第4章 コメット・リユニオン

コメット・リユニオンⅠ

 夕方の塾の教室。

 蛍光灯の明かりの下、僕は次の生徒の授業準備のために開いていたワークから目を上げ、ふと窓の外に視線をやった。

 冬の陽は早く、空はすでに鈍く色を落としている。

 春が近づいてくるこの季節は、どうしても、あの頃の武との日々を思い出してしまう。

 

 あれから数年が経ち、僕は大学三年生になっていた。

 

 大学では天文学部に入り、充実した日々を送っている。

 彗星について学んでいるのは、ただ星が好きだったから――ということにしていたけれど、

 本当はきっと、ずっと彼を探し続けるように、星を見つめる日々を送っていたのかもしれない。

 

 通っていた塾で講師のバイトを続け、来年には就職か大学院進学かを決める必要がある。

 ひとつ進路が決まれば、また次の選択が待っている。

 この選択の連続は、一生続くのだろうか……と肩を落としかけたとき、人影が近づいてきた。


「石塚先生」

「あれ、早かったね笹川さん」


 疲れを見せたくなくて、慌てて笑顔を作ってから顔を上げると、長い髪をポニーテールにした女子生徒……笹川三実が目の前に立っていた。

「どうしてもわからないところがあったので、早めに来て、教えてもらいたくて。先生、この過去問解いたことあるでしょう」

 そう言って差し出されたのは『保志門大学過去問題集』。

 表紙の赤い冊子をパラパラとめくる鼻先には、そばかすが浮かんでいる。

 出会った頃より、瞳の奥に少しだけ強い意志が見えた。

 そうか、彼女も、もう来年は受験生か。

「……なんですか、黙って」

「いや、時の流れって速いなぁって……」

「おじいちゃんみたいなこと言わないでください」

 ぴしゃりと放たれる、少し強気な言い方は相変わらずだ。

 けれど、初めて会った頃の彼女の、おどおどした態度を思い出すと、それが少し嬉しかった。

 こんなふうに言い合える関係になったんだな、と、過去問に視線を落としながら思う。

 

 ……そういえば、いつから彼女はこんなに勉強にのめり込んでいたんだろう。

「笹川さんって、どうして保志門を志望したの」

「……陽川市に、近かったし」

「え?」

「星に近づきたかったんです。比喩じゃなくて。星みたいな存在が近くにいると思ったから、その場にいる言い訳が欲しくて」

「……複雑だね」

「乙女心です」

 なんだかよくわからないが、ストーカーにはならなければいいな……とまるで妹でも見るような気持ちで彼女を見つめる。

「ストーカーにはなりませんよ」

「なんで心配していることわかったの」

「もう、二年近く一緒ですからね」

 くっくっと小さく笑うその顔は、出会った頃には見せなかった、いたずらっぽい表情だった。

「まぁ、さっきのは……二割冗談で」

「八割は本気なんだね……」

「一緒に幸せになろうって決めた相手がいるから。勉強はその保険です」

 彼女の大人びた横顔を見て、その決意の強さを知る。

 あの夏、親友の定義を訊いてきた彼女。

 そのとき僕が思い浮かべたのは、放課後の天文部室でじゃれ合っていた武との日々だった。

 言葉にできなかった想いを抱えた、あの彗星のような存在。

 今思えば、あの感情は、なんだったんだろう。

 すっかり忘れ去ってもいいはずなのに、どうしても忘れ難い存在。

 笹川さんにも、そんな誰かがいるのかもしれない。

 詳しくは、聞けないけれど、懸命に前に進む彼女の力になりたいと思った。

「それじゃあ、一層頑張らないとね」

 そう言って、赤く丸で囲まれた問いに、一緒に取り組み始めた。

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