第一章 入隊の日

 昭和七年三月末、空は薄曇りで、呉の港には冷たい潮の気配が漂っていた。春の足音はまだ遠く、海風は頬を刺すような鋭さを残していた。その朝、榊原啓一は海軍兵学校の門前に立ち、黙然と風を受けていた。制服の襟元をただし、背を伸ばした姿には、一抹の硬さと、抗えぬ緊張が宿っていた。

 彼の鞄には、新調された軍靴とわずかな私物、そして一通の手紙が納められていた。手紙の差出人は美代。幼なじみであり、今となっては互いに意識するようになった存在でもあった。彼女の字は小さく、端整で、過剰な感情を含まず、ただ「体を大切に」とだけ記していた。言葉の少なさが、啓一にはかえって胸に残った。

 

 その日、海軍兵学校には多くの若者が集まっていた。皆が均一な表情をしているようで、実際にはそれぞれが異なる覚悟と不安を抱えていた。啓一もその一人だった。父は陸軍の退役軍人だったが、彼の進路に干渉することはなかった。ただ、入営が決まったとき、短く頷き、背を向けた。それだけだった。


 兵学校での最初の数日は、名を名乗ることすら許されず、番号で呼ばれる生活が始まった。名を奪われるということが、どれほど強く人間の輪郭を削ぐのか、啓一は初めて知った。指導教官の声は常に怒号に近く、顔色を窺う暇もなければ、言葉の意味を咀嚼する時間も与えられなかった。


 起床はまだ空が白む前。喇叭の音と共に叩き起こされ、数分のうちに整列、点呼、そして訓練。号令、整列、敬礼、行進。すべてが軍の規律のもとに矯正され、身体を使って無駄を削ぎ落とされていく。啓一は黙って従い、与えられた動きを機械のようにこなした。その姿勢が、叱責を逃れるためであったのか、それとも何かを受け容れようとしていたのか、自分でも分からなかった。


 訓練中、隣の列の者が転倒し、手を差し出そうとした啓一の腕が、教官の怒声によって空中で止まったことがあった。利他的な行動すら、ここでは規律に背くものとして裁かれる。軍隊とはそういう場所なのだと、啓一は理解した。


 夜になると、兵舎の片隅で簡素な夕食が配られた。木の椀に注がれた味噌汁と、粗い麦飯。誰もが無言のままそれを口に運び、互いの顔を見合うこともなく、時間は淡々と流れていった。啓一もまた、箸を動かす手に集中し、思考を交えぬよう努めた。ただ、箸の持ち方に慣れぬ新兵が叱責を受ける声が時折響き、そのたびに場の空気が一層張り詰めた。


 夜半、点呼と共に明かりが落とされると、兵舎は途端に冷たさを取り戻した。毛布は薄く、床板から伝わる冷気が背筋を這い上がる。天井を見つめたまま、啓一は眠れぬ夜を迎えた。耳を澄ませば、微かな寝息や寝返りの音の奥に、どこか遠い場所で風が軋むような音があった。


 こうした日々が幾度か繰り返された後、彼のもとに初めての通知が届いた。所属先が決まったのだ。


 彼は、特別警備任務の補助的な役割を担う若手将校として、江田島の一角にある情報部門付の教練部隊に配属されることとなった。実戦経験を持つ幹部候補生とは違い、彼らの任務は表に出ることの少ない、文書管理、伝令、あるいは一部の監視任務を含む非公開の作業が中心となるとされた。


 啓一は命じられるまま、配属先へ向かった。道中、港を離れる船の汽笛が微かに響いた。春の兆しは依然として感じられず、空は重い鉛色に閉ざされていた。沈黙を守る者の背中に、何の言葉も届くことはない。その沈黙の中で、啓一はただ己の影と並んで歩いた。


  

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