第五章 命の値

 昭和七年晩春、潮の香が濃くなり、海辺の松の枝がゆるやかに揺れていた。午後の陽は傾きかけ、鎮守府の屋根の上に、長く影を落としていた。

 榊原啓一は、白壁の一室に静かに腰を下ろしていた。草薙中佐の執務室。ここでこれまで、いくつかの命令を受け、いくつかの報告を提出してきた。しかし今日、ここに座る彼の背筋には、これまでにない緊張が張り付いていた。

 机の上には、分厚い封筒がひとつ置かれていた。中には、ひとりの民間人の情報が収められていた。名前、年齢、職業、行動履歴。淡々とした記述の行間から滲むのは、“不忠”の疑い。命令は簡潔だった。「監視を継続し、必要あらば排除せよ」。理由は語られない。ただ、命じられたことを実行するだけ——それが、軍に属する者の役目であるはずだった。

 草薙の口調は変わらなかった。冷静で、感情を見せず、しかし一切の逃げ道を許さない。

「これまでにない類の任務だろう。だが、君にはできると判断している。報告は、来週火曜までに頼む」

 啓一は、草薙の言葉を遮るように口を開いた。

「……これは、軍の任務なのですか?」

 草薙は一瞬、目を細めた。だが答えは用意されていたかのように、即座に返ってくる。

 「軍の任務であるか否かは、時として形式の問題に過ぎん。国家の存立を守る——それが本質だ」

「……これは、この国のためになるのですか?」

 それは三度目だった。啓一が草薙に問いを発するのは。だが今回は、以前と違って、答えを欲したのではない。ただ、口を閉ざすことができなかった。

 草薙は手元の書類を閉じ、低く吐息をついた。

「これで何度目だ」

 一拍の沈黙のあと、彼は続けた。

「そうであると、我々が信じることで成立するのだ。信じることが、組織にとっての秩序であり、武装した国家の根幹だ」

 啓一はその言葉に、何の反論も返さなかった。ただ、胸の奥底で、自分自身に向けて問いかけていた。


(本当にそうだろうか?)


 この様なことをするために、彼は軍を志したのではなかった。国を守るとは、祖国の未来を守ることではなかったか。人を消すこと、命を道具とすることは、それと同義だと言えるのか——

 草薙が視線を上げた。返答を待っている。だが啓一は、即答できなかった。答えを出すには、あまりに自分が遠くまで来すぎたと感じていた。

 その夜、彼は宿舎の机に戻ると、分厚い封筒を机の端に置いたまま、窓辺に立ち尽くした。

「俺は……いったい、何をしているのか……」

 呟いた声は、室内の闇に沈み、誰にも届くことはなかった。外では、風が鳴っていた。梅雨が近い予感のする、湿った夜の風だった。

 


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