2. 日常
勤め先の娼館に戻るとオーナーが駆け寄ってきた。もう50にもなる男だ。子供を安い賃金で雇い、高級店を謳っている。男は眉間にシワを寄せながら言った。
「おい、アケル、さっき外に行ったな。」
「それがどうかしましたか。」
「とぼけるな!お前はなんでいつも問題を起こして帰ってくるんだ。今日もどうせ喧嘩だろ。ドブの匂いがついてる。」
「すみません。でもあれはあいつらが騒がしかったのが悪いんすよ。」
「何を開き直ってるんだ!お前さんはこの店の稼ぎ頭なんだぞ!?傷ものになっちゃ困るんだよ!!」
怒鳴られたことに少しイラつきを覚える。
「別に俺は男だしむしろ傷の1つや2つあったほうが売れるかもしれないですよ。それにもし万一のことがあっても、俺を買えるような金持ちなんてこの辺りにはいないでしょう。」
「そういう問題じゃないんだ!お前さんに何かあってみろ、ここを辞めてもらうことになるんだぞ!」
辞める、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわつくような感覚を覚えた。
「それは、嫌です。」
「だったら問題を起こさないことだ。」
そう言うとオーナーは足早に立ち去ろうとする。しかしすぐに立ち止まって振り返らずに言った。「と言ってもお前が聞かないことぐらいわかってる。そこでお前はこれから1週間、休日でも外出禁止だ」
「え?」
「お前に拒否権は無い。大丈夫だ。お前がひましないようにちゃんと仕事は入れてある。」
「え、ちょっと」
「わかったら早くシャワーを浴びろ。ドブの匂いがする。」
そう言い捨てると彼はそさくさと行ってしまった。
「最悪だよ」
オーナーの香水の匂いがやけに鼻についた。 香水の甘ったるい匂いに酔いそうで、部屋に帰るやいなやシャワーを浴びる。俺はこの匂いが大っ嫌いだ。子供を騙す匂いだ。金におぼれた魔物の匂いだ。一通り洗い終え、鏡に映る自分を見た。
「……酷い顔してるな」
目の下にクマができ、頬もこけている。髪はボサボサだった。こんな状態で客の前に出るわけにはいかない。
「飯食うか……」
冷蔵庫を開けて中身を確認する。ろくなものがない。食事は主に館内の食堂でする。それでもメニューや提供時間には限りがあるため、食堂の飯の残りをこっそりと持ち帰ってストックしているのだ。街で買ったものを食べることも許可されているが、食堂の飯のほうがコスパがいい。だが今回に限っては何か買ってくるべきだった。食堂まで行くのが死ぬほど面倒くさい。
仕方ないのでポケットに入れていた煙草を吸おうとするも、あいにくさっきのが最後だったらしい。控えを取りに洋服箪笥を開ける。入れておいたはずのタバコはなかった。
朝。空腹のまま食堂へ向かうとオーナーがいた。彼はお気に入りの少年を連れていた。まだ12歳ぐらいのガキだ。それを遠巻きに見ながら食事をした。あの子はここで死ぬだろうと思った。
一通り食べ終え、少しをくすねて一度自室に戻り、冷蔵庫に入れる。少しして雑用の従業員が呼びに来た。休日だろうが仕事があるというのはマジだったらしい。従業員に連れられるまま廊下を歩いた。ついたのはオーナーの部屋の前だった。
「VIP客の接待かなんかすか?」
「さあ。私には詳しくはわかりませんが、オーナー様がここに連れてくるようにとおっしゃってたので。」
そう言うと彼はノックをして重いドアを開けた。
ふわりと甘い香りが漂う。
「入れ。」
「失礼します。」
後ろで扉が閉まる音を聞いた。オーナーがまるで王の間のような部屋の中央にいた。
「あの、仕事内容聞いてないんすけど。」
「ああ、言ってないからな。」
彼はゆっくりと立ち上がると1歩ずつ、こちらに近づいてきた。
「お前、男が好きか?」
「は?何をいきなり」
「答えろ。」
質問の意図がわからず黙っていると、オーナーの顔がどんどん険しくなっていった。
「どうなんだ?」
「好きとか嫌いとか、考えたこと無いです。というか、わからない。」
「そうか……お前はいつもそうだな。自分がどうしたいのか全く考えてなくて、ただ流されるだけ。」そう言うと、俺の胸ぐらを掴み、固く閉ざされたドアに押し付けた。背中に衝撃が走る。
「なあ、俺のことが嫌いか?恨んでいるか?」
「いえ、そんなことは」
「じゃあなんで俺のいうことを聞かないんだ!俺はお前のためを思って言っているのに!!」
オーナーの声に呼応するように、彼の背後のガラス窓に雨粒が落ち始めた。次第に激しくなる雨音が部屋を満たしていく。
「俺が憎いか?」
「え」
「憎いなら、殺せ。そうすればお前は自由になれるんだぞ」
「でも」
「ほら、やってみろよ」
そう言うとオーナーはナイフを取り出し、自分の首に当てがった。
俺はどうすればいいのかわからなかった。正直、面倒くさかった。
惰性でここまで生きてきた。これからも惰性で生きるつもりだった。もしここで彼を殺したらどうなるだろうと思った。すぐに騒ぎになって捕まるか、いや、この部屋には二人だけ。彼が勝手にやったと言えば疑われないかもしれない。そんな事を考えた。それは一種の現実逃避だった。
オーナーの首から一筋の血が流れた。俺はそれを黙って眺めた。汚い、金に溺れた人間の血だ。
「やっぱりできないか」
突然言うと彼は傷口を手のひらで抑え、立ち上がった。
「今日はこれくらいにしとく。また明日だ。」
そう言い残すと部屋から出ていった。俺はしばらく何もできなかった。ただそこで雨音を聞いていた。
結局その日は仕事はないと言われた。部屋に戻り、煙草を切らしていたことに気づいた。仕事で客から貰うか、そこそこ高価な流通品を買うかしか入手法はない。今日は客を取る予定も無いので、煙草を買いに行くことにした。財布を持って部屋を出ると、廊下には例の少年がいた。
「おい、あんまりウロチョロすんな。オーナーがうるさいだろ。」
「別に平気だよ。僕もう大人だし。」
「いっちょまえなこと言いやがって。何だ、腹でも減ったか?」
少年は首を振り、「暇なんだもん。」と答えると、歌を口ずさみながらスキップをして廊下の角に消えた。首には大きな跡があった。
廊下の終わり、玄関は客用とは別にこしらえられていた。小さな電球一つのそこは、太陽の光が差し込まないのか昼でも暗かった。そこでくたびれたサンダルを履いて外に出る。外は相変わらずの土砂降りだった。
「チッ」
傘はオーナーに言えば貸してもらえるが、今は外出禁止令を食らっている。いくら舗装されているとはいえ、この中を突っ切るのは得策ではなかった。俺は諦めて部屋に戻った。
暇だ。ニコチンが切れ、何もする気が起きない。軋むベッドに五体を投げ出して天井を見ていた。ふと、オーナーの言葉を思い出した。『お前はいつもそうだな』
俺はいつも何を考えているのだろうか。考えると少し頭が痛くなった。
「クソが」
そう呟いて起き上がる。
「そんなの俺が知りたいんだよ」
そう言って机の上に置いてある花瓶を力いっぱい投げ落とした。大きな音と共に粉々になった破片が散らばる
「あー……」
途端、猛烈な虚無感に襲われてその場に座り込んだ。
「なんですか!今の音!アケルさん!?」
世話係の従業員の声が扉越しに聞こえる。
「なんでもねぇよ」と返事すると、そそくさとどこかへ行ってしまったようだった。全てが面倒になっていた。
その後どうしたかは覚えていない。ただ、起きたときには窓から朝日が差し込んでいた。花瓶は散らかったままだ。
どのぐらい寝ていたのかわからないが頭がぼーっとした。頭痛は取れていない。しばらくして世話係の呼ぶ声がした。ドアを開けると彼はぎょっとした顔をした。
「どうした?そんなにひどい顔してるか?」
「ま、まあ。大丈夫ですか?昨日もすごい音しましたし。」
彼は割れた花瓶を見てさらにぎょっとした。
「掃除…しときますね。」
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