経過録 七日目
頭がぼうっとする。ここはどこだ? 俺は手探りで辺りを触る。何か固いものに当たった。ビデオカメラだ。俺はビデオの電源を押す。ベッドに寝転がる俺の姿が映る。いつの間にか服を脱がされ、包帯が巻かれていた。実験されていた時を思い出す。隣の二つベッドには、チャリとキニアンが寝かされていた。二人とも絆創膏まみれだ。俺は起き上がろうとするが、手に力が入らなかった。いや、力が入らないというよりは、肩より後ろに腕が動かなかった。ネズミのように、手を前に突き出すことしか出来ない。ジェマーの言っていた崩壊は、日に日に俺を蝕んでいた。
「起きたか、ネズミ頭」
大男が部屋に入ってくる。がっしりとした体格で、腕は丸太みてぇに太い。モジャモジャの髭に覆われた顔は、どんな顔をしているのか分かりづらかった。大男は水の入ったコップを、俺達のベッドの棚に置く。
「アンタは?」
「俺はマシュー。この辺で農家をやっている」
マシューと名乗った大男。彼がどんな人生を歩んできたのかは、眉間に刻まれた皺が物語っている。
「お前さんが何者かは知らないが、勝手に俺の納屋で寝てたような奴だ。カタギじゃないだろ」
マシューは目の前にいるネズミ頭が喋ることには何の疑問も抱いていない。きっと俺みたいな奴に何度も会ってきたんだろう。
「悪いが、それ飲んだらさっさと出て行ってくれ」
「ご厚意に感謝するよ」
俺はコップに入った水を飲む。渇ききった喉に、水が染み渡る。やはりこの男は、面倒ごとが嫌いみたいだ。
チャリとキニアンもゆっくりと起き上がる。二人共見上げるような大男を見て仰天していた。マシューの方も驚いたのか眉を上げる。
「あなたが助けてくれたんですか?」
「お前さん達に納屋で死んでもらったら困るからな」
マシューはチャリの顔をまじまじと見る。なんだかチャリを知っているようだ。あんな冴えない顔をした知り合いがいるのか。
「俺は一人でいるのが好きなんでな。すまないがお前さん方も落ち着いたら出て行ってくれ」
マシューは頑なに俺達をもてなそうとしない。過去に犯罪者でも匿っていたかのようだ。早く水を飲めと言わんばかりに、棚に指を打ちつける。
「あの、僕達アップルチークに向かっているんです。あとどれくらいかかりますか?」
「ここがアップルチークだ。街外れだがな」
マシューの言葉に、チャリは勢いよくマシューに迫る。チャリも背が高いから、親子のようにも見えるな。
「僕達、ドナーズサンデーって言う店を探しているんです。おじさんは何か知ってますか?」
チャリの言葉に、マシューは目元をひくつかせる。
「その店ならとっくに潰れたぞ。今は瓦礫の山になってるだろうよ」
「そんな……」
肩を落とすチャリ。無理もない。自分が何者かも分からない奴が、唯一縋った手掛かりだ。それが潰えた今、チャリは糸が切れた人形のように崩れる。
「アンタ、見たところこの街には随分長く住んでるんだろ。この男、チャリもアップルチークに住んでたみたいなんだが、何か知らないか?」
「…………いいや、知らんな」
マシューは首を振るが、視線はチャリに向けたままだ。初めて見る奴の反応じゃないな。こいつに対して碌な思い出がないのだろうか。ただただ、この大男は面倒な客人に早く出て行ってもらいたいと、コップをせっせと片付ける。
マシューの家のドアを無遠慮に叩く音がした。マシューは招かれざる客人にうんざりしてため息をつく。
「この辺に不審人物が逃げ込んだと通報を受けた者です。ゴードンさんはご在宅ですか?」
聞き覚えのある神経質な声に、俺は屈んだまま部屋を出ようとする。チャリもキニアンも一番会いたくない相手の声を聞いて、呼吸が小刻みになった。まさかここまで嗅ぎつけてくるとは。警察より仕事が早いな。
「お前さん方、早く裏口から出ていきな。客の対応は俺がする」
「いいのか? 相手は俺達を差し出さない限り、アンタを痛めつけるような奴だぜ」
マシューは手斧を持つ。マシューも相手がただ者ではないと踏んでいるようだ。マシューはチャリを見ながら、部屋の扉を開ける。
「店の跡地の近くに、ローズっていう婆さんが住んでる。その婆さんがチャリっていう名前をしきりに言っていたぞ」
マシューの言葉に、チャリは顔を上げる。まだ手掛かりが消えた訳じゃない。生きていれば辿り着けるはずだ。
扉を叩く音が大きくなる。マシューはさっさと行くように俺達に手を振った。俺達はマシューに軽く会釈をして、忍び足で裏口から出ていく。表口では言い争うような声が聞こえてくるが、俺達はそれを振り切って走る。マシューが繋いでくれたチャンスだ。無駄にはできない。
ドナーズサンデーに着く頃には、俺は二本足で立てなくなっていた。不恰好な四つん這い姿は、さながらでかいドブネズミだ。チャリはやっと辿り着いた目的地を見て、膝から崩れ落ちた。
「だい丈夫か……」
俺は声をかけようとしたが、上手く舌が動かなかった。クソ……言葉も失っていくのか。俺が記録に残せる時間も、限界へと向かってきていた。俺は二人に悟られまいと、大きく咳払いをする。
マシューの言った通り、ドナーズサンデーは見る影もなくなっていた。入り口のガラスは割られ、アイスクリームが描かれた看板はチョコレート味しか売っていないぐらい泥だらけだ。キニアンはチャリをゆっくりと起こす。チャリの顔は涙でベショベショになっていた。
「何か思い出せた?」
「ぼく、小さい頃ここに来たんだ。父さんと母さん、妹のノーマと。母さんはぼくが学校で賞を取ったら、決まってここのナッツロックサンデーを買ってくれた。でも、ノーマには買ってくれなかったんだ」
思い出した記憶を手繰り寄せるように、チャリは次々に記憶を吐き出す。昔のチャリに戻ったような口調だ。だけどあんまり楽しい記憶じゃないみたいだな。
「落ち着いてチャリ。深呼吸して」
キニアンがチャリの肩をさする。そっとしておいた方がいいと思うけどな。今のチャリは頭の中が破裂しそうなほど苦しんでいる。チャリは口を押さえながら店の壁にもたれかかった。
「どうされました? そこの人」
店の前を通りがかった婆さんが、俺達に近づいてくる。何歳かは分からないが、ひどくふらついた足取りだ。婆さんは、霞がかった緑色の瞳を、チャリに向ける。チャリの顔を見るなり、婆さんの皺だらけの顔が震えた。
「……チャリ……チャリじゃないの!?」
婆さんはひどく狼狽して、チャリの手を取る。婆さんの手はひどく細く、チャリの手に埋もれてしまいそうだ。突然の出来事に、チャリは思わず婆さんの手を振り解く。
「一体誰なんですか!?」
「お前、帰って来てくれたのかい? 母さんはずっと、お前を探していたんだよ」
チャリの母親を名乗る婆さんは、涙声でチャリに縋り付く。目の焦点が合わず、まるで今のチャリを見ていないようだ。見かけは弱々しい婆さんだが、今のチャリにはどんなクリーチャーよりも悍ましいだろうよ。婆さんは懐から人形を取り出す。かろうじて女の子の人形に見えるが、ひどく汚れていた。
「ほら、お兄ちゃんだよ。お兄ちゃんが帰って来たんだよ」
婆さんは返事のない人形に何度も話しかける。チャリは怯えたように目元を引き攣らせた。ネズミの俺でも、この婆さんは危険だって分かる。チャリは目の前の光景に、言葉を失って突っ立っていた。
「お母さん、また勝手に家を出て。お医者様にも安静にしなさいって言われたでしょ」
背の高い女が、婆さんを車椅子に乗せる。婆さんは、人形に向かってぶつぶつ文句を呟く。
「すみません。ウチの母、少々ボケが始まってて。お気に触ったらごめんなさい」
「そんな、気にしないでください」
謝る女に、取り繕うように笑うキニアン。さすが、謝るのには慣れてるな。チャリの方は女を見て呆然としていた。頭の奥で記憶を探しているみたいだ。
「…………ノーマ?」
「ノーマは私の名前ですが……どちら様ですか?」
名前を呟かれて、怪訝な顔をするノーマ。チャリは目を見開いて、女の目をよく見ていた。
「僕だよ。チャリだ」
この男の名前を聞いて、ノーマと婆さんはショックを受けたように青ざめる。まるで、その名前は口にしてはいけないと言わんばかりだ。
「嘘……だって兄さんはあの時……」
「本当に帰って来てくれたのかい? あああ! 母さんは……母さんはお前に……!」
婆さんは震えた足取りで、興奮気味に立ち上がる。呼吸が荒くなり、婆さんは苦しげに胸を抑えた。興奮の余り婆さんは息が詰まり、そのまま倒れ込んだ。
「お婆さん!? しっかりしてください!」
キニアンが婆さんを抱き抱える。突然の出来事に、チャリもノーマも狼狽えた。俺も手を貸したいが、もう動かせる手はなかった。
「ノーマさん。悪いけどあなたの家を借りるわ。お母様を早く安静な場所に連れて行かないと」
キニアンの気迫に押され、ノーマは家まで案内する。次々と押し寄せる出来事に、チャリはただ流されるしかなかった。
記憶を辿った結末がこんな事になるとは。チャリ、お前は記憶を取り戻して幸せなのか? 白い家にいて、何も考えずに過ごした方が、お前にとっては幸せだったのか? 俺にはもう、それすら考える時間も残されていなかった。
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