第二章 配属
昭和七年四月、榊原啓一は広島湾を臨む海軍呉鎮守府に正式に配属された。制服にはまだ新しい布の匂いが残っており、帽章の金属は春の光を鋭く弾いていた。士官候補生としての立場であったが、すでに「海軍の一員」として数えられるのだという重圧が、言葉にならぬかたちで啓一の肩にのしかかっていた。
配属初日。午前の訓示を終えると、彼は先任士官の案内で兵舎の一角に設けられた部屋へと通された。壁にかかった軍用地図、整然と並ぶ資料棚、そしてその中央に、低く威圧的な声を持つ男が座していた。
「君が榊原候補生か」
その男、北村中尉は、眼光鋭く、軍律を超えて軍そのものを体現しているような存在だった。啓一が姿勢を正し、名乗ると、北村は一冊の分厚い書類を彼の前に置いた。
「これは、君がこれから関わる任務だ。訓練ではなく、実務に入る。書かれていることを頭に叩き込め」
啓一は、無言でそれを受け取った。表紙には「第十一特別調査班資料」とだけ記されていた。ページを捲るごとに、国内の政治状況、陸軍との緊張、政府上層部の動向、さらには海軍内部における思想の対立までが網羅されていた。軍人としては本来、知る必要のない類の情報。だがそれを、彼は与えられた。
数日後、調査班の集会があった。薄暗い部屋の中、十数名の士官と下士官が顔を伏せて座り、その中央で北村が一言だけ告げた。
「この国は変わらねばならん。だが、変わらぬためには一度、壊すしかないのだ」
啓一の胸に、冷たいものが流れた。
それからの日々は、記録にも残らぬ任務の連続だった。地方の軍需工場を視察するふりをして、思想調査にあたる。新聞記者の動向を探り、上層部の発言を逐一報告する。直接的な行動は命じられていなかったが、彼の目の前で何かが進行していることは確かだった。
ある夜、同じ調査班の青年、東山が静かに口を開いた。
「おまえ、気づいているだろう。俺たちは、ただの調査員なんかじゃない。これは、体制の綻びを監視してるんだ」
「……」
「そのうち、命令が下る。俺たちがどう動くか、誰が黙って従うか、それをあの人たちは見てるんだ」
啓一は、何も答えなかった。沈黙の中で、自分の呼吸だけが遠く響いていた。
夜になると、啓一は兵舎の片隅で密かに美代からの手紙を読み返した。彼女の字の柔らかさが、日に日に遠く感じられていくのが、ひどく痛かった。
「体を大切に」
たったそれだけの言葉の背後にある、まだ見ぬ未来が、今の彼には手の届かない世界のようだった。
ある朝、北村に呼び出された啓一は、ついにこう告げられた。
「君には、ひとつ大事な任務を任せる。失敗すれば、我々の構想は潰える。だが、成功すれば……この国を正す力になる」
啓一は、凍ったように立ち尽くした。
目の前にある任務。それは、武器を使わぬ報告でも、偵察でもなかった。人の命に関わる「行動」だった。
そして彼の中で、何かが静かに、確かに音を立てて崩れはじめていた。
日々は無機質に過ぎていった。朝は点呼と敬礼、日中は調査名目の外出、夜には簡素な報告書の作成。書類の山の中で、啓一はあくまで「記録する者」に徹していた。何が正しく、何が間違っているかを判断することを、自らに禁じていた。
任務の内容は徐々に、単なる視察や記録から逸脱し始めていた。とある日、上層部から「特定の思想を持つ人物の動向を報告せよ」という通達が下った。名指しされたのは、広島市内の若い教師であり、数年前まで士官学校で倫理学を教えていた人物だった。
その教師は「国は人を生かすためにある」と繰り返し講義していたという。軍の中では「脆弱な理想論者」とされていたが、今はそれすら危険視される時代だった。
啓一は指示どおり、教師の自宅の外に立ち、彼の出入りや訪問者を記録した。特に話しかけることもなく、ただ、命令に従った。その行為の中に自らの意志を混ぜ込まぬよう、努めて「無色」であり続けた。
だがある晩、報告を提出した直後、北村中尉の口から、思いもよらぬ一言がこぼれた。
「明日、あの教師は連行される。君の報告は的確だったよ」
啓一の脳裏に、教師が静かに戸を開け、幼い娘を抱いていた姿が浮かんだ。何も悪びれたところのない、ただの家族だった。だが、報告書には「複数の知識人との接触あり」「旧体制批判の傾向」と、あくまで事実のみが書き記されていた。それが命を左右するとは、その時になっても、どこか実感がなかった。
その夜、啓一は一人、兵舎裏の芝生に座った。頭上には曇った空と、煙のような月。風が冷たく、軍靴の中の足が痺れていく。
彼はふと、兵学校の教練で耳にした言葉を思い出した。
「我々は国家の柱である。柱が腐れば、家は崩れる。柱を保つには、時に斧が要る」
当時はその意味を理解していなかった。ただ、誇らしげに語られるそれを疑おうとは思わなかった。だが今、その「斧」がどこに振り下ろされるかを、自分が知っている。その斧を、誰が持つかも知っている。
それが正義かどうかを、啓一はもう問うことができなかった。問うこと自体が、すでに口にしてはならぬ禁忌であるかのような、息苦しい沈黙が軍内に満ちていた。自らもその沈黙の一部に溶け込むことで、かろうじて立っていられた。
ある日、同じ調査班の東山が、啓一に紙片を差し出した。そこには、ある政治家の講演の記録と、その「監視対象」としての指定番号が記されていた。
「どう思う?」と、東山が尋ねた。
啓一は答えなかった。答えないことが、彼にとっての選択だった。
彼は賛成もしなかったし、否定もしなかった。何かに巻き込まれることも、巻き込まれまいと抗うこともせず、ただ、そこに「いる」ことだけに徹しようとした。だが、それすらもひとつの意思表示であることに、彼はまだ気づいていなかった。
朝の点呼を終えると、啓一は割り当てられた調査報告のため、郊外に出ることになった。鉄道の車窓から流れる田畑の風景は、どこか遠いもののように感じられた。畑には人の姿が見えたが、彼らがどう生き、何を考えているのか、自分にはもう知る術がないように思えた。
列車がトンネルに入ると、ガラスに映る己の顔が、ぼんやりと浮かび上がった。青年の面影を宿しながら、どこか、輪郭の曖昧な表情だった。
「自分は、今、何をしているんだろう?」
その問いは、最近になって日増しに重く胸に沈むようになった。任務を遂行しているだけのはずだった。命令に従い、与えられた報告を上げているだけ。だが、その「だけ」が、果たしてどれほどの意味を孕んでいるのか、分からなくなっていた。
調査対象となったのは、小さな町の新聞記者だった。報道の自由という言葉は、もはや口にされることもなくなっていたが、その男はごく稀に、記事の末尾に風刺めいた一節を添えていた。啓一は彼の話を聞くこともなく、ただ行動記録を手帳に記していった。
「記録係に過ぎぬ」と、自らに言い聞かせていた。
だが、任務から戻る夜の道すがら、ふと脇道で見かけた老女の姿に足が止まった。崩れかけた長屋の前で、彼女は小さな灯をともし、湯を沸かしていた。しわだらけの指先が、炭火を扱いながら震えていた。
啓一は声をかけなかった。ただ、その場に立ちすくんだ。軍靴が、土の上で不自然な存在に思えた。
「自分は、何を守っているのだろう?」
誰も教えてはくれない問いの答えを、啓一はただ胸の奥にしまい込むしかなかった。兵学校では、国家とは何かを学んだ。だが、そこに「誰を、どんなふうに守るか」という具体は含まれていなかった。
翌日、報告書を提出した後、北村中尉が一枚の指示書を啓一に手渡した。そこには、新たな調査対象の名と、近日中の「処理予定」が記されていた。
「お前の報告は正確だ。あとは、上が判断する」
そう言って、北村は一切の感情を排していた。
啓一はその紙を見つめながら、かすかに眉をひそめた。だが、何も言えなかった。
「――正確に、記録している」
それだけが、自らに残された最後の線のように思えた。だが本当は、その線の向こうで、自分自身が何を失っていっているのか、分かっていた。
啓一はその夜、手帳を机に置いたまま、眠れぬ時間を過ごした。月の光が床に落ちていた。蝋のような静寂のなかで、彼は再び、自問を繰り返していた。
「自分は……自分自身を裏切っていないか?」
何も変わらぬ兵舎の夜。だがその問いだけが、ひどく異質に、彼の内側をざわつかせていた。
(続く)
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