第六章 赤い影
第六章 赤い影
その夜、窓の外では雨が静かに降っていた。軒を打つ水音が絶え間なく、まるで遠くの鼓動のように続いていた。榊原啓一は、その音に耳を澄ませながら椅子に腰掛けていた。薄暗い部屋に灯るのは小さな卓上灯だけで、その光は机の上の報告書と、まだ封を切っていない命令書の封筒とを等しく照らしていた。
彼の手は膝の上で組まれていたが、指先には力が入っていた。押し殺した思いが、そこから洩れ出すように。
粛正対象は、軍内の一名。名は記されていなかった。だが、草薙の口ぶりから、政軍関係において微妙な均衡を乱すと見なされた人物であることは明らかだった。命令には、〈不測の事故として処理〉とある。それだけで、すべてを物語っていた。
「これはこの国のためなのか」——そう問いかけたのは、かつて草薙の執務室であった。
一度目は、たしなめるように諭された。
二度目は、「くどいな、君も」と半ば吐き捨てられた。
そして続いた言葉は、「そうであると、我々が信じることで成立するのだ」。
信じる——。
それは、命を奪うことを正当化するための唯一の盾なのだと、啓一は思った。だが、自分は本当にそれを信じているのか? その盾を手にする資格が、果たして自分にあるのか?
彼は、海軍兵学校に入隊したあの日を思い出した。薄曇りの空、刺すような海風、そして胸にしまった美代からの手紙。
「戦うことがすべてではないと、私は信じています。」
その言葉の静けさが、今なお胸の奥に残っていた。戦うこと、殺すこと、それが国を守るという言葉の下に置き換えられてゆく現実。だが——それは本当に「守る」ことなのか?
啓一は、ゆっくりと命令書の封を切った。中には詳細な指示と、対象の行動予定が記されていた。軍属ではない、元将校だった男。いまは市井にまぎれ、目立たぬ暮らしを送っている。
——なぜ、今になって殺す必要があるのか。なぜ、軍の手で。
沈黙は答えず、ただ命令だけがそこにあった。
部屋の中の空気が重くなった気がした。灯の周囲にできる影が深くなり、啓一の顔の半分を闇が覆っていた。
——これは、殺人ではないのか。
その思いが、一瞬のうちに心をよぎった。
国家のため。
命令だから。
信念を貫くため。
幾つもの言葉が頭の中を駆け巡ったが、それらは全て、誰かの命を奪うことを正当化するための鎧に過ぎなかった。啓一は、それが自分の信じてきた「守る」という行為とは、決して相容れないことを、本能的に理解していた。
「こんなことをするために、俺は海軍に入ったんじゃない」
声にはならなかったが、心の中でそう呟いた。
やがて彼は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。外の雨はまだ止まない。街の灯が濡れた舗道ににじみ、ぼんやりとした光の帯を作っていた。
啓一は、軍人である前に、一人の人間でありたかった。
だがそれは、この場所においては最も脆く、危うい願い——だった。
夜の闇は深く、空気は妙に乾いていた。薄曇りの空の下、啓一は一人、指定された小道に立っていた。標的は、この道を通る。何時もの習慣であれば、寄り道もせず、歩幅も変わらない。情報は正確だった。
啓一の手の中には、磨き上げられた拳銃があった。冷たさは感じなかった。感覚そのものが、どこか遠くにあるようだった。
やがて、足音が聞こえた。革靴の底が石畳を叩く、整った音。見慣れた影が、街灯の死角からゆっくりと現れた。
対象は、まだ若い男だった。髪にわずかな白いものが混じってはいたが、顔には疲労の色もない。手には書類鞄。肩を丸めず、胸を張り、まるで誰かに見られていることなど最初から知っていたような足取りで歩いてくる。
啓一は視線を合わせぬよう、影に身を潜めながら拳銃を構えた。狙うべき角度も弾道も、脳内で既に計算され尽くしている。ただ引き金に指をかけさえすれば、全ては終わる。
……だが。
彼は撃てなかった。
なぜか、対象の歩調に引き込まれるように、視線が彼の手元へ、顔へと向いていく。
(この人間も、国を思っているのではないか? あるいは、彼なりの信念があるのではないか?)
心のどこかが囁く。
(我々が「敵」と名指しする者たちの中に、本当に国を壊そうとしている者がいるのか?)
対象が啓一の横を通り過ぎる。その瞬間、啓一の脳裏に浮かんだのは、かつて兵学校の教練で聞いた言葉だった。
——「柱を保つには、時に斧が要る」
あれは、教官の口癖だった。だがその「斧」が、誰の手に握られ、誰の首を狙うのか。誰が正しく、誰が腐っていると裁くのか。いま目の前にいるこの男が腐っていると、誰が言えるのか。
啓一の手が、微かに震えた。引き金は、重かった。
(これは殺人だ。正義ではない。まして、国のためでもない)
呼吸が乱れ、心音が耳を打つ。対象は啓一の存在に気づかぬまま、夜の帳に消えていった。
……終わった。
いや、「終わらせることを選ばなかった」のだ。銃口を静かに下げ、彼は深く、長く、息を吐いた。無音の中で、命令と良心のあいだに取り残された兵士がひとり、闇の中に立ち尽くしていた。
帰隊の道は、奇妙なほど静かだった。雨が降るでもなく、風が吹くでもなく、ただ淡々と舗装路を歩いて戻るだけ。街の灯りはいつもと変わらず、無数の生活が、自分とは関係のない場所で営まれている。
報告書は白紙だった。啓一はそれを鞄にしまい、足取りを重く、草薙の執務室へと向かった。
部屋の扉をノックすると、即座に「入れ」という声が返ってきた。啓一が姿を見せると、草薙は書類に目を通したまま顔を上げなかった。机の上には、地図と日報、そして未開封の封筒が無造作に重なっていた。
「済んだか?」
草薙の問いは、問いではなかった。ただの確認。予定された通りに、予定されたことが行われたかどうか。
啓一は答えなかった。数秒の沈黙ののち、草薙がゆっくりと顔を上げた。目が合う。その視線は鋭くもなければ、怒りに満ちているわけでもなかった。むしろ淡々としていた。
「済んでいないな?」
啓一は黙って頷いた。そうすることが、せめてもの誠実さだと感じた。
「理由は?」
声の調子は変わらなかった。
「……私は、国を守るために海軍に入りました。だが……これは、ただの殺人です」
初めて、啓一が声を発した。言葉は震えていたが、確かな意志が宿っていた。
草薙はふっと鼻で笑った。
少し間を置き、手元のペンを置くと、今度はじっと啓一の目を見て言った。
「お前がそう言うなら、そうなんだろうな」
啓一は何も言わなかった。
「銃を撃たなかった。だが君は、現場に立った。それは“やらない”のではなく、“やれなかった”ということだ。そう記す」
草薙はそう言って、手元の記録用紙に一行、何かを書きつけた。啓一はそれが何であるかを見ようともしなかった。
「下がれ」
短い言葉の中に、情も怒りもなかった。ただ、命令があった。啓一は敬礼し、静かに部屋を後にした。
廊下に出た瞬間、息を吐いた。浅く、けれど確かに震えを孕んだ呼吸だった。
報告書は出されなかった。だが、啓一の沈黙は組織にとって十分すぎるほどの報せだった。
そしてそれ以上の“選択”が、彼の内側に、確かに刻まれていた。
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