メモリー・リコレクションⅣ
三年生の空気が、まだ見ぬ未来の重さを少しずつ教えてくる。
模試や面談、書類の準備、時間割の変化――。
放課後に同じように残ることも、やがて当たり前ではなくなっていった。
将来のことなんて、まだちゃんとは分からなかったけれど、勉強を教えるのは、やっぱり好きだと思えた。
そう思えるようになったのは、武とノートを囲んだ時間が、確かに僕の中にあったからだ。
一方で、武の話はだんだん少なくなっていった。
「就職する」とだけは言っていたけど、どんな会社なのか、何をやりたいのか、ほとんど語られなかった。
もしかしたら話す理由がなかったのかもしれないし、僕に話したくなかったのかもしれない。
「またな」
「今度、時間あったら」
そうやって交わされる言葉の裏側に、「今日じゃない」が積もっていく。
すれ違い、というほど劇的じゃない。
ただ、重なっていたはずの時間のリズムが、少しずつずれていく。
武はどこか忙しそうだった。
就職の書類やら、バイトを探してるって噂も聞いた。
でも、本人の口からは何も聞かなかった。
冬の空気が校舎の隙間からしんしんと入り込み、天文部の部室の窓はうっすらと曇っていた。
僕はそのガラスに手のひらをあて、曇りをぬぐいながら、静かにため息を落とした。
ここに、武の姿がないのは、もう何度目だろう。
「……また、いない」
かすれた声は、誰にも届かず、古びた棚と静けさの隙間に吸い込まれていく。
机の上には、前に一緒に読んだ小説が置きっぱなしで、しおりが挟まったページだけが、時間を止めたように残っていた。
スマホを開き、武とのトーク画面を確認する。
数日前に送った「元気にしてる?」というメッセージは、既読がついたまま、返信がなかった。
前ならすぐにスタンプが返ってきて、「会いに行く」とか「部室集合」とか、そんな短い言葉で、僕たちはいつも繋がっていたのに。
……なにか悪いことを言っただろうか。
嫌われるようなことをしただろうか。
僕ばかりが、武との時間にしがみついていたのだろうか。
答えのない問いだけが、胸の奥でじくじくと疼いていた。
気づけば、毎日が武の気配と記憶だけになっていた。
その帰り道、図書館の前で偶然、武の姿を見かけた。
制服のポケットに手を突っ込み、無表情で立ち読みをしている。
手には、進路関係の資料集が挟まっていた。
声をかけようと、一歩だけ踏み出したその瞬間。
ふと武が顔を上げて、僕に気づく。
「……すまん、忙しくて」
それだけ言って、本を棚に戻し、こちらが呼び止める間もなく、鞄を肩にかけて、図書館の奥へと歩き去った。
冬が深まり、制服の上にコートを着る頃には、会話もぎこちなくなっていた。
並んで帰ることも、どちらからともなく減っていった。
何がどう変わったのか、はっきりとは分からなかったけど、
僕自身も受験勉強に忙殺されていて、気づかないふりをすることに慣れていった。
最後のホームルームが終わったあと、廊下を歩いていた僕に、見覚えのある顔ぶれが近づいてきた。
武のクラスの、明るくてよく喋る男女数人だ。
「おい! なぁ、そこの眼鏡!」
「め、めがね……」
「明日、武、卒業式来ないって本当か?」
「え?」
一瞬、時間が止まったように思えた。
「なんで?」
「知らない。なんかバイトか就職先の関係かもって。詳しくは聞いてないけど」
「やっぱり駆け落ちなんじゃねぇの」
「やだ~熱い男~」
「なんだ、結局この子も知らないか、仲良くしてると思ったけど」
「ありがと! じゃあな~」
口々に勝手なことを言って、彼らは騒がしく去っていった。
慌ててスマホを開き、武に「明日、卒業式、くるよね?」と送ったが、夜になっても既読がつくことはなかった。
そして、卒業の日である三月一日がやって来た。
式が始まっても、終わっても、僕の胸は落ち着かなかった。
拍手も、校歌も、友達の笑い声も、まるで別世界の出来事のように遠く聞こえた。
視線は、壇上と入り口を、ただ何度も往復していた。
最後まで、武の姿はなかった。
「……来てないんだ」
教室へ戻っても、武の名前を聞くことはなかった。
彼のいない景色は、こんなにも空白で、無音だったのかと気づかされる。
僕はひとり、式場をあとにして、校庭を歩いた。
保護者や友人たちの輪の中を、すり抜けるようにして。
そして、校門のほうで――
あの後ろ姿を、見つけた、ような気がした。
「あ……」
僕は立ち止まり、数歩駆け出そうとして……踏みとどまった。
武は制服の上にコートを羽織り、ポケットに手を突っ込んで、背を向けたまま門を出ようとしていた。
呼び止めようと、口が開く。でも声が出なかった。
「……まって……」
かすれた声が、春の風にさらわれて消えた。
見間違いだったのかもしれない。手を上げることも、立ち止まることもなく、そのまま僕の前から遠ざかっていった。
ポケットの中で、スマホを握りしめる。
武の名前をタップしかけて……やめた。
いまさら、何を聞けるというのだろう。
何を、伝えられるのだろう。
風が、吹き抜けるとともに冬の部室の記憶がよみがえる。
ストーブの前で、肩を並べて座ったあの夕暮れ。
傍らで笑っていた横顔。
『じゃあ、卒業式の日の夜、あの日の海で待ってて』
あれは、約束だったのか。
それとも、ただの夢のような言葉だったのか。
今となっては、もう確かめる術もない。
海に行けば、答えがあるような気がした。
でも、もうそこに武はきっといない。
分かっている。もう、誰もいない。
だから、僕は行かなかった。
会えないと分かっている場所に、どうして足を向けられるだろう。
それでも、忘れることはきっとできない。
あの日の風も、光も、武の声も。
全部、僕の中にまだ、残っている。
晴れた空の下。
春の陽光が降り注ぐ校庭に、僕はひとり立ち尽くしていた。
項垂れた僕の影が、長く、細く、地面に伸びていた。
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