第4話
1
「で、いつから始めたんだ?」
健太は拓也の部屋の絨毯に胡坐をかき、薄紫のワンピースのタグを弄りながら聞いた。午後の陽射しがカーテンの隙間から漏れ、彼の顔にきらめく光の模様を作っていた。
拓也はベッドの縁にもたれ、新しく買ったスカーフの端を無意識に巻きながら答えた。「中2の時...初めて母さんのスカートをこっそり試着した」
「わあ、そんな早くから!」健太の目が輝いた。「俺は中学の卒業パーティーの罰ゲームで、女子たちに無理やり着せられたんだ」変な顔をして続けた。「最初は抵抗したけど、後で写真見たら...けっこう似合ってた?」
二人は顔を見合わせて笑った。張り詰めた空気が少しずつ和らいでいく。拓也はまさか、学校で一番人気のあるスポーツマンの健太と、こんなに自然に女装の話ができる日が来るとは思わなかった。
「あの...見てみる?」拓也はかすかな声で言った。「携帯に『さくら』の写真があるけど...」
健太はすぐに身を乗り出した。「もちろん!わざわざカフェに行ったのに会えなかったんだから!」
拓也は暗号化されたアルバムを開いた。そこには淡いピンクのメイド服を着た「さくら」が、Vサインで可愛らしく微笑む姿が。メイクも完璧で、男性の面影は微塵もなかった。
「マジでお前?!」健太は目を丸くし、写真を拡大して細部まで見た。「全然別人じゃん!まつ毛どうなってるの?ウィッグはどこで買ったの?プロ級じゃねえか!」
拓也の頬が熱くなった。「ウィッグは店長に選んでもらって、メイクは美咲姉に教わったんだ...最初はひどかったよ、アイラインぐちゃぐちゃで...」
話の途中でドアの外に足音が聞こえた。兄が帰ってきたのだ。拓也は素早く携帯をロックし、二人は同時に勉強するふりをした。兄がドアを開けて覗き込む。「おう、健太もいるのか。母さんが夕飯二人分多く作っとくって」
ドアが閉まると、二人はほっと息をつき、また笑い出した。秘密を共有するこのスリルは拓也の心臓を高鳴らせたが、同時に不思議な安心感もあった。もう一人じゃないのだ。
「そういえば」健太が急に真面目な顔になった。「あの写真を撮ったやつを突き止めないとな。心当たりある?」
拓也は首を振った。「月影」で半年働いて、無数の客に写真を撮られてきたが、正体がバレるとは思ってもみなかった。
「まず学校から調べよう」健太はあごに手を当て、探偵のようなポーズを取った。「カフェでバイトしてるのを知ってる奴は?」
「いない...」少し間を置いて、「少なくとも誰にも話してない」
「じゃあ客の中に、学校関係者はいない?先生とか保護者とか」
拓也は記憶を辿った。突然、恐ろしい考えが頭をよぎった。「先月...生徒会の佐々木先輩が『月影』に来た」
「3年の佐々木先輩?」健太は目を見開いた。「あのいつも仏頂面の生徒会長?」
拓也はうなずき、胃が締め付けられるのを感じた。あの日、佐々木は隅の席に一人で座り、最高級のコースを注文。「さくら」の給仕をじっと見つめていた。帰り際には電話番号の書かれたメモを渡してきたが、拓也はすぐに捨てた。
「もしあいつだとしたら...」健太は眉をひそめた。「動機は?フラれた腹いせ?」
拓也は膝を抱きしめた。佐々木が犯人なら大変だ。生徒会長として学校での影響力は絶大だった。
2
月曜日の朝、学校はいつも以上に騒がしかった。拓也と健太は並んで廊下を歩きながら、周囲の反応を敏感に観察していた。変な視線は?不自然な噂話は?だが何事もなく、誰も拓也を特別に見ることはなかった。
「佐々木じゃないかも」健太が小声で言った。「そうならもう広まってるはずだ」
拓也もそう願ったが、不安は消えなかった。生徒会室の前を通り過ぎる時、思わず足を速めたが、佐々木の長身がちらりと見えた。相手も気づいたようで、鋭い視線が拓也の首筋の毛を逆立てた。
数学の授業で、清水先生は中間テストの結果を発表した。拓也は普段より5番順位を下げたが、先生は特に叱らず、答案を返す時にそっと「放課後職員室に来て」と言った。
胸がざわついた。前回の会話以来、清水先生には感謝と後ろめたさが入り混じっていた。先生は心から助けようとしてくれたのに、自分は全てを打ち明けられなかった。
チャイムが鳴ると、健太は肩を叩いた。「待ってる?」
拓也は首を振った。「先に帰ってて。先生と...ちょっと話したいことがあって」
職員室には先生一人だった。座るよう促されると、先生は引き出しから紙袋を取り出した。
「見せたいものがあるの」いつもより柔らかい声で。「私の高校時代の写真よ」
写真の「少年・清水」は男子制服を着て、短く刈り上げた髪でバスケットコートを走っていた。次の写真は大学生時代、髪は少し伸び、中性的なシャツを着ている。最後は現在の姿、肩までの髪だが、やはりパンツスタイルだった。
「見て」先生は写真を指さした。「外見は変わる。好みも、自分への認識も。でも『私』という核は変わらないの」
拓也の喉が詰まった。先生は、どんな格好をしようと「十崎拓也」であることに変わりはないと言ってくれているのか?
「先生...」勇気を出して聞いた。「もし誰かが...僕の秘密を暴こうとしたら?」
清水先生の表情が険しくなった。「脅されてるの?」
拓也は匿名写真のことを簡潔に話した。先生は少し考え、突然「その写真を見せて」と言った。
よく見ると、先生は写真の隅を指さした。「この映り込み、『月影』特製の桜カップよ。VIP客専用のもの。あの日のVIPリストを調べてみて」
拓也は目を見開いた。先生がどうして「月影」の細部まで?
「そんな目で見ないで」先生は微笑んだ。「あの店は私の大学時代からあるの。当時は今ほどオープンじゃなかった」遠い目をして続けた。「男装して停学になったこともあるわ」
拓也はハッとした。先生は自分が今歩んでいる道を、既に通り過ぎた先輩だったのだ。
「十崎君」先生は真剣なまなざしで言った。「誰かが意図的にプライバシーを暴くなら、それはあなたのせいじゃない。学校は全ての生徒を守る義務があるの」
職員室を出る時、拓也の足取りは来た時より軽かった。携帯を取り出し、健太にメッセージを送った。【清水先生、「月影」知ってた。手がかりくれた!】
3
放課後、ファミレスで拓也と健太は「月影」からもらったVIPリストを頭を突き合わせて見ていた。佐藤店長は事情を聞くと協力的で、過去1ヶ月分の予約記録まで提供してくれた。
「ほら!」健太が一つ名前を指さした。「佐々木隆史、先月15日、まさにその日だ!」
拓也の心が沈んだ。ほぼ間違いなく、脅しは生徒会長からのものだ。
「でもなんで今頃写真?」健太は眉をひそめた。「一ヶ月も前のことなのに」
拓也はふと思い出し、携帯のカレンダーを開いた。「先週...生徒会役員選挙の立候補受付だった」
「あ!」健太はテーブルを叩いた。「佐々木は再選を目指してて、お前は図書委員で推薦権持ってる!弱みを握ろうとしてたんだ!」
これは納得がいく。佐々木は手段を選ばないことで有名で、去年も似たような方法でライバルを蹴落とした。
「どうする?」拓也はストローを噛みながら聞いた。「直接問い詰める?」
健太は首を振った。「危険すぎる。もし他にも写真や動画があったら...」
二人は黙り込んだ。窓の外では雨が強くなり、水滴がガラスを伝っていた。拓也の混乱した心を映しているようだ。
「ねえ」健太が突然言った。「明日これで学校行ってみない?」
カバンから小さな箱を取り出した。中には銀色に輝く桜の形をしたブローチが入っていた。
「これは...」
「誕生日に祖母がくれたんだ、女々しいからずっと使ってなかった」健太はにやりと笑った。「でもお前のスカーフに合うと思う」
拓也は指でそっとブローチに触れた。学校で女物のアクセサリー?考えただけで恐怖と興奮が入り混じった。
「小さいものから始めよう」健太の声は意外にも優しかった。「スカーフ、ブローチ、ブレスレット...少しずつ『こんな十崎拓也』に皆を慣らすんだ。写真がバレた時の衝撃も和らぐ」
この計画はクレージーすぎたが、拓也の胸に不思議な勇気が湧いてきた。ブローチを受け取り、うなずいた。
「でもまず」健太はまばたきした。「俺にメイク教えてよ。たまには『健子』モードもいいかな!」
二人はゲラゲラ笑い、周りの客にじろりと見られた。だがこの瞬間、拓也は初めて本当に生きていると感じた。
4
翌朝、拓也は鏡の前に10分も立ち尽くした。薄いブルーのスカーフ、桜のブローチ、少し整えた眉――些細な変化の積み重ねが、彼の見た目を一変させていた。
「きれいね」いつの間にか母がドアの前に立っていた。透明なネイルポリッシュを持っている。「試してみる?ほんのり光るだけよ、よく見ないと分からないくらい」
拓也は驚きながらそれを受け取った。母のサポートは自然そのもので、まるで普通の学校行事に参加するかのようだった。
「お母さん...変じゃない?」長年の疑問をついに口にした。
母は少し考えてから言った。「あなたのおじいちゃん――私の父は伝統歌舞伎のメイクさんだったの」拓也の爪にポリッシュを塗りながら。「私は子供の頃から、男と女のメイクを行き来するのを見て育ったのよ。これよりずっと派手なのも」
拓也は目を丸くした。母がそんな過去を話すのは初めてだった。
「人は自分を表現する方法を選ぶ権利があるの」母はスカーフのしわを伸ばしながら。「誰も傷つけなければ、何だっていいじゃない」
母の励ましを受け、拓也は学校へ向かった。一歩一歩が綿の上を歩くようで、ふわふわとして力が入らない。
校門には既に健太が待っていた。拓也の新しい格好を見ると、口笛を吹いた。「イケてる!いや、可愛い!」
「声大きいよ...」拓いはうつむき、周囲の視線を感じた。
しかし不思議なことに、校内に入ると誰も特別に気にしている様子はなかった。女子が数人ブローチを見つめ、先生がスカーフが似合っていると褒めただけ。拓也の想像していた嘲笑や指さしは一切なかった。
「ほらな」健太は得意げだった。「みんな思ってるほど気にしてない。お前が勝手に深刻に考えすぎてたんだ」
たぶん健太の言う通りだった。拓也は胸の桜に触れ、分裂していた二つの自分が融合し始めるのを感じた――「十崎拓也」はスカーフやブローチを楽しみ、「さくら」は本来の性格を保てる。二者択一ではないのだ。
昼休み、屋上で食事をしていた時、健太が急に声を落とした。「ほら、2時の方向」
佐々木が少し離れた所に立ち、鋭い視線で拓也のブローチを見つめていた。その表情は嘲笑でも嫌悪でもなく、複雑な審査のようだ。
「評価してるんだ」健太が分析した。「お前の格好がどう反応を引き出すか」
拓也は無意識にブローチを隠そうとしたが、やめた。もし佐々木があの写真を撮ったのなら、隠しても意味はない。むしろこんな「十崎拓也」が受け入れられる姿だと見せつけるべきだ。
佐々木は拓也の態度の変化に気づいたようで、わずかに眉を上げると、その場を去った。
「変だな」健太は眉をひそめた。「何もしなかった」
これが最も不気味だった。嵐の前の静けさは、嵐そのものより怖いことがある。
5
放課後の図書館で、拓也は返却本の整理をしていた。健太はバスケの練習で、1時間後に合う約束だ。静かな環境で、ようやくこの狂った一日を振り返ることができた。
意外にも、最初の違和感を除けば、スカーフとブローチは...心地よかった。自由に呼吸できるようになった感じ。明日はあの薄ピンクのネイルポリッシュを試そうかと考えていた。
「図書委員」
低い声が本棚の向こうから聞こえ、佐々木の長身が現れた。拓也の心臓が急に高鳴り、手に持っていた本を落としそうになった。
佐々木は近づき、拓也のブローチを見つめた。「『月影』の桜マーク...大胆だ」
拓也の血の気が引いた。やはり彼だった。
「なぜそんなことを」拓也は勇気を振り絞って聞いた。「写真を撮って、健太に...」
「テストだ」佐々木の答えは予想外だった。「君の反応を見たかった」
「どういうこと?」
佐々木はカバンからファイルを取り出した――文化祭の企画書だ。「多様な性表現ワークショップ」の項目を指さした。
「文化祭でこれをやりたいが、実例が必要だ」佐々木の声は相変わらず冷たいが、内容は驚くべきものだった。「校内にいながら女装バイトをしている君は理想的なケースだ」
拓也は完全に混乱した。「じゃあ写真は...」
「君が恥じて逃げるか見たかった」佐々木は拓也をまっすぐ見た。「逃げなかった。今日は自ら女物のアクセサリーまで着けた...立派だ」
この展開に拓也の頭は真っ白になった。佐々木は脅しているのではなく、評価していたのか?
「でも...」ようやく声が出た。「直接聞けばよかったじゃないですか」
「直接?」佐々木はかすかに笑った。「匿名写真がなければ正直に答えたか?」
拓也は返事に詰まった。佐々木の言う通り、追い詰められなければ、永遠に打ち明けられなかったかもしれない。
「文化祭まであと一月」佐々木は書類をしまった。「参加するか考えてほしい。いずれにせよ...」少し間を置き、「今日の君は尊敬に値する」
佐々木が去ると、拓也は椅子にへたり込み、心臓の鼓動が早すぎるのを感じた。全ての前提が覆された――脅しは招待状で、敵は味方かもしれない。世界は思ったより複雑で、寛容だった。
健太が息を切らして図書館に駆け込んできた時、拓也はまだ驚きから覚めていなかった。
「どうした?佐々木が来たのか?何て言った?」健太は早口で聞いた。
拓也は深呼吸し、微笑んだ。「どうやら...彼を誤解してたみたい」
会話の内容を簡潔に伝えると、健太の表情は驚きから疑い、そして信じられないというものに変わった。
「ってことは全部...生徒会長の変な審査だったってこと?」
「そうみたい」拓也は胸の桜に触れた。「でもそれがなかったら、僕はきっと...」声が小さくなった。
「本当の自分になれなかった?」健太は言葉を継ぎ、にっこり笑った。「で、どうする?文化祭で『さくら』ちゃんとして出るのか?」
拓也は窓の外を見た。夕日が雲を桜色に染めていた。「月影」のメイド服と同じ色だ。一月前なら恐怖でしかなかったこの提案が、今は不思議な期待感で胸を満たした。
「やって...みようかな」小さな声で言った。
健太は大声で笑い、拓也の肩を抱いた。「それだよ、俺の知ってる十崎拓也!でもまずは...」ウインクした。「週末に『月影』に連れてってよ。正式に『さくら』ちゃんに会いたいんだ」
拓也はうなずき、心の重しが外れるのを感じた。これからどうなるかはわからないが、少なくとも今この瞬間、一人じゃない。
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