第十章 記されざる者

 ——数日が経った。

 五月の終わり、東京の空気はまだ熱気と不安で濁っていた。焼けたような日差しの午後、新聞売りの声が町に響きわたる。号外、号外と喚くその声は、まるで誰かの罪をあぶり出そうとするかのように、紙の束を握りしめて走り抜けていた。


「五・一五事件、真相解明進まず——青年将校に世論の声、二分す」

「犬養首相、志なかばで死す。憤激と悲しみ、全国に」

「青年士官ら『国家改造の叫び』に、若者の支持高まる」


 活字は、もはや凶行を告発する口調ではなかった。記者の筆は次第に抒情的になり、叛逆は「志」へとすり替えられていた。


 そしてその熱気の裏側で、ひとりの名がそっと抜かれていった。榊原啓一——


「……報告書の、続きはこれだけです」

 分厚い封筒を机の上に差し出したのは、若い海軍省の事務官だった。眼鏡の奥の目が、一瞬だけ啓一を見たが、すぐに書類に視線を戻した。無言のまま立ち尽くす啓一の前で、調査部の上席が静かに椅子を引いた。

「君の名は、どこにも載せていない。念のため、そうしておいた」

 言葉は穏やかだった。だが、そこには言い逃れのできない力があった。


 啓一は目を伏せた。手元の封筒には、自分が参加した行動の詳細が記されているはずだった。だが、件の襲撃部隊の構成には一名分の空白があり、日報にも立案にも、彼の名はなかった。まるで最初から存在しなかったように。

「それは、どういう……意味でしょうか」

 沈黙を挟んで、ようやく口を開いた。

「忖度だよ。あるいは配慮と言ってもいい。上官は君を庇ったつもりだろう。だがな……」

 男の声は、ほんのわずかに苛立ちを含んでいた。

「——これは、君にとっても我々にとっても、最善の処置だ。君は命令に従ったが、撃っていない。その記録は、君をどちら側にも置けなくする。法廷に立たせれば、不均衡な量刑を招く。君を支持すれば、他の士官が崩れる。君を罰すれば、同情が生まれる。つまり、都合が悪いんだ」

 啓一は、椅子に手をかけながら深く息を吐いた。

「都合……が、悪い」

「そうだ。政治というのは、そういうものだ。軍というのもな。これは軍紀の問題ではない。感情と記憶と物語の処理の問題だ。君はその狭間にいる。撃たなかった忠誠、従った良心……どちらにも、ならなかった。それがいちばん厄介なんだよ」

 男は立ち上がり、窓の方を向いた。

「いずれ君も、異動になるだろう。表立って処罰はされない。だが、昇進はないと思った方がいい。何もなかったように、ただ在る。そういう時間が続くことになる」

 外では蝉の声が鳴いていた。季節は、着実に夏へと向かっている。


 その夜、啓一は海軍省の近くを歩いていた。人気のない通りにひとり立ち、街灯の下でふと立ち止まる。背広のポケットに入れていた新聞を取り出し、再び広げた。そこに載るのは、あの夜、官邸を撃った青年たちの名だった。顔写真つきで、そこには「義憤」「理想」「哀しき決起」といった見出しが踊っていた。

 啓一の名は、どこにもなかった。何かを言いかけて、口を閉じた。見上げた空は曇っていた。夜の気配が重く、どこか湿っている。

 そのときふと、啓一は声にならないような低い吐息をもらし、そして——


「結局、俺はいない方が都合がいいのか……」


 独り言だった。誰にも聞かれない場所で、誰にも届かない声で、彼はそう言った。

 それは怒りでも、悲しみでもない。ただ静かに、そこに在る言葉だった。


 そのまま啓一は新聞を折りたたみ、背広の内ポケットに収めた。通りを離れ、寄宿舎へと戻る。周囲の士官たちは、あえて彼を見ようとしなかった。沈黙と規律、それが軍人の証とばかりに、彼の存在を見て見ぬふりをしていた。

 啓一は、部屋の扉を静かに閉め、机の前に座った。

 そして、机の引き出しから一冊の無地の冊子を取り出す。革張りのそれは、まだ数ページしか使われていない。海軍兵学校を卒業した頃、父が贈ってくれたものだった。

 白いページを開き、ゆっくりと筆を取り、墨を含ませる。


「昭和七年五月十五日。夕刻、官邸に至る。銃は持ちたるも、引き金は引かず。」


 一文字一文字を確かめるように、彼は書き記していった。声には出さず、筆先だけが真実を綴る。

「ただ命令に従い、行動を共にせしものなれど、その意味、いまだ測り難し。首相の瞳を見たり。深く、暗く、なお澄みしものなりき。」

 手は震えていなかった。ただ静かに、淡々と書き進めていく。

「我が名、記録に残らず。罪に問われず、義にも連ならず。あたかも初めより存在せぬがごとし。」

 そして、最後の一行を記した。

「ならば、せめてここにだけは、己の歩みを記す。」

 筆を置き、墨壺の蓋を閉める。ページをゆっくりと閉じ、冊子を机の奥にしまう。鍵をかけることはしなかった。隠すためではない。ただ、そこに在るべきものとして——。

 部屋の外では、夜風が葉を揺らす音がしていた。彼は椅子にもたれ、目を閉じた。名を持たぬ者として、それでもなお「自分の記録」を持とうとした者として。


 静かな夜が、そっと彼の上に降りていた

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