第四章 沈黙の頁

 午前の光が、旧市街の喧噪を鈍く照らしていた。石畳を走るタイヤの音、交差点で軋むブレーキ、どこかから流れる低いアナウンスの音が混ざり合い、騒がしくも焦点の定まらない音の層となって街を包んでいる。

 高田薫は、通り沿いのカフェの窓際で、ページをめくる手を一度止めた。そこまで読み進めた手記の内容が、脳裏に深く染み込んでいた。昭和六年、呉の海軍兵学校から始まった青年将校の足取り。訓練、沈黙、規律。時折挿まれる個人的な記述の合間に、わずかな躊躇いが滲んでいた。

 カップの中の珈琲は冷めていた。熱を失った液体に目を落とすと、自分がどれほど長く読み耽っていたかがわかる。

 ページの隅に、手書きの数字があった。何気ない章番号の横に、誰かの手で書き込まれた日付らしきものが鉛筆で添えられている。「昭和七年二月」と読めた。万年筆ではない。鉛筆——記録されることを恐れるように、痕跡を残すことを避けるような筆致だった。

 ふと背筋に寒気が走る。高田は椅子にもたれ、静かに天井を仰いだ。あの古書店で偶然手にした手記。その内容の真贋を疑う気持ちは、最初の数章で既に消えていた。


 ——これは、何かの意図で遺されたものだ。


 そう感じさせるだけの、重さと静けさがそこにあった。


 彼はふたたび冊子を手に取り、めくりかけたページを押さえた。手記はまだ続いていた。だが今、この記録の続きをただ読み進めるだけでよいのか、という戸惑いがあった。

 次に記されているのは、どうやら転属後の出来事のようだった。文体が少し変わり、行間が広く、言葉の選び方に苦心の跡が見える。

 高田は息を吸い、ページをそっとめくった。墨のように濃い沈黙が、頁の隙間から立ち上がるかのようだった。筆致は変わらず沈着で、どこまでも私情を避けた語りが続いていたが、それゆえに、言葉の背後に押し込められたものが濃く感じられた。

 書き手が「己を語る」ことよりも「何が起きたのか」を書き残そうとする姿勢。それは、証言というよりも、記録への執念に近かった。

 高田はふと、別のページの角に貼られた小さな紙片に気づいた。紙は黄ばみ、端がわずかに剥がれかけていた。そっと裏返すと、タイプライターで打たれた旧文体の文章がうっすらと浮かび上がった。


〈…状況証言に基づく報告に限界があることは否めず、関係者と思しき女性の所在は不明。記録上は昭和六年秋を最後に消息が途絶えている〉


 それはまるで、物語の脇に記された余白の注釈のようだった。文章の口調から、書き手は官庁の人間か、あるいは軍属の調査員か。何らかの「結果」を書き残す立場の者が、淡々と記していた。

 高田はしばしその紙片を見つめ、そして静かに頁の内側へと戻した。指先に、わずかな粘り気が残った。

 彼は再び手記へと視線を落とし、ページを繰り続けた。言葉は変わらず沈黙の重みに満ちていたが、その静けさの底から、ひとつの問いが立ち上がってくるのを、高田は感じ始めていた。手記の行間には、言葉にされぬ問いが潜んでいた。

 否、問いがなければ、この記録はそもそも残らなかったはずだと、高田は思った。

 語られることのない疑問。声に出すことさえ許されなかった一瞬のまなざし。

 そのすべてが、この文章の底に沈んでいる。

「我々は国家の柱である。柱が腐れば家は崩れる。柱を保つには、時に斧が要る」

 その一文に高田の指が止まった。教練で語られたというその言葉は、制度を守るための暴力を正当化する装置のように見えた。

 だが、書き手はそれを肯定したわけでも、否定したわけでもなかった。ただ、覚えていた。忘れずに書き残していた。

 つまりそれは、あの日、その場所で、何かが切り離されていった証だった。


 手記の文体は変わらず理性的だった。だが、ある一点から、文章が微かに揺らぎ始める。草薙という上官の名がたびたび登場する。

 彼の命令に服しながらも、次第にその判断に疑問を抱き始める。

 書き手が葛藤をあらわにしたのは、ごく僅かだ。

 たとえば、ひとつの場面で、こう記されていた。

〈それはこの国のためになるのか、と私は問うた。返ってきたのは、「くどいな、君も」という短い返答だった。そして、「そうであると我々が信じることで成立するのだ」と、淡々と続けられた。〉


 高田は目を細めた。

 これは、反論でもなければ、沈黙でもない。

 沈黙の圧力に抗うための、せめてもの「問い」だったのだ。声を上げる代わりに、書き記すことが精一杯だった、というその事実が、ここにある。


 その瞬間、手記をただの歴史的資料として読む感覚が崩れた。

 高田は思った——

 この記録は、過去を語っているのではない。

 この記録そのものが、沈黙に抗う行為そのものだったのだ、と。

 もう一度、紙面に視線を落とす。

 筆跡の先に、誰の名前も書かれていない箇所があった。

 だが、高田は知っていた。

 そこに触れてはいけないと、誰かがそう命じたのだ。

 だから、書かれなかった。だからこそ、残された。


 彼は手帳を閉じた。

 頁の重なりの奥に、言葉にされなかった名が、声が、記憶が、いまだ沈黙として眠っていた。

 外では雨が降り出していた。春先の雨——静かで、冷たく、しかし土の匂いを孕んでいた。

 高田は席を立ち、机の上の灯りを落とした。しばらくして、また頁を開く。そのとき、自分が何を読もうとしているのかを、彼は少しずつ、理解し始めていた。

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