第七章 風穴
軍の構内を吹き抜ける風が、冬の気配を孕みはじめた晩秋。空の色は青く澄んでいるのに、陽の光にはどこか力がない。冷気が地面を撫で、舞い上がる砂埃が靴先に絡みついてくる。午前の訓練が終わった広場は、まるで舞台の幕が下りたあとのように静かだった。
啓一はその隅に立ち尽くしていた。かつては銃声と号令が響き合い、統率の気配に満ちていたこの場所も、今ではただ、風が通り過ぎるだけだった。
あの日、引き金を引かなかった自分の手は、まだ感触を憶えている。冷たい金属の重みと、手首に伝わる微かな震え。狙いを定めながらも、ほんのわずかに横へ逸らしてしまった視線。その選択が正しかったのかどうか、いまだ答えは出ていない。
正式な叱責も処罰もなかった。ただ、配置が替えられ、啓一は今、倉庫裏の事務棟で庶務係として書類を扱っている。真新しい制服ではなく、少し擦れた詰襟に着替え、窓のない小さな部屋に通う日々。埃とインクの匂いが染みついた室内で、彼は誰とも言葉を交わさず、命令されることもない任務に就いていた。
午前の帳簿整理を終え、積まれた紙の山を無造作に掘り起こしていると、一枚の封筒の裏に、茶褐色に変色した紙片が貼り付いていた。丁寧に剥がすと、タイプライターで打たれた旧文体の文が、かすかに読めた。
「…状況証言に基づく報告に限界があることは否めず、関係者と思しき女性の所在は不明。記録上は昭和六年秋を最後に消息が途絶えている」
それは、彼がかつて知っていた誰かの影だった。紙面に写されたその文言の冷たさに、啓一は思わず指を止めた。自分が目にし、耳にし、感じ取ったはずの出来事が、たった数行の事務的な記述に還元されている。その事実に対する怒りも、悔しさも、不思議と湧いてこなかった。ただ、静かに諦念のようなものが広がっていった。
机の上に置かれた紙片をそっと元に戻すと、扉の外から誰かが名を呼ぶ声がした。
「榊原少尉、呼び出しです」
——草薙の執務室だった。
廊下の窓際に差し込む光は冷たく、まるで氷を溶かすことなく床を滑っていくようだった。ノックの後、啓一が入室すると、草薙は顔を上げず、書類に目を通していた。窓の外では、雲が裂けて、かすかな光が差し込んでいた。その光が、机の上の白い紙にわずかな陰影を落としていた。
「君を表の任務から外すことにした」
それだけを告げた草薙の声には、何の揺らぎもなかった。啓一は頷くだけで、何も言わなかった。何かを言えば、言葉が崩れる気がした。今は、ただ沈黙で答えることしかできなかった。
その夜、彼は人気のない訓練場の外れに一人腰を下ろしていた。夜風が砂利を舞い上げ、衣服の隙間を容赦なく吹き抜けていく。かつて歩いた道、駆けた場所、声を張り上げた空間が、まるで別人の記憶のように遠く感じられた。
「何もせずに生きるのは、死ぬよりも苦しいな」
そう呟いたとき、背後から足音が近づいてきた。ゆっくりと、ためらいがちに。しかし、止まることなく彼の背後に至る。
「榊原少尉ですか」
まだ声変わりの終わりきらない少年の声が、夜の空気を裂いた。啓一が振り向くと、一人の少年兵が直立していた。
「自分、竹原と申します。本日よりこちらに配属となりました」
その名を聞いたとき、啓一は何かが胸の奥で微かに動くのを感じた。入隊前、ふと目を留めた訓練場の隅にいた少年。あのときの真っ直ぐな目は、今も変わっていないように見えた。
「よろしくお願いします!」
啓一は立ち上がり、少年の顔を見つめた。答えの代わりに、長い間使っていなかった筋肉で微かに頷いた。まだ、終わってはいないのだと、自分に言い聞かせるように。
啓一は竹原の顔を見つめながら、返す言葉を慎重に探していた。真っ直ぐに伸びた背筋と、手に汗を握るように力の入った拳。それは、かつての自分自身を彷彿とさせるものだった。
「お前は、いくつだ」
「十五です。予科練は…昨年、繰り上げで入りました」
年齢を聞いたとき、啓一はわずかに目を細めた。十五。戦況の変化とともに、年若い少年たちが次々に志願し、軍の一部となっていく現実。自らの意志か、周囲の圧か、その両方か。理由を問うことすら今は意味をなさなかった。
「教練は済んでいるのか」
「はい。基本は、すべて」
竹原の瞳には、まだ曇りがなかった。曇りのないものが、もっとも壊れやすいということを、啓一は知っていた。
「……そうか」
それだけを言って啓一は視線を外し、夜空を仰いだ。星は一つも見えなかった。
薄雲がすべてを覆い、風はただ冷たく吹いていた。
「少尉…ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」と竹原が言った。
「何だ」
「自分も、いつか実戦に行くことになると思います。そのとき…人を撃つのが怖くなったら、どうすればいいでしょうか」
啓一は即答しなかった。地面に落ちた石を足先で軽く蹴りながら、風の音を聞いていた。
「それは…」
言葉が喉でせき止められた。誤魔化すことはできなかった。少年の目が、真っ直ぐに自分の答えを求めていた。
「撃てないと思ったら、撃たなくていい。だが、その理由を、自分で引き受けることだ」
竹原は、少しの間黙ってから、小さく頷いた。
「はい。分かりました」
その「分かりました」は、どこか不器用で、そして真剣だった。啓一はそれを、かつての自分の記憶に重ねた。自分が最初に「国のために」と信じた日のことを。 沈黙がしばらく続いた後、啓一が先にその場を離れようとしたとき、竹原の声が背を追った。
「少尉。自分、配属初日に、あの——風穴の空いた倉庫を掃除させられました」
啓一は立ち止まり、振り返った。
「何かあったか」
「いいえ。風の音が、ずっと鳴っていただけです。まるで、何かが残っているようで」
「……あそこは、そういう場所だ」
それだけ言って、啓一は夜の通路へと歩き出した。背中に残る竹原の視線が、消えゆく星のように遠くなっていく。だが、あの夜風の中にあって、啓一の胸には確かな灯が一つだけ灯っていた。
希望とは、時に最も無防備な存在の形をして現れる。自分が撃てなかったこと、流されなかったこと、すべてはまだ、誰かに引き継ぐことができるかもしれないという可能性のためにあったのだと。
そして、その夜が明けるとき、彼は新たな命令書を受け取ることになる。
それは、東京への一時帰還命令だった。
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