第九章 午後五時二十七分

 ——官邸の門が開いた。


 タクシーのエンジンがうなる音が芝の静けさを破ると、玄関前に黒塗りの車が滑り込んだ。運転手の表情は凍りついている。助手席から先に飛び降りた男が手を振ると、次々に後部座席から軍帽をかぶった青年たちが現れた。中に混じる私服の男が拳銃を取り出し、小走りで玄関へと向かう。

 榊原啓一は、その中にいた。冷たい金属の重みが腰に下げた拳銃から伝わってくる。息は浅く、喉の奥で熱が渦巻いていた。後戻りはもうできない。ここに来るまでにどれほどの逡巡があったか、それでも足を止められなかったことだけが今の自分をここに立たせていた。

 玄関前に立ち尽くす警官が、彼らの姿を見て一歩踏み出す。「何用か」と問いかける声はどこか頼りなかった。その声を遮るように、三上中尉が進み出る。顔に浮かんだ笑みは緊張と決意が混じったものだった。

「犬養総理に面会の約束がある。時間は過ぎていないはずだ」

 戸惑う警官が奥に引っ込んだのを見届けて、三上が低く呟く。

「行くぞ」

 啓一はその合図で体を前へ押し出した。玄関を抜け、和館へと続く廊下を走る。突如、裏手のほうで怒号と銃声。啓一は思わず振り返りかけたが、三上の怒鳴り声に前を向く。いま、なすべきことを。

 和館の襖が乱暴に開かれる。数名の警官が叫びながら押し寄せ、発砲音が再び鳴る。硝煙の匂いが鼻をつく。啓一は三上の背に続き、足元の破られた障子を踏み越えて、奥の部屋へと突き進んだ。


そのときだった。


「おい、そこにいるのか」

 犬養毅の声が聞こえた。老いた男の、しかし不思議なまでに落ち着いた声音。三上がその声の方角へ進む。犬養は、畳に座っていた。床の間の前、丸いちゃぶ台の向こうに、穏やかに佇んでいた。

「ようこそ。何か話があるのだろう」

 三上は言葉を失った。啓一も息をのむ。銃を持っていたはずの手が微かに震えた。

「……日本の行く末を案じるからこそ、我々はここに来た。政党政治では国が腐る」

 三上が硬い声で言う。犬養はただ頷いた。

「君らの気持ちは分からぬでもない。だが、暴力で道が開けると思っているのか」

 啓一の指が、無意識に引き金へかかっていた。銃口はまだ下げられたまま。しかしそのわずかな重さが、全身を圧迫していた。汗が背を伝い、軍服の襟元がじっとりと湿る。

「話せば分かる。いや、話さねば分からぬのだ。若い者よ、君たちは、どこで道を誤った」

 犬養の声は静かだった。説教でも叱責でもなかった。ただ、問いかけるように。

 そのときだった。

「問答無用、撃て!」

 誰かが叫んだ。三上か、あるいは他の誰かか。啓一の視線がぶれた。銃声。続いてもう一発。誰かが犬養の背後に回り込む気配。黒岩だった。二発目の銃声が響いた瞬間、犬養が崩れる。

 

 沈黙が、全てを飲み込んだ。


 誰も声を上げなかった。銃を撃った者も、撃たなかった者も、その場に立ち尽くしていた。犬養の体が畳に横たわり、口元から血が滲んでいる。老いた男のまなざしは、まだどこか遠くを見ていた。

「……話して聞かせることがある」

 その唇が、確かにそう動いたように啓一には見えた。聞こえなかったはずの言葉が、耳元で響く。


「撤退!」

 三上が叫んだ。誰かが走り出し、誰かが部屋を出ていく。啓一もそれに続いた。視界が霞み、音だけが妙に鮮明に響く。靴音、襖の開閉、外の風――それら全てが、現実と非現実の狭間に漂っていた。

 そして、門を抜けた瞬間、夜の空気が全身を刺すように冷たく包んだ。

 啓一は、ただ走った。銃はまだ腰にあった。その重さが、今も己の中で何かを引き裂いていた。

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