選ばな

あかんのちゃいますか」

「そうですね。ですが私は『この家を守る大人』として、

まつり様の自由より役割を考える立場です」

ふたりの足音が、石畳に優しく響く。

「でも、あの子が笑ってた頃の顔、私、いまだに忘れられません」

「それ、まつり様に直接言うたらどうです?」

黒川は答えない。そのかわり、小さく首を振って言った。

「うちはまつり様の味方ではあります。ただし、まつり様のやり方の味方には、なれそうにない」

「……十分です。あの子は、敵しかおらんって思い込んでますから」

二人はまた歩き出す。黒川の足取りは重く、佐伯の足取りは迷いのない静けさに満ちていた。


-verse 3-

梅田、午前2時。雨の匂いはまだ残っている。

ネオンはほとんど落ちていた。

コンビニと、あやしいクラブの光だけが道を照らしている。

まつりはビニール傘を握ったまま立ち尽くしていた。

道の向こうに、濡れたままのベンチがひとつ。

そこにリンダが座っていた。

「……傘、忘れてきた」

「私の使う?」

「いいや。濡れたほうが自由っぽいやん」

「意味わからん」

ふたりはそれ以上何も言わず、黙って並んで座る。

コンビニの袋が風でカラカラ鳴る。

「……家、出てきた」

「知ってる、顔に書いてる」

「大人の言うこと聞きなさいって、何百回も言われた」

「何百回も聞いたんやな、偉いやん」

「偉くない、聞いてるフリしてただけ」

「ほな、お前はずっと演技派やな。俺よりよっぽどプロや」


「リンダは、誰の言うこと聞いて生きてきたん」

「誰のも聞いてへんけど、誰からも言われへんようになったな、

途中から」

「それ、寂しくないん」

「……寂しくないフリは、うまくなった」

風が吹いた。

まつりの傘が裏返る。

リンダがそれをそっと直す。

でも、目は合わせなかった。


「お前は、声出せるんか?」

「声なんか……ただの空気やろ」

「せやな。でもそれが誰かに当たったら、爆風にもなる」

「……もう、誰にも聞かれたくない」

「ちゃうやろ。ほんまは誰かに聞いてほしかったんちゃうん」


沈黙。

まつりの目に、少しだけ光が差す。

言葉を置いたまま、二人はゆっくり歩き出す。

別にどこに向かうでもない。

まつりの手が、傘をゆっくり開いた。

街は、まだ眠っている。

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