絡まった純情

鷹野ツミ

お兄ちゃんと私と先輩

 中学校入学早々、私は教室の隅で独りぼっち。

 理由は分かっている。お兄ちゃんのせいだ。

 素行不良の生徒が多い中学とはいえ、お兄ちゃんは一際目立っていた。

 先生の軽い注意にイラついて殴りかかることはしょっちゅうで、些細なケンカで先輩を半殺しにしたこともある。お母さんは学校に呼ばれすぎて生徒に顔を覚えられているほどだ。

たまき鈴人すずと』の名を聞けば、トイレでタバコを吸っている連中だって逃げてしまう。

 そんな狂犬の妹が入学したとなれば、みんなが避けるのは当たり前だ。

 私は全然真面目なのに。まあ、ツリ目の三白眼は兄妹でそっくりだし、目つき悪くて恐いと思われているのだろう。

 下校中、前を歩く集団は賑やかだ。追い抜くのも面倒くさい。私は散った桜を踏み付け、特に綺麗でもない川を眺めつつ昔のお兄ちゃんを思い浮かべた。人を殴るなんて絶対しなかったのにな。変わったきっかけがあるとすれば、告白の失敗。

 お兄ちゃんが小学校を卒業する前夜の話だ。

 私が寝ようとした時、お兄ちゃんが赤い折り紙の白紙の面に何か書いている姿が見えた。私の部屋はあるけれど、いとこが泊まりに来る時は私がお兄ちゃんの部屋で寝るきまりだったから、これはたまたま知ってしまった秘密なのだ。

 それラブレター? って聞こうとしてやめたのは、言い争いになってお母さんに怒られるのが確定だったから。そのまま眠りについて、中身を覗いたのは翌朝。

 お兄ちゃんが着慣れない服と格闘している隙に覗いた。折り畳まれた赤い折り紙を開けば、

『愛してる』

 真ん中に大きく、その一言だけ書かれていた。

 もちろん、冷やかしたり言いふらしたりなんてしなかった。卒業生を送る歌を歌いながら、お兄ちゃんどうなるかなとずっとソワソワしてしまっていた。

 結果は聞かずとも分かった。春休み中、ずっと落ち込んでいたから。ご飯も残すし、友達と遊びにも行かないし。

 そしてメソメソ期を抜けたと思ったらイライラ期が長いこと続いている。

 フラれたくらいで不安定になるなら、ずっと片思いでいればよかったのに。私ならそうする。

「あー……相手誰だったんだろ。って知ってどうすんのよ。優しいお兄ちゃんを返せ! って殴りにいく? サイコーにクレイジーだろそれー! 環兄妹が狂犬兄妹って呼ばれる日も近いなこれー!」

 私の叫んだ独り言は橋の上から川へと流れていった。

「誰と話してるの?」

 不意の気配に弾かれたように振り向けば、小首をかしげる男子生徒が居た。同じ中学の制服。サラサラの黒髪に白い肌、中性的な顔立ち。背は高いし声も男だって分かるけれどスズランみたいに可憐な印象だ。こんなに美形な人があの中学にいるなんて。

 ぼんやり考えていると彼の顔がぐっと近付いてきた。数センチの距離に驚き、離れようとして尻もちをついてしまった。

「わ、大丈夫?」

 手を差し伸べる姿はまるで王子さまのよう。運命を感じてしまいそうになり、理性的に脳内で否定した。

「あっ全然大丈夫です。えっと、ちょっと独り言叫んでました。私なんかに話しかけると変な目で見られるから、じゃあ──」

「まって。名前、聞いてもいい?」

 腕を掴まれ、力強さに鼓動が速まった。

「……たまき蘭子らんこです」

 彼は、たまきらんこ、とぽそりと呟き、

「お兄さん、いるよね?」

 まるで確信しているかのように聞いてきた。

「いますけど……」

「よく似てると思った」

 背筋が痺れるほど、どこか妖しげな笑顔は、私を完全に魅了するのに十分な材料だった。


 その日以降、彼は校門で私を待つようになった。踏まれた桜は泥に塗れて、増えた緑が見下ろしてくる。そんな景色を横目に一緒に帰るのは、必然だった。

 丹輪にわ蘇芳すおうという名前、グミが好き、梅干しが嫌い、お兄ちゃんと小五小六と同じクラスで仲が良かったこと、中一の時おばあちゃんの世話で遠くの地域へ行っていたこと、世話の必要がなくなってこっちに戻ってきたこと。色んなことが知れた。

 丹輪先輩が私に興味を持ってくれたのは、昔のお兄ちゃんと今のお兄ちゃんがあまりにも違くて、妹の私に話が聞きたかったからかもしれない。でも、まるでカップルみたいで、こんな素敵な先輩と話せるなんて嬉しい。周りの『たまき兄妹』を恐がる視線も気にならないほど幸せな時間だった。

「ねえ蘭子ちゃん、鈴人くんは一年の頃からあんな感じなの?」

「そうなんですよ。思春期? なのかなあ。家では普通なんですけどね。丹輪先輩はお兄ちゃんに殴られたりしてないですか? 何かあったら言ってくださいね! 叱っておきます!」

 苦笑いされた。そんな顔も素敵だ。一瞬、視線を足元に落としたのは気のせいだろうか。


 丹輪先輩のことがもっと知りたくて、お母さんもお父さんも帰りが遅い日、適当に作った夕飯を兄妹二人きりで食べている最中何気なく切り出してみた。

「お兄ちゃんって、丹輪先輩と仲良いんだよね? 先輩って授業中とかどんな感じなの? あ、別に私が気になってるわけじゃなくて周りの子がイケメンって騒いでるからちょっと気にな──」

 私の言葉を遮るように箸が落ちた。眉を寄せ、視線を下げたお兄ちゃんの瞳が揺れる。

「別にもう、仲良くない」

「……えー、そうなんだー。じゃあ思い出話でも聞かせてよ」

 なんとなく、地雷踏んだかもという空気だったけれど、いきなり黙る方がかえって気まずいので突っ込んだ。

 お兄ちゃんは目を瞑ったかと思えば口角を優しく上げていた。急に何。普通に恐い。情緒不安定って恐い。若干引いた私をよそに、独り言のような語りが始まった。

「あいつは、よく学校休んでて、席近かった俺が勉強教えたりプリント渡したりしてた。ばあちゃんの世話親に押し付けられてたからいつも疲れてたけど、俺を見かけると嬉しそうに駆け寄ってきた。先生に呼び出された後は俺に甘えるように擦り寄ってくるし、ガキ大将みてえな奴に貧弱ってバカにされたときは俺に抱きついて愚痴ってきた。俺だけがあいつの特別だって、思ってた。でも、俺は、とんでもない勘違い野郎だった」

 そこまで言うと我に返ったように私を見て、

「あー……今の聞かなかったことにしろよ」

 ばつが悪そうに二階へと行ってしまった。

 なんだか色々察しちゃったんですけど。と視線で訴えてみたけれど、お兄ちゃんが振り返ることはなかった。



 桜はすっかり消えて、派手に茂る緑から夏の気配が近付いている。季節の流れと共に、私と丹輪先輩の仲も深まっていった。毎日一緒に帰っているからひそひそ噂されているけれど、みんな直接聞いてはこないし陰湿な嫌がらせもしてこない。多分恐いんだ。こういう時は『環兄妹』でよかったなと思う。

 あれから私は、お兄ちゃんと丹輪先輩の関係を察しつつも、今更二人が上手くいくなんて考えにくいし、私は私のことだけを考えることにした。

 振られた過去を引きずるお兄ちゃんには悪いけれど、早く新しい恋を見つけられるように応援くらいはしておくよ。

「──でね、鈴人くんそのとき絵の具の水被っちゃって──」

 横並びに歩きながら、丹輪先輩はお兄ちゃんとの思い出を楽しそうに話す。柔らかな微笑みに弾んだ声。まだ春がそこにあるような感じ。お兄ちゃんを知る私だからこそ丹輪先輩の表情も言葉も引き出せる。私の胸は弾みっぱなしだ。

「気温もちょうどいいし、ちょっとだけ公園行きませんか?」

 丹輪先輩とまだ一緒に居たくて欲が出た。お兄ちゃん以外の話もしたかった。

「うん。いいよ。ジュースでも買おうか」

 いちごミルク飲もうかななんて話しながら歩くと、自動販売機前で落とした小銭を拾うおばあさんが見えた。さすがに無視するわけにはいかなくて、私は手伝いに駆け寄った。些細なことなのに過剰なまでの感謝に若干引いたけれど、小銭をいくらかくれたのでありがたくそれでいちごミルクを買った。

 丹輪先輩は、よたよた歩くおばあさんの背中を鋭く見つめて、軽く頷いた。それは何かを自分に言い聞かせているような雰囲気だった。

「先輩? 一本どうぞ」

「……あ、ありがとう」

 そういえば先輩は、自分のおばあちゃんを世話する必要がなくなったからこっちに戻ってきたと言っていた。それはつまり亡くなったってことだろう。見知らぬおばあさんを見るたび、色々思い出してしまうのかもしれない。それが良い記憶か悪い記憶か、私にはわからないけれど。

 公園の花壇にはカラフルな花が沢山植えられている。ゆっくりと薄暗くなる空に包まれながら、私たちはベンチに腰掛けた。

「おごってもらえて、ラッキーでしたね。ちょっと申し訳ないけど」

「別にいいんじゃないかな」

 返答に、いつもの柔らかさがなかった。

 私は勝手に気まずくなっていちごミルクをぐびぐび流し込んだ。

「……ああ、ごめん蘭子ちゃん。ぼーっとしちゃってた」

 丹輪先輩はいつも通り微笑んで、いちごミルクをひと口飲んだ。

「僕のおばあちゃんさ、スズラン食べて死んだんだ。猛毒だからね。おばあちゃんが死ねば、入退院を繰り返してたおじいちゃんも気力をなくしてすぐ死ぬんだろうなって思ってたけど、二人ともあっさり死んだなあ。僕の計画通りで笑える」

 その言い方はまるで、自分が殺したと言っているように聞こえた。今の話を聞いてなんて言えばいいんだろう。結局何も言えず、いちごミルクを流し込むことしかできなかった。

 甘さにひたっていると視線を感じ、横を向けば、丹輪先輩は初めて会った時と同じように妖しげな笑顔で私の手を握ってきた。絡まってくる指に鼓動が速まる。吹くのは生温い風なのに私の体温は上がっていく。

「スズランっていうと、環兄妹が浮かんでくるよね」

 私からすれば、スズランみたいな雰囲気なのは丹輪先輩だけれど、名前だけみれば鈴人と蘭子で私たち兄妹からスズランが浮かぶのも分かる。環兄妹には似合わない花だ。

 ぼんやり思っていると、

「家まで送るね」

 手を繋いだまま促されて、私たちは歩き出した。本当にカップルみたいで嬉しかったけれど、ちらりと横を見ても、先輩はこっちを見てくれない。少しだけ残念。

「あの、この辺でいいですよ。お兄ちゃん買い物出てたら鉢合わせちゃうし……」

 先輩は手を離さなかった。もちろん振り払うことなんてできるわけなくて、結局家の前まで来てしまった。予想通り、お兄ちゃんはレジ袋を持って向こうから歩いてきている。距離的に丹輪先輩が隣にいるって分かっちゃいそう。

「蘭子ちゃん」

 呼ばれて振り向けば、ぐっと引き寄せられ、何事かと脳が処理する前に、唇に柔らかいものが触れた。

 丹輪先輩と密着する身体。体温が一気に上がる。

「目、瞑らないの?」

 淡々とした囁きなのに脳が蕩けた。いわゆる、好きな人になら何されてもいいやって気持ちがよく分かった。

 だから、私がうっとりしている間、先輩の視線がどこを向いていたかなんて考えもしなかった。



 だんだんと、お兄ちゃんの思春期? が悪化した。

 梅雨のじめじめのせいかもしれない。ご飯も自室で食べるようになって、渋々行っていた学校もついに休むようになった。というよりサボるようになった。

「最近、鈴人くんどうしてるの?」

 丹輪先輩も心配するように聞いてくる。

「うーん。別に死にはしてないですけど……」

「お見舞い、行ってもいいかな」

「え、でも……」

「いいよね?」

 今日の天気と同じ、霧雨のような静かな圧に、頷くしかなかった。


「とりあえず、私の部屋どうぞ」

 丁度お母さんもお父さんも帰りが遅い日で、何か言われることがなくて助かった。といっても、丹輪先輩は私の両親がいない日を把握しているので気をつかってくれたのかもしれない。

「うん。お邪魔します」

 先輩は丁寧に靴を揃えて私についてくる。

 よくよく考えれば、両親のいない日に好きな人と部屋で二人きりなんて、そんなの、キス以上のことが……! 熱くなる頬を手で覆いつつ、日頃から掃除していてよかったと部屋に入った。

 先輩が床に座るので、つい欲張って、私の横へ促す。ベッドが二人分の重みで沈んだ。

「鈴人くんは隣の部屋?」

「あ、そうですよ」

 こんな時にお兄ちゃんの話をしないで欲しいななんて思うけれど、目的はお見舞いなのだから仕方ない。

 あれ? それなら私が部屋に誘ったの、なんで断らなかったんだろう。やっぱり期待していいってことかな。

「じゃあ、騒げば来てくれるよね」

「……え?」

 瞬間、私は壁に押し付けられた。勢いで頭がぶつかり鈍い音がした。制服を雑に脱がされたので抵抗すれば髪を引っ張られた。いたい! やめて! 叫んでもやめてくれない。みぞおちに拳がめり込んでくる。苦しい。助けて。優しさの欠片もない、無感情な瞳。もう下着が脱がされ──

「……なにしてんだ」

 ドアが勢いよく開いて、お兄ちゃんの姿が見えた。私は急に安心して涙が溢れた。

「鈴人くん! やっと僕を見てくれた!」

 そんな私をよそに、丹輪先輩はお兄ちゃんの元へ駆け寄り、抱きついた。え? なに? なんで? 私は混乱して、ベッドの上で呆然とすることしかできなかった。

「ねえ鈴人くん、妬いた? つらい?」

 先輩がお兄ちゃんの耳元で囁く。

「鈴人くんが悪いんだよ。僕の返事最後まで聞かないんだもん。せっかくこっちに戻って来られたと思ったら無視するし。だから、しかえし」

「……なに、言って」

「これ、覚えてるよね」

 先輩のポケットから、赤い折り紙がでてきた。

 それは私も知っている。昔、お兄ちゃんが書いたラブレター。

「僕、鈴人くんに告白されて嬉しかった。でも、引っ越さなきゃいけなくて、ごめんって言った後、ちゃんと説明しようとしたのに走って行っちゃうんだもん。誤解されたままなんてつらいよ」

 呆然とするお兄ちゃんに、先輩の唇が重なった。そのまま倒れ込むように体勢が崩れていく。息遣いと水音が、私の耳に流れてきて、心にヒビが入った気がした。お兄ちゃんは最初こそ動揺していたものの、そのうち先輩を強く抱き寄せて、頬を愛おしそうに撫でた。甘えるように擦り寄る先輩の瞳は熱を帯びている。

「ねえ、僕のこと、まだ愛してる?」

「愛してる。ずっと。あの時誤解してごめん。また会えてよかった」

「ふふ。僕も」

 二人の顔がまた重なって離れてを繰り返し、お兄ちゃんは先輩の耳たぶを甘噛みした。

「……でも、仕返しにしてはやりすぎだ」

 返事のかわりに、先輩はお兄ちゃんの唇に噛み付いた。

「鈴人くんだって、学校で暴れすぎ」

 ようやく私の存在を思い出したのか、二人は微笑み合って、見つめ合って、そのままお兄ちゃんは先輩を自室へ連れて行ってしまった。

 私はどうやら、仕返しの道具として利用されていたようだ。丹輪先輩は最初からお兄ちゃんの心を掻き乱すためだけに私に近付いたんだ。

 悲しみなのか怒りなのか、感情がぐちゃぐちゃだ。

 ──僕のおばあちゃんさ、スズラン食べて死んだんだ

 ふと先輩の言葉が浮かんだ。

 丹輪先輩は、こっちに戻って来るための手段としてまずおばあちゃんを殺した。そうまでしてお兄ちゃんの近くに来たかったということ。殺す道具にスズランを選んだ理由は、鈴人と蘭子、環兄妹が思い浮かぶからなのだろうか。

 そんなのまるで、僕たちは共犯だよって言っているみたいだ。

 でも、そこに私が含まれているのはなぜだか嫌じゃなかった。たまたま私の名前が含まれていただけだろうし、先輩にとって私は嫉妬の対象かもしれないけれど、二人の間に挟まれても良いくらい私は丹輪先輩に惹かれているらしい。

「あーあ。ほんと、兄妹そっくり……」



 それから私は、たびたび学校で暴れるようになった。ちょっと前までのお兄ちゃんと同じだ。抑えようのないぐちゃぐちゃな感情を発散せずにはいられなかった。

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