メモリー・リコレクションⅢ

 テストが終わっても、僕たちは自然と放課後に天文部室で顔を合わせていた。

 武はよく、「教えてくれ」と言ってノートを持ってきたけど、勉強がしたいというより、ただ一緒にいたかっただけなんじゃないか……。そう、思うことがあった。

 もちろん、それは僕も同じだった。

 

 その日も、なんとなく、僕はひとり天文部室へ向かった。

 冬の空はもうすっかり暗くて、窓の外には雪がちらちらと舞っていた。

 ドアを開けると、そこには武がいた。

「あれ、先に帰ったんじゃなかったの?」

「……なんか、来たくなって」

 武は小さな電気ストーブの前に座っていて、その横をぽんぽんと叩く。

「ここ、あったかいぞ。座れよ」

「また勝手に部室のものを使って……」

「使われなくて埃被るよりはマシだろ」

 僕は小さく笑って、武の隣に腰を下ろした。

 ストーブの熱と、すぐ横にある武の肩の温もりに、少しだけ緊張する。

 静まり返った部室には、外で降る雪の音だけがかすかに聞こえていた。

 沈黙が続くなか、ふいに武が、僕の手の甲にそっと自分の手を重ねた。

「……手、冷たいな」

 その声はいつも通りぶっきらぼうだったのに、なぜかやさしく響いた。

 触れた指先のぬくもりが、まるで心の奥にまで届いてくるようで、僕は息を呑んだ。

 胸が高鳴り、言葉がうまく出てこなかった。

 

 武の手が僕の肩にそっと触れ、それから、何かを確かめるようにゆっくりと手を滑らせ、また僕の手に重なった。

 掴むでもなく、離すでもなく、ただ静かに、そこにいるだけのような触れ方だった。

 

 そのまま、しばらく時が止まったように過ぎていった。

 やがて、武は何事もなかったかのように手を離し、少し照れくさそうに笑った。

 

 その笑みが、どこかぎこちなく見えたのは、きっと気のせいじゃない。

「……ひろむ」

 上から降って来る掠れるような声を合図に、自然と互いに顔を寄せた。

 その瞬間、胸のどこかで、何かが壊れる音がした。

 でもそれは、決して悪い音じゃなかった。

 長い間凍りついていた想いが、静かに溶けていくような音だった。

 

 それきりふたりは何も言わず、ただストーブの前に並んで座っていた。

 ふいに窓の外を見た武が、ぽつりとつぶやいた。

「ずっと、このままでいられたらいいのにな」

「どうして?」

 僕が尋ねると、武は少しだけ視線を落としながら、答えた。

「お前との日々が、愛しいから。このまま大事に、したい」

 背も高く、しっかりとした体つきの彼が、今は大きな猫のように、肩を丸めている。

 いつもより、少し弱々しく見えるのは何故なのだろう。

 僕はずっと、武はどんどん先へ行く人だと思っていたけれど、そんな武ももしかしたら変わっていくこれから先のことを、不安に思う日があったのかもしれない。

 何か彼の背中を押すことは出来ないか、と思いながら僕は口を開く。

「……あのさ、小学生のとき、武がくれた万華鏡、あるじゃん」

「え、どうして突然」

「ちょっと、待ってて」

 鞄の奥から、小さな和紙で包まれた筒を取り出して、武に手渡した。

「見てみて」

「あ、ああ……」

 武は少し戸惑いながらも、万華鏡を覗き込む。

 その奥では、無数のガラス片が揺れて、角度を変えるたびに模様を変えていく。

「……綺麗だな。なんか、懐かしい」

「ね。どの面でも、綺麗でしょ。……壊れかけてて、昔と見え方は違うけど、今の方がなんか好きかも」

「へぇ……そっか」

「僕、この万華鏡を通して、最近、変わっていく景色も悪くないなって、思えるようになった。だから武にも、見てほしかった」

「……」

「きっとこれからどんな道を進んでも、どんなに周りの景色が変わっても、僕達なら、きっと……え、なに!?」

 雑に頭を撫でられてしまい、少し癖のある髪がより広がったことに抗議のまなざしを向けると、武は目を伏せながら小さく「励ましてくれてありがとな」と言った。

「べつに……元気出てほしかっただけで……」

 僕は少し目を逸らしながら、声を潜めて言った。

 まるで、自分でもなぜこんなことをしているのかわからない、とでも言いたげに。

 武はしばらく黙っていたが、やがて、ぽつりとこぼすように言った。

「でも、今の話、ちょっとずるい」

「なんで」

 僕が問い返すと、武は口元をゆるめた。少し照れたような、意地悪なような、複雑な表情だった。


「そんなの聞いたらさ、また何か、渡したくなるじゃん」


 僕は思わず笑って、それから、ふいに少し真剣な声で言った。

「じゃあ……卒業の日に、何か欲しいな」


 言ってから、すこしだけ恥ずかしくなった。でも、今の自分にはその一言が、必要だった。


「……え」

 武の声がわずかに上ずる。まさか本気とは思っていなかったのだろう。


「思い出になるようなもの。大事にするから」


 一瞬の沈黙のあと、武はふっと笑った。

「じゃあ、卒業式の夜、あの日の海で待ってて」

「なに? 何くれるの?」

 武はくすくすと笑うだけで、それには答えず、僕の肩にそっと頭を預けた。

 その温もりが、胸の奥を満たしていく。

 これからも、こんな日々が続いていくのだと、僕は思っていた。

 

 けれど、その約束が果たされることはなかった。

 

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