第4話『リンダ』

朝、窓の外はまだ薄暗い。

六畳半の部屋、布団ではなくソファでまつりは目を覚ます。

天井のシミが、見知らぬ国の地図みたいに見えた。

キッチンからは油のにおいと、フライパンをあおる音。

「起きてんの?」

葛木美琴くずきみことの声は、寝起きでも低く響く。

彼女は片手でスマホをスクロールしながら、もう片方で

目玉焼きを返していた。

パジャマの代わりに、昨日のままのTシャツとスウェット。

その自由さに、少しだけ憧れる。

美琴は笑いながら皿を差し出す。

「食べて、昼からバイト行くで」

まつりは眠たい目をこすりながら、静かにうなずいた。


verse 2

夜の風は、昼より少し冷たかった。

店のシャッターを下ろし終えると、美琴は伸びをした。

「おつかれー」

「…おつかれさまです」

まつりの言葉に敬語が混じるのを、美琴は気にしていない。

二人は並んで駅まで歩く。

美琴はポケットからガムを取り出し、まつりにも差し出した。

「なあ、今度“セッション”出てみいや」

「…見てるだけじゃあかん?」

「見てるだけでいいやつなんか、この街にはおらん」

信号待ちの間、街のざわめきが二人を包む。


信号が青に変わる。

人の波に押されながらも、美琴の歩幅は変わらない。

「“落賦ラップ”って、やったことある?」

「なにそれ、落語のパチモン?」

「ちゃうちゃう、落書きみたいに言葉ぶつけるんや、

落語みたいに座って聞くもんちゃう」

「うーん、分かれへん」

「せやったらちょうどいいわ。今夜、覚えるやろ」

まつりは歩きながら、握ったガムの包み紙を丸めた。

胸の奥で、小さく何かが弾ける音がした。


verse 3

街灯がぽつぽつと照らす公園。

ブランコの鎖が、風に鳴っている。

まつりはベンチに腰掛けていた。

「ここ、お前んちから近いん?」

声の方を見ると、リンダが滑り台の上に座っていた。

いつからいたのか、全く気配を感じなかった。

「…またお前か」

「またって何や」

軽く笑う声が、夜気に溶ける。

「やらへんの?」

「何を」

「さっきの、言葉回すやつ。あれ面白そうやのに」

まつりは視線を落とし、ため息をついた。

「落賦ってやつ、やる気になったら行きや」

そう言って、リンダは滑り台を滑り、そのまま闇に

紛れていった。


「まつりー!」

顔を上げると、美琴が走ってくる。

「出番や、今空いたで」

腕を掴まれ、そのまま輪の方へ引っ張られた。


verse 4

虫の声が、遠くから降ってくるように聞こえた。

ひまりは自宅の縁側に座り、物思いにふけっていた。

月は半分。風が吹いて、風鈴がひとつ鳴った。


「ひとりは、落ち着く?」

背後から声がした。

ひまりは驚かない。

振り返れば、リンダが部屋の柱にもたれていた。

金髪をゆるく束ね、足を投げ出し、何も持たずに。

「たぶん」

ひまりはそう答えた。

リンダは歩いてくると、隣に腰を下ろした。

「お姉ちゃん、元気?」

「知らない」

「今日、星見えるな」

「ここは電気が少ないから」

沈黙が、風と混ざってしばらく流れた。

「ねえ、リンダって本当の名前?」

「ほんとの名前は忘れた。だから今はリンダ」

「きれいな音がする名前ね」

「意味はまだ決めてない」

「いいじゃん。意味がないものほど、自由じゃない?」


リンダは立ち上がった。

「そろそろ行くわ」

そしてポケットから名刺を取り出し、ひまりの前に置く。


BAR Moment

- 道に迷うのも ひとつの表現 -


「退屈したら来て。冷たい飲み物も、ぬるい音もあるから」

そして、いなくなった。

音もなく。まるで最初から風だったみたいに。

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