5. 雨
その日から俺はほとんどの時間をオーナーの部屋で過ごした。甘い匂いには慣れなかったが、煙草を吸って紛らわせていた。昼は雑用の手伝い。夜は……書くまでもない。そして休日は完全に自由にすることを許された。俺はオーナーに頼んで外出用の服と傘を貰った。
ある休日。この頃にはオーナーの仕事をまるまる任されることもあるほど、オーナーの補佐的な暮らしをしていた。土砂降りの雨だったが、オーナーは取引先に行くとかなんとかで一人取り残された。館は休みだ。暇だ。俺は一式の服を着て、傘と金を持って外に出た。
街路樹に蓄えられた水が滝のように注ぐ。人々はいつもより足早に用事を済ませようとしているみたいだ。あてもなく歩き、見た目だけは豪華な駅舎に入る。切符を買い、小さな電車に乗る。
景色はすぐに一変する。電車を降り、3段しかない階段を下って外に出れば、からっと晴れた炎天下だ。畳んだ傘から垂れる滴が砂地に臨時のオアシスを作る。
「相変わらずだな。この町は。」
いい感じに湿気た煙草を吸う。静かだが騒がしい。それは人々の生活の音だ。
ふと振り返ると、彼が路肩に座っていた。
14歳ぐらいか。浅黒い肌に真っ黒な髪をした子供だ。俺はこの姿に見覚えがあった。その隣に腰掛けると、彼は「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。どうやら俺は怖いらしい。それがなんだか可笑しかった。
「何してんだ。」
「別に、何も」
「嘘つけよ。」
「ほんとだよ。」
「じゃあなんで泣いてんだよ。」
「え?」
少年は驚いたように顔を上げた。
「またたかられたか?」
どうやら気づいたらしい。
彼はきまり悪そうにキョロキョロと周りを見回した。
「ち、違うよ。あいつらじゃない。」
「じゃあ何だ。言ってみろ。」
彼は重たい表情をしていた。しばらく俺達は黙ったままだった。
「父さんと母さんが、俺を売るつもりなんだ。」
ポツリと彼は言った。
「それで?」
「それが原因で、みんなにいじめられてる。」
「うん。」
「誰も助けてくれないんだ。お金を稼ぐために働いてた先の掃除のおじさんも、話を聞くだけで何も助けてくれなかった。妹もいなかったことにされてる。」
「妹?」
「3ヶ月前に女が欲しいってやつに買われていった。」
俺は黙って煙草をふかした。
「俺は男だからまだ買われてない。でも、いっそのこと買われたほうがマシだと思う。」
煙草の灰が落ちて、砂にドットを落とした。俺はどうしようもなかった。彼を見ていられなかった。俺は彼の頭を撫でた。いたたまれない気持ちになって、強く強く撫でた。
少年は戸惑っていた。だがそれ以上に俺は戸惑っていた。俺はその手を離せなかった。恐る恐る彼の顔を見た。彼の大粒涙が見えた。俺は大雨を祈った。
その後、俺は逃げるようにその街を離れた。王都は相変わらずの雨だったが、それが異常に心地よかった。館に戻ってからも夢心地だった。何か過去に戻ったような気分だった。
「あーあ。」
俺は今の状況が嫌なのだろうか。ただ流されるだけ。ただ。それは心地いいほかないのだ。ただ。ただ、………。
突然大きな音を立ててドアが開いた。
顔面蒼白な世話係は俺の姿を見て、泣きそうな顔をして言った。
「大変です、オーナーが………!」
その日、オーナーは死んだ。突然倒れたそうだ。
俺は世話係に連れられるまま葬式に行った。式は着々と進んだ。子供も配偶者もいない彼の孤独な蝋人形のような顔を、出棺の前にのぞき込んだ。俺は自分が一生解放されないことを悟った。
式が終わるとそこからは波乱の日々だった。見たこともない上層の人間と手続きを重ね、主に金の話をした。オーナーの部屋を片付け、プライベートなものと業務用のものを分ける作業は3日を要した。彼にも仕事以外の要素があったことに驚いたが、もっと驚くものが出てきた。遺書だ。
遺書には、俺に、従業員への給料を引いた、店を含む遺産を全額相続し、店をどうするかは俺に任せる旨が書かれていた。俺はオーナーを恨んだ。
ラ・ビアンは一週間の臨時休業を取ることにした。
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