経過録 八日目

 僕が生まれた家に帰ってから一日経つ。僕は家を見て回りたかったけど、母さんの看病が先だった。


 昨日の夜、アルは無言で僕にビデオを渡した。訳を聞くと一言、"家族を撮れ"って。最近、アルは口数が少なくなった。身体も酷く縮んで、中型犬と変わらない大きさだ。やっぱりアルは、キニアンが言っていた崩壊に向かっているのか? 僕が記憶を取り戻したら、アルはどうするんだろう。アルがどっかに行ってしまうと考えると、僕の胸は酷くざわついた。

 

 キニアンが母さんの額のタオルを取り替える。母さんは顔色こそ良くなったが、酷くうなされていた。ノーマもつきっきりで、目元に薄らとくまが浮かんでいる。


「母を診てくださってありがとうございます。キニアンさん」


「これでも研究員の卵ですからね。心因性のパニック症状ですから安静にしていれば意識が戻るはずです」


手術を受けた後の僕に話しかけるように、キニアンは優しく告げる。


「いつからこんな状態なんですか?」


「もう十年も前からです。兄が出てからずっと……」


キニアンは黙って頷くと、静かに部屋を出て行く。アルも大きな欠伸をして、その場に寝そべる。ノーマは小さい頃の面影はあるが、酷くやつれていた。ブロンドだった髪は黄土色に煤け、枝毛まみれだ。クマで大きく見える緑色の目は、鋭く吊り上がっている。


「…………どうして今更帰って来たの?」


「自分の事が知りたくて。手術を受けて記憶が曖昧なんだ」


ノーマの態度を見るに、思い出したくない記憶なのは容易に想像できる。現に、頭の縫い目が酷く疼いていた。


「それならここに兄さんが知っている物は何も残っていないわ」


「君だけが頼りなんだ! そのために、僕はここに来た」


ノーマは眉間に皺を寄せ、更に険しい顔になる。僕の記憶には無い顔。僕の知らない年月が

、彼女をこんな顔にしてしまったんだ。


「…………小さい頃の兄さんは、父さんと母さんに目をかけられてばっかりだったわ。何個も賞を取って、近所でも天才って評判だったの」


ノーマは苦々しく呟く。言われてみれば朧げに記憶が蘇る。記憶の中の僕は、表彰台にいることが多かった。


「兄さんが高校生の時、研究所からスカウトが来たわ。若い研究員の人が、"君の頭脳をぜひ活かしたい"。そう言ってた」


僕の頭の奥の方から記憶が顔を出す。痩せこけた白衣の男、ジェマーに僕は手を引かれていた。家を出る時、父さんと母さんは誇らしげに僕を見送ってくれた。ノーマは母さんの後ろに隠れていた。この時の僕は、自分が何をされるのか知っていたのだろうか。


「兄さんはその後戻ってくることはなかったの。父さんは母さんと言い争った末に家を出て行ったわ」


ノーマは苛立たしげに歯軋りをする。苦虫を噛み潰したような表情で、ノーマは僕を睨みつけた。握りしめた拳が段々震えてくるのが見える。


「それなのに、今更兄さんは帰って来たの!? じゃあ、父さんが出ていったのは何なの!? 母さんがこんなになったのは何なの!? 私が介護に使っていた時間は何だったの!?」


思い出したくもない過去を、トイレで溜まったものを吐き出すようにノーマは全部ぶちまけた。僕は返す言葉が出なかった。何を言っても、ノーマが失った年月に対する言い訳にしかならない。ただ、そこに立ち尽くしているしかなかった。


「何の騒ぎ!?」


キニアンが慌てて部屋に入って来る。息を荒くしていたノーマだったが、キニアンの驚く姿を見て徐々に冷静さを取り戻した。キニアンはノーマの痙攣する目元を見て、肩を落とす。


「……あなた達には申し訳ないと思ってます。でも、チャリを責めないでください。彼も失った年月を取り戻したくて、ここまで来たんです」


ノーマは唇を噛み、肩を震わせた。僕は本当に帰ってきてよかったのかな。僕は母さんに……ノーマにこんな顔をさせる為に帰って来たのかな。僕は今、生まれ育ったはずの我が家が酷く居心地が悪いように感じた。今すぐ自分の痕跡を消してしまいたい。


「…………申し訳ありませんが、出て行ってください。母の看病をしてくださった事は感謝してます。でも、これ以上私達に関わらないでください」


他人のように冷たく言い放つノーマ。キニアンは申し訳なさそうに頭を下げ、玄関に向かう。僕はノーマに声をかけたかったけど、今の僕には彼女にかける言葉も、かける資格すらない。自分の存在をかき消すように、振り向かず家を出て行った。


 外は曇り、小雨が霧のように降っていた。僕は先に出て行ったキニアンの背中を見る。キニアンの長い髪は湿り、毛先から水滴が落ちていた。アルが小走りでキニアンに駆け寄り、着ているパーカーを被せる。もうアルは服から体がすり抜ける程縮んでいた。


「ありがとう。でもアル、あなたが凍えちゃうわ」


キニアンはパーカーを返そうとするが、アルは低く唸った。アルは僕の肩に飛び乗る。子猫くらいのサイズのアルは酷く軽い。アルは鼻で僕の頬を小突く。まるでキニアンに何か話しかけろって言っているみたいだ。僕は恐る恐る、キニアンに近づく。


「あの……キニアン……」


「これからどうするの? あの感じじゃあ、もう入れてはくれなさそうよ」


僕が言葉を考える前に、キニアンは問いかける。僕は何も答えられなかった。もう僕には居場所がない。帰りを待つ人もいない。僕に残っているのは、中途半端に弄られた脳味噌だけだ。頭を弄られた気持ちを分かってくれるのは、アルしかいないんだ。


「……僕はアルとどこかで暮らしたい。もう、誰にも関わりたくないんだ」


一言一言紡ぐたびに息が詰まりそうになる。アルはつぶらな瞳を潤ませて僕を見た。アテはない。どうやって暮らすかも考えてない。ただ、ここから自分の痕跡を消し去りたかった。


「……もし良かったら私の故郷で暮らさない? 緑がいっぱいでとっても静かな所よ」


キニアンの提案は僕もアルにも満更ではないものだった。その証拠にアルはピンと耳を立てている。キニアンの故郷。きっと何もわだかまりも無い素敵な場所なんだろう。


「でも、キニアンはいいの?」


「私も、もうあの研究所で働くのはうんざりしていたところよ。退職届けを出す手間が省けて助かるわ」 


キニアンはポケットから、IDカードを出して、地面に叩きつけた。今までの憤りをぶつけるように、キニアンは土に埋まるまでカードを踏みつける。途中から嗚咽のような声が、キニアンから漏れ出た。この板一枚にも、キニアンのメモリーが詰まっているのだろう。IDカードの中にいる作り物の笑顔をしたキニアンは、キニアン自身によって葬られた。カードが完全に土に埋まると、キニアンは肺が萎むまで息を吐き出す。雨の中だが、その表情は晴れやかだ。


「居場所が無いなら、私があなたの帰る場所になるわ」


キニアンは僕の手を力強く握る。僕は迷うことなくその手を握り返した。雨が更に降りしきり、僕達のシャツまで濡らす。冷たい雨に打たれても、今はとても暖かい。このまま、キニアンの温もりを感じていたい。たまらず僕はキニアンを強く抱きしめた。雨に混じって、僕の涙が服を濡らす。互いの服が吸い付くように張り付いても、僕達は気にしなかった。キニアンも僕の温もりを求めるように抱きしめ返す。キニアンも辛かったんだ。


「羨ましいねぇ、お二人さん」


雷鳴と共に僕達の隙間を銃弾が掠める。思わず僕達は尻餅をついた。稲光と共に、三人の人影がチラつく。それは僕がよく知っている人影だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る