第八章 夜の中の旅人
汽車が品川の駅に滑り込んだのは、四月の半ばを過ぎた午後のことだった。雨上がりの空には低く靄が垂れ込め、遠く湾の匂いが微かに風に混じっていた。啓一は革鞄を片手に、濡れた石畳を歩いた。街は何事もないような顔をして、今日という日をまた始めていたが、その背後に何かが蠢いていることを、彼は知っていた。
任務の辞令には、「海軍省人事局付・特別研究補助任務」とだけ記されていた。だが、草薙中佐の無言の視線を思い出すたびに、啓一の背中には冷たいものが這った。草薙は「嘘をつかない男」だった。ただし、真実も語らない。
下宿は神保町の裏通りにあった。かつて学生時代に何度も通った古本街のすぐ近くで、板の間と薄い布団、茶箪笥ひとつの小部屋だった。大家の老女は無口で、鍵の説明を終えるともう啓一に目もくれなかった。
初日は、街を歩くだけで終えた。古書店の軒先を眺め、帝大の図書館前を通り、かつて学んだ教室を遠くから眺めた。だが、何もかもが遠く、過ぎた時間の裏側に沈んでいた。彼は自分が、かつての自分とまるで違う場所にいることを否応なく感じていた。
二日後の夜、部屋の戸が小さく叩かれた。
「榊原少尉、ですね」
扉を開けると、浅黒い肌に鋭い目をした男が立っていた。階級章は外しているが、その立ち姿は軍人だった。名は名乗らなかった。差し出された封筒には、簡素な文面と、日付、場所、そして「案内者:古賀中尉」の名が記されていた。
「明日十七時、築地第三倉庫前に。制服不要。携帯品制限なし」
「これは……」
「承知いただけますね」
その言葉は、了承を求めているようでいて、拒否を認めてはいなかった。啓一は黙って頷いた。男は一礼して、夜の街へ姿を消した。
指定の場所は、かつて漁網を扱っていたという古びた倉庫群の一角だった。夕暮れの空の下、そこにはすでに数人の影が集まっていた。制服ではないが、皆がどこか、軍隊の訓練が染み付いたような動きをしていた。
その中央にいたのが、古賀だった。帝国海軍・中尉。年は啓一よりわずかに上。だが、目の奥に宿る熱と冷たさの交錯が、彼を異質な存在にしていた。
「よく来たな、榊原。君の話は聞いている」
「私の……何を?」
「国を思う気持ちだよ。それがあれば十分だ」
それは明らかに、問いに対する答えではなかった。啓一はそれ以上、何も問わなかった。
倉庫の奥には粗末な長机と、数枚の地図が広げられていた。東京市内の要所。霞ヶ関。永田町。赤坂。そこに手書きの丸印が記されていた。見慣れた地図が、まるで違う文脈で語られていた。
「これは……演習計画ですか」
啓一が問うと、古賀は笑みを浮かべた。だがその目は笑っていなかった。
「演習か。ある意味ではな」
その夜の会合では、具体的な指示や命令はなかった。ただ「君のような人材を歓迎する」ということと、「次は水交社で会おう」という約束だけが交わされた。
啓一は帰り道、銀座の裏通りを歩いた。ビルの隙間から覗く東京タワーは、まだその場所にはなかった。代わりに、曇り空の中でぼんやりと、帝都の灯が滲んでいた。人の流れは止まらない。誰も何も知らない顔で、明日へと歩いていた。
それから数日のうちに、彼の任務は徐々に具体性を帯びていく。ある時は「文書の確認」、またある時は「連絡係」として市ヶ谷へ赴き、そして時には「誓いの場」へ立ち会わされた。
若い士官たちが拳を握りしめ、国を憂い、命を賭すと声高に叫ぶ場面を、彼は何度も目にした。だがそのたびに、彼の心の奥では、冷たい鉄球のような違和感がわずかに転がった。
ある夜、神楽坂の小料理屋での密談のあと、古賀が茶をすする手を止めて言った。
「君も、来るよな」
その声は、問いではなかった。
「……命令ならば」
啓一の声は静かだった。だがその語尾には、何か小さな棘があった。古賀はそれを感じたのか、ふっと目を細めた。
「いや、命令じゃない。これは”志”だ」
その言葉は、嘘ではなかった。だが、啓一にとって、それが何よりも恐ろしかった。
四月の末、夜はもう冷たさを失い始めていた。水交社の広間には、軍服を脱ぎ私服に身を包んだ青年士官たちが十数名集まっていた。若い顔が多かった。二十代前半、あるいはまだ学徒を抜けたばかりの者もいる。皆、眼差しだけは異様に鋭かった。何かを信じ、何かに飢えている目だった。
啓一はその中で、わずかに肩を引いたまま黙っていた。誰にも話しかけられなかった。誰にも話しかけなかった。ただ一人、古賀だけが啓一に向けて頷いた。まるで、役割が決まっているかのように。
やがて古賀が口を開いた。低く、静かな声だった。
「諸君。我々は選ばれた。時代の偽りを切り裂く刃となるために」
静まりかえった部屋に、その言葉は無音の刃のように落ちた。
「我々の祖国は、腐っている。政治家たちは私利私欲に溺れ、軍は内輪の序列に腐心し、国民はその日暮らしに慣れきっている。だが我々は、知っている。——真の秩序とは何かを」
誰かが、小さく拳を握る音がした。
「その日——我々は、歴史の軌道を修正する。眠れる帝国を、目覚めさせるのだ」
啓一はその言葉のリズムに、ある種の陶酔を感じながらも、自らの内に沈んだ重りのような疑念を消せなかった。信念か、それとも狂気か。その境界が、すでに彼には見えなくなっていた。
会が終わる頃、古賀が啓一を呼び止めた。
「少し、歩かないか」
二人は銀座の裏通りを歩いた。昼の華やぎとは違い、夜の銀座は仄暗く、街路灯の下にだけ人影が浮かぶ静かな街だった。遠くでジャズが鳴っていた。だがその旋律も、風の音にかき消されていた。
「君は、まだ迷っているな」
突然、古賀が言った。
「……何故そう思う」
「分かるさ。俺たちは、長く人を見てきた」
啓一は立ち止まり、わずかに肩を震わせた。
「私は……この国を守りたいと思っていた。ただ、命令に従い、祖国の盾となることがその道だと信じていた。それなのに、今……私は、誰を守ろうとしているのかさえ、分からなくなる」
古賀はしばらく黙っていた。やがて、ゆっくりと口を開いた。
「君は清廉だ。だから苦しむ。だがな、榊原……腐った根を残したまま木は育たない。時には、斧が必要なんだ」
「それは……『革命』という名の破壊か?」
「違う。これは『整骨』だ。歪んだ骨を、正しく戻す。痛みを伴っても、それがこの国に必要ならば、我々は痛みの役を買って出る」
古賀の声は、哀しげですらあった。
その夜、啓一の部屋には白布に包まれた包みが届いた。重さはなく、ただ紙のような感触があるだけだった。中を開けると、赤い日章が描かれた布が一枚。折りたたまれたまま、それは彼の膝の上に静かに置かれた。
“その夜”、それを腕に巻く者は、言葉なくして同志と識別される。その意味を、啓一はもう理解していた。部屋の明かりを消し、布団の中に潜り込むと、まぶたの裏に父の顔が浮かんだ。横須賀で別れたあの朝の背中、美代の書きかけの手紙、竹原少年兵の澄んだ目、そして草薙の言葉——「己が、何を選ぶか見極めろ」
誰も、命じてはいなかった。ただ、選択肢がすでに閉ざされたように思えた。そう錯覚するほど、啓一の足元にはもう退路がなかった。
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