第3話

1


厨房の時計が午後3時を指す頃、拓也は食材保管室の隅で小さく丸くなっていた。携帯の画面が明るくなり、また暗くなる。健太からの最新メッセージは美咲との2ショット写真付きで、【このお姉さん、俺が弟に似てるって!俺も女装してみようかな?って冗談~】と書かれていた。


文字一つ一つが針のように拓也の目を刺した。震える指で返信する:【いつまでいるの?】


【あと1時間くらい。スペシャルデザートまだだし】健太の返信は明らかに期待に満ちていた。【で、お前は来るの?】


拓也は携帯を床に投げ捨て、膝を抱きしめた。保管室にはクリームとバニラエッセンスの甘ったるい匂いが充満していた。ドアの隙間から、健太とクラスメートの笑い声が聞こえる――誰が女装に向いてるか話しているようだ。


「3年の佐々木先輩、足細いよな」

「バスケ部のキャプテンがカツラ被ったら絶対ウケる!」

「そういえば十崎ってやつ、肌白くね?」


拓也の呼吸が止まった。自分たちのことを、あの調子で話している。健太は何と言うだろう?「実は十崎がここでメイドやってる」と暴露するだろうか?


「おい、お前ら」健太の声が突然真剣になった。「人のことそんな言い方するなよ。女装が何かおかしいことか?」


拓也は驚いて顔を上げた。健太がこんな口調になるのを聞いたことがなかった。


「急にどうしたんだよ?まさか本当に興味あんのか?」クラスメートがからかった。


「バカ言うな!」健太の声は再び明るくなった。「ただ、こういうことできる人ってすごいって思うんだよ。勇気が要るだろ?」


拓也の心臓が激しく鼓動した。健太がこんな考えを持っているとは。運動部の健太のような男子は、男の娘を変に思うとばかり考えていた。だが健太の言葉には、少しばかりの...敬意さえ感じられた。


厨房のドアが突然開き、美咲が入ってきて鍵をかけた。


「あいつら帰ったわ」声を潜めて言った。「でもあなたの友達、『学校の十崎くんに』ってストロベリーケーキのテイクアウトを注文してた」


拓也の顔から血の気が引いた。あまりにも不自然な行動だ。健太は気づいているのか?


「断っておいたわ。今日はテイクアウトしてないって」美咲はしゃがんで拓也と目線を合わせた。「でもこのままじゃダメよ。あの子、明らかに怪しんでる」


「どうすれば...」声がかすれた。「学校のみんなに知られたら...」


美咲は突然拓也の手を握った。「いい?私も中学時代、女装がバレて全校生徒に笑われたことがある。でも最後まで残ってくれた人たちが――」力強く指を握りしめた。「本当に大切な人たちよ」


2


拓也が従業員用出口からこっそり出た時、小雨が降っていた。傘は持っていなかったが、冷たい雨が顔に当たるのが気持ちよく、混乱した頭を少しは冷静にしてくれた。


角を曲がった時、拓也の体が凍りついた――健太とクラスメートが駅前で雨宿りしており、20メートルも離れていない。反射的に背を向けた拓也は、水たまりに足を取られ転んだ。


「おい!大丈夫か?」懐かしい声が背後から聞こえた。


心臓が止まりそうになった。振り向かず、フードを被ったこの姿を健太に気づかれないよう祈った。


「手伝おうか?」足音が近づく。


拓也は急いで立ち上がり、フードを深く被って速足でその場を離れた。後ろで健太が「ん?」と不思議そうな声を上げたが、追ってくる気配はなかった。


三つ目の角を曲がってようやく立ち止まり、息を整えた。ズボンはびしょ濡れで、転んだ時の擦り傷がひりひり痛む。しかしそれ以上に苦しかったのは、健太のあの声――とても近くて、しかし遠く感じられたあの声だった。


ポケットで携帯が振動した。佐藤店長からのメッセージ:【今日はお疲れ様。来週土曜のシフト、決まったら教えて】


長いこと画面を見つめたが、返信はしなかった。「さくら」を続ける勇気がまだあるだろうか?


家に着くと、母はリビングで生け花をしていた。びしょ濡れの拓也を見て驚いた。「まあ!そんなに濡れて!早くお風呂に入りなさい!」


「うん...」俯きながら階段に向かう拓也を、母が呼び止めた。


「待ちなさい。これ、あなたに」


差し出されたパッケージには有名ブランドのロゴ。中から出てきたのは、水のように滑らかなライトブルーのシルクスカーフ。明らかに女性向けのデザインだった。


「先週あなたの部屋を片付けていた時、あの箱を見つけたの」母の声は平静だった。「もっと良いものがいるんじゃないかと思って...」


拓也の頭がくらくらした。母は知っていたのか?いつから?父や兄弟は?


「心配しないで」母は拓也の心を読んだように言った。「これは私たちだけの秘密。ただ...」スカーフを優しくなでながら。「次に出かける前、お母さんにも見せてくれる?一番最初にあなたの姿を見たいの」


拓也の目頭が熱くなった。スカーフをしっかり握りしめ、うなずくと、階段を駆け上がった。


3


湯気で曇った浴室で、拓也は顔を手のひらに埋めた。母の言葉が頭の中で響く――責めも疑問もなく、ただ受け入れてくれた。最高の反応だったのに、罪悪感がさらに深まった。


体を拭いた後、拓也はなぜか新しいスカーフを手に取った。鏡の前で首に巻き、簡単な結び目を作る。淡い青色が肌をさらに白く見せ、シルクの感触がたまらなかった。


この瞬間、清水先生の言葉が理解できた――「どちらが本当の自分に感じる?」鏡に映る少年は、「十崎拓也」でも「さくら」でもない、その中間の何かだった。この気づきで心臓が高鳴った。


突然、携帯が鳴り響いた。健太からの着信だ。10秒ほど見つめてから、ようやく通話ボタンを押した。


「もしもし?拓也?」健太の元気な声。「今日どこ行ったか当ててみろ?あの噂の男の娘カフェ!」


指先が冷たくなった。「ああ...どうだった?」


「マジでヤバかった!」興奮した声。「『メイド』さんたち、全然男に見えない!それでな、秘密を聞き出したぞ...」


拓也の息が止まった。


「一番人気の『さくら』って子、俺らと同い年らしい!」声を潜めて続けた。「来週また行って絶対会うんだ。お前も来るよな?」


拓也の視界がぼやけた。健太が「彼女」と呼ぶ人物が、今この瞬間、パジャマ姿で女物のスカーフを巻き、本来の声で話している。この滑稽な現実に、笑いたくも泣きたくもなった。


「...考えとく」ようやく絞り出した言葉。


「そういえば」健太が突然言った。「今日お前らしき人を見かけたぞ。カフェの近くで、グレーのフード着たやつ」


心臓が一瞬止まった。「見間違いだよ。今日はずっと家にいた」


「そうか...」疑いが混じった声。「会いたすぎて幻覚かもな。明日学校で!」


電話を切ると、拓也はベッドに倒れ込んだ。嘘は雪だるま式に大きくなり、もう止められないところまで来ていた。


4


翌日の数学の授業、拓也は終始うつむいていた。清水先生と目が合うのが怖かった。ますます明白になる秘密を見透かされるのではないかと。


チャイムが鳴り、急いで荷物をまとめようとした時、先生に呼び止められた。「十崎君、ちょっとノートを運ぶのを手伝ってくれる?」


断れない頼みだった。重い問題集の山を抱え、職員室へ向かう。


清水先生のデスクは几帳面に整理され、小さな写真立て一つだけが飾られていた。こっそり覗き込むと、ショートヘアで男子制服姿の先生が写っている。


「驚いた?」先生は笑いながら写真を手に取った。「私の高校時代よ」


拓也は目を見開いた。写真の「少年」は確かに先生の面影があるが、雰囲気が全く違う。


「出生時の性別は女性だった」静かに語り始めた。「でも高校時代は自分が男性だと信じていた。大学で、性別は二者択一じゃないと気づくまで」


拓也の手が震えた。清水先生が自分の悩みを理解できた理由がわかった。


「十崎君」写真を元に戻しながら。「今何を経験していても、自分をすぐに定義しなくていい。探求する過程そのものに価値があるの」


視界が滲んだ。「小櫻」のこと、健太の疑い、母のスカーフ、全てを打ち明けたい衝動に駆られたが、「もし...探求することで人を傷つけたら?」とだけ聞いた。


「真実は人を傷つけない」先生の声は優しかった。「嘘こそが傷つけるの」


この言葉は、拓也の心に閉ざされていたドアを開く鍵のようだった。健太の興奮した電話、母の優しい微笑み、美咲の「大切な人は残ってくれる」という言葉を思い出す。


恐れていたのは、バレることではなく、拒絶されることだった。しかし大切な人に選ぶ機会を与えず、最初から決めつけていたのではないか?


5


放課後、拓也は直接家に帰らなかった。初めての服屋で女装コーナーをうろつき、薄紫のワンピースを選んだ。偽装も言い訳もない、「十崎拓也」としての初めての女装品だった。


家に着くと、健太が玄関先の階段に座っていた。


「どうしたんだ?」驚きながら、買い物袋を背後に隠した。


健太は立ち上がり、珍しく真剣な表情だった。「話がある」


胸が高鳴った。知られたのか?どうやって?認めるべきか?それともまだ嘘をつく?


「中に入ろう」鍵を開けながら。「でも家族が...」


「知ってる」健太が続けた。「電話したら、買い物に行ったって」


リビングには誰もおらず、母と弟が塾に行ったとのメモだけが残っていた。買い物袋をソファの陰に置き、手の震えが止まらない。


健太はコーヒーテーブルの前に座り、隣を軽く叩いた。拓也は硬直したまま腰を下ろし、裁きを待つ罪人のようだった。


「拓也」深く息を吸ってから健太が言った。「なんで昨日あのカフェに行ったかわかるか?」


首を振るしかできなかった。喉がカラカラだ。


「先週」ポケットから写真を取り出した。「俺の靴箱にこれが入ってた」


拓也が受け取った写真は、「月影」でメイド服を着て微笑む自分の姿だった。裏には赤ペンで【十崎拓也の正体を知りたいか?】と書かれている。


「最初はイタズラかと思った」健太が続けた。「でもよく見たら明らかにお前だった。だから直接確かめに行ったんだ...」


拓也の世界がぐるぐる回った。誰かが自分の秘密を知り、わざわざ健太に教えたのだ。誰だ?クラスメート?客?それとも...


「昨日カフェの近くで、確かにお前を見かけた」健太の声が柔らかくなった。「転んだ時、目を見た...あの目は絶対にお前だ」


涙が溢れた。全ての偽装、全ての嘘が、この瞬間無意味になった。


「で...」涙声で聞いた。「全校生徒に言いふらすつもりか?」


健太の表情が突然怒りに歪んだ。「何言ってんだよ!」肩を強く掴まれた。「怒ってるのはお前が打ち明けなかったことだ!俺たち親友だろ!」


拓也は呆然とした。予想していた反応――嫌悪や嘲笑ではなく、裏切られたような悲しみだった。


「怖かった...」ようやく本音が出た。「気持ち悪がられるのが...」


「バカヤロー!」健太は拓也の頭をごしごしと撫でた。「昨日言っただろ?こういうことできる奴はすげーって!」そして声を落として。「実は...俺にも秘密がある」


携帯のアルバムを開き、女装姿の自撮りを見せた。「中3の時、賭けに負けた罰で...」照れくさそうに頭を掻いた。「でもな、結構...いい感じだったぜ」


涙が止まらなかった。ソファの陰から買い物袋を取り出し、中から紫色のワンピースを取り出した。


「さっき買ったんだ」小さな声で言った。「本当の自分で...初めて買った」


健太は目を丸くすると、突然爆笑した。「なんだよこれ!少女漫画かよ!」


二人で笑い転げ、全ての緊張と恐怖が消えていった。笑い終わった時、拓也はふと思い出した。「そういえば、あの写真を入れたのは誰だ?」


健太の表情が再び険しくなった。「わからねーけど、明らかにお前を傷つけようとしてる。絶対見つけ出さねーとな」


拓也は頷いた。恐怖と安堵が入り混じっていた。少なくとも、もう一人じゃない。性別や将来について、清水先生の言う通り、探求する過程そのものに価値があるのかもしれない。

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