第三章 沈黙する報告書

 春の終わり、雲が重く垂れ込める午後。風は止み、潮の匂いも薄れたその日の空気は、まるで音さえも封じるような鈍い沈黙を湛えていた。

 榊原啓一は、机に向かっていた。照明のスイッチは入れていない。曇天から差すわずかな自然光に頼り、彼は無言のまま、手元の報告書に視線を落としていた。

 それは、数日前に草薙から命じられた任務の記録だった。特定の人物に接触し、その思想傾向と行動を観察、報告するというもの。敵でもなければ、味方とも限らない。上層部の信任を失いかけているとされる、ある現役士官についての調査だった。啓一はその命令を受けたとき、顔色ひとつ変えなかったが、胸の奥に冷たいものが沈んでいた。

 報告書には、対象者の居住地、接触時の会話、立ち寄った書店や喫茶店、話題にした書籍や新聞の切り抜きまでが記されていた。淡々と、だが細密に。観察者の主観が滲まぬよう注意しながら、彼は情報を積み上げた。

 だが、手を止めたその瞬間、彼は書くことをやめた。紙の上に置かれたペンの先が震えていた。

「我々は国家の柱である。柱が腐れば、家は崩れる。柱を保つには、時に斧が要る」

 かつて、兵学校で教練教官が発した言葉が、唐突に脳裏によみがえった。その声は今、啓一の中で、斧を手にした己の影を指し示していた。

 報告書の紙面は、半ばで止まったまま、机の上にある。

 そんな時だった。彼の部屋の扉が小さくノックされた。振り返ると、伝令が一通の封筒を手にして立っていた。

「お届け物です。私信のようで」

 受け取ったその封筒には、見覚えのある筆跡があった。差出人は、美代だった。長く、慎重に書かれた宛名の文字に、彼はしばし目を留めた。封を切ることすら、ためらわれた。

 やがて、静かに中身を取り出すと、彼は手紙の文面に目を走らせた。

「啓一さん。春がゆっくりと過ぎてゆきます。あなたの選ぶ道が、どうか心を曇らせるものでありませんように。戦うことがすべてではないと、私は信じています。」

 文字は細く、震えるように丁寧で、ひとつひとつの言葉が、重さを持って啓一に届いた。彼は手紙を机の上にそっと置いた。その隣には、まだ完成していない報告書。そして、机の奥には、草薙から手渡された指示書がある。

 ふたつの紙の間に、彼はただ座っていた。選ぶべきものは、もう目の前にあった。それでも彼はまだ、どちらにも手を伸ばせずにいた。窓の外では、雲が裂けて、かすかな光が差し込んでいた。その光が、机の上の白い紙にわずかな陰影を落としていた。沈黙の中に、時計の針の音だけが淡々と響いている。


 

 その翌日、啓一は草薙の元に呼び出された。室内は薄暗く、窓には重たいカーテンが下ろされ、机の上には地図と報告書が無造作に広がっていた。草薙は椅子にもたれかかりながら、ちらと視線を上げると、短く口を開いた。

 「…例の件、まとめたか」

 啓一は、黙って報告書を差し出した。草薙はそれを受け取り、素早く目を通しながら呟いた。

「…ご苦労だった」

 しばらくの沈黙が室内を包む。啓一は、まるで無意識に口を開いた。けれどそれは、心の底でどうしても押し留められなかったものだった。

「これは……この国のためになるのでしょうか」

 低い声だった。だが、草薙は手を止めて顔を上げた。その目には、静かな水面のような光が宿っていた。

「その問いは、慎重に扱うべきだ」

 草薙の声は、淡々としていた。叱責でも、怒りでもなかった。ただ、たしなめるような口調だった。


「我々は理想を描く者ではない。現実を支える者だ。理想を求めて揺らぐことは、基礎を崩すに等しい」

 啓一はそれ以上言えず、唇を噛んで黙った。だが心の奥では、何かがじくじくと疼いていた。


 その夜、彼は宿舎の自室で書きかけの報告書の脇に、美代からの手紙を取り出した。数日前に届いた封筒を、まだ開くことができていなかった。

 彼女の筆跡は、以前にも増して細く、慎重だった。

「啓一さん。春がゆっくりと過ぎてゆきます。

 あなたの選ぶ道が、どうか心を曇らせるものでありませんように。

 戦うことがすべてではないと、私は信じています」

 言葉を読み終えた時、胸の内に静かな重みが落ちた。彼はそっとそれを机の引き出しにしまい、深く息をついた。草薙の封筒はまだ、手をつけていなかった。


 そして翌朝、再び草薙の部屋に呼び出される。

 新たな任務の詳細を伝えられる最中、啓一は、抑えていた問いをもう一度口にした。

「……これは、本当にこの国のためになるのですか?」

 今度の声には、隠しきれぬ焦りと迷いが滲んでいた。

 草薙は書類から目を上げ、しばし沈黙したのち、短く言った。

「くどいな、君も」

 言葉に棘はなかったが、断絶の気配をはらんでいた。

「だが——そうであると、我々が信じることでしか、この国の柱は成立しないのだ。信じることを手放せば、崩れるのは一瞬だ」

 啓一は何も返せなかった。信じるとは何か、それが誰のためのものか、その重さに言葉が潰された。草薙はひとつの封筒を机の上に置いた。

「次の任務だ。前線の分遣隊へ赴いてもらう。状況を見極め、必要に応じて報告せよ」


 啓一は封筒を手に取った。中身を見ることなく、姿勢を正した。退室の直前、背後から草薙の声が再び響いた。

「榊原。己が何を選ぶか——それを見極める目だけは曇らせるな」

 啓一は背を向けたまま、小さく答えた。

「はい……心得ております」

 扉を閉めた後の廊下は静かで、やけに長く感じられた。それでも彼は歩いた。問いを持ち、なお進まねばならぬ者として。


 ——この歩みの先で、彼は竹原という少年と出会うことになる。

 過去と未来が交差する予感の中で。

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