第23話 悪魔の口と、歪む時空

 ラピッドフェザーのタイヤが、黒ずんだガラス質の砂利を踏みしめる。目の前には、まるで巨大な獣が大地に開けた顎(あぎと)のような、不気味な亀裂が広がっていた。その向こう側の景色は、陽炎のように揺らめき、歪んで見える。空の色も、明らかに異常だ。紫と灰色を混ぜたような、淀んだ色が空全体を覆っている。


「…ここが、座標G-7区域……キャラバンの連中が言ってた、『悪魔の口』か」


 アタシはバイクを止め、ゴクリと喉を鳴らした。肌を刺すような、ピリピリとした空気。そして、言葉では言い表せないような、重く、ねじれた気配。プロとして、これまで様々な危険地帯を潜り抜けてきたアタシでも、これほどまでに異様で不吉な場所は初めてだった。


「レン、周辺のエネルギーレベル、及び空間歪曲率が急激に上昇しています。データベースに該当する自然現象はありません。これは…人為的、あるいは未知の要因による極めて異常な領域です」

 後ろに乗るイヴが、警告を発する。その声も、心なしかいつもより硬い気がした。

「バイクのナビゲーションシステム、及び長距離通信は完全に機能停止。これより先は、私のセンサーと内部データのみが頼りとなります」


「…チッ、いよいよ本番ってわけか」

 アタシは気合を入れ直し、ヘルメットのバイザーを下ろした。

「行くぞ、イヴ! プロは、どんな場所だろうと突き進むだけだ!」


 アタシはアクセルを開け、ラピッドフェザーを「悪魔の口」へと突入させた。

 一歩、その境界線を越えた瞬間、世界が変わった。


 空気が、まるで水飴のように粘り気を帯びたように感じる。重力が、僅かに増したような、あるいは軽くなったような、奇妙な感覚が体を襲う。そして何より、時間の流れがおかしい。まっすぐ走っているはずなのに、目の前の景色が急に遠ざかったり、逆にすぐそこまで迫ってきたりする。


「うおっ!? なんだこりゃ!?」

 バイクのコントロールが難しい。まっすぐ進むことすら困難だ。

「レン、空間が不安定に伸縮しています! 周囲の地形データと実際の風景に著しい差異が発生! 私のナビゲーションに従ってください!」

 イヴが、普段よりも少しだけ切迫した声で指示を出す。アタシはイヴの言葉だけを頼りに、歪む景色の中を、必死でバイクを走らせた。


 しばらく進むと、今度は濃い霧が立ち込めてきた。視界は数メートル先も見えないほど悪い。しかも、その霧はただの霧じゃない。時折、存在しないはずの影が横切ったり、遠い昔に失ったはずの誰かの声が聞こえたりするような、幻覚作用があるらしい。


「…チッ、面倒な霧だな…イヴ、大丈夫か?」

「…問題ありません。私の視覚センサーは、可視光以外の波長も捉えています。幻覚データはノイズとして処理可能です」

 さすがはアニマ・マキナ、と言うべきか。だが、油断はできない。


 その時だった。霧の中から、音もなく、奇妙な生物が飛び出してきた! 半透明のクラゲのような体に、無数の触手が生えている。物理的な実体があるのかないのかさえ分からない、不気味なミュータントだ!


「なっ…!?」

 アタシは咄嗟に銃を抜くが、相手はふわりとアタシの弾丸をすり抜けるようにかわし、触手を伸ばしてくる!


「レン! その敵は物理攻撃が効きにくいようです! 触手には神経毒が含まれている可能性あり! 回避してください!」

 イヴが叫ぶ! アタシはバイクを急旋回させ、触手をかわす!


「クソッ、どうすりゃいいんだよ、こいつ!」

「敵のエネルギーパターンを分析…! おそらく、特定の音波周波数に弱いと思われます! レン、バイクのエンジン音を最大出力で断続的に放射してください!」


「エンジン音!?」

 半信半疑ながらも、アタシはイヴの指示に従い、ラピッドフェザーのエンジンを限界まで吹かし、リズミカルにオンオフを繰り返した!


 ブォン! ブォン! ブォン!


 けたたましいエンジン音が、霧の中に響き渡る! すると、クラゲ型ミュータントは、まるで苦しむように身を捩らせ、動きが明らかに鈍くなった!


「効いてる! 今だ!」

 アタシはその隙を見逃さず、ミュータントの中心核らしき部分目掛けて、エネルギーパックを直結させたスタンガン(護身用に持っていたものだ)を叩き込んだ!


 バチチチッ!!


 激しいスパークと共に、ミュータントは光の粒子となって霧の中に消え去った。


「……はぁ……はぁ……やった、か……」

「はい、レン。脅威の排除を確認しました」


 なんとか危機を脱したが、アタシはイヴの方を見て、はっとした。イヴの体が、まるで古い映像のように、淡く明滅している。そして、その表情は苦痛に歪んでいた。


「イヴ!? 大丈夫か!?」

 アタシはバイクを止め、慌てて駆け寄る。

「……問題、ありません……レン……ですが、この空間は……私の……コアプログラムに、何か……強い干渉を……」

 イヴは胸元を押さえ、苦しそうに息をついた。彼女の青い瞳には、混乱と、そして未知のデータにアクセスしているかのような、奇妙な光が宿っている。


「無理すんな! 一旦、どこか安全な場所を探して休むぞ!」

 このG-7区域の異常な環境は、イヴのようなアニマ・マキナにとっても、相当な負荷になるらしい。それどころか、彼女の存在そのものに、何か根源的な影響を与えているのかもしれない。


 アタシたちは、比較的、空間の歪みが少ないと思われる、巨大な結晶質の岩が壁のようになっている場所を見つけ、そこで一時的に避難することにした。バイクを岩陰に隠し、イヴを慎重に座らせる。


「少し休めば、落ち着くはずだ」

 アタシはイヴの肩に手を置き、安心させるように言った。だが、アタシ自身の心臓も、不安で激しく脈打っていた。


 このG-7区域とは、一体何なのか? なぜこれほどまでに異常な場所になっている? そして、エデンとどう関係している? イヴに、一体何が起ころうとしているのか……?


 謎は深まるばかりだ。休んでいるイヴの隣で、アタシは周囲への警戒を続けながら、今後の進路について考えを巡らせる。このまま、さらに奥へと進むべきなのか? それとも、一度この危険な領域から脱出すべきなのか?


 プロとしての冷静な判断が、今、アタシに求められている。


 空には、歪んで見える星々が、まるで悪意を持ってこちらを監視しているかのように、不気味な光を放っていた。

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