✦✦Episode.6 指先を握りしめ✦✦
✦ ✦ ✦Episode.6 指先を握りしめ
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ノアは、午前中から目まぐるしく病人の世話をしながら、やっとのことで、一息つける時間となった。 一日はあっという間に過ぎ、この時すでに昼過ぎになっていた。 もうすぐにでも、夕食の準備を始めなければ、今夜は夜遅くに眠ることになる。 彼女の一日は、まだまだ終わらなかった。
(あと数時間もすれば、日が暮れる。 この子は今夜、ここに泊まらせるべきだろうな)
ノアは素早くお茶を飲み終えて、再び台所へ戻っていった。
新しく湯を沸かすため、残ったお湯の上に水を注ぎながら、チラリと横目でシエルを覗き込んだ。 彼女は、花瓶に入れた、たんぽぽの花を、ぼんやりとしながら眺めていた。
「それで、シエルと言ったか? お前さん…この村に何の用だい?」
彼女は、悪者ではないと分かったものの、ここへ来た経緯や、その思惑は分からない。 ましてや、自分を訪ねて来たというわけだ。 それなのに、いまだにその内容を切り出さないことを、ノアは少し疑問に思っていた。
(身内がご病気なのか、それとも、何か他の用事があるのか…? なぜその理由を話さない…?)
「その…。 それについて、私も少し不思議に思っているんです。 どうしてか、ここに来た理由が、わからないんです」
「わからない…? それは一体、どういうことなんだい?」
ノアが驚いて、シエルの方へ顔を向ける。 シエルは、こめかみのあたりに手を添えて、困った表情をしながら、ノアの方へ視線を動かすと、手を下ろして、左右の親指を擦り合わせながら、静かに俯いた。
「ノアさんを訪ねなければならないと、頭の中で誰かが言うんです」
「でも…それがなぜか、思い出せなくて…」
窯の中から、パチパチとした音がゆっくりと消えて行くと、燻ぶった煙が部屋の中に漂い始め、ノアは、傍に立てかけてあった竹筒を取り出した。
再び窯の方へ振り向くと、火に向かってフーフーと息を吹きかけていた。 ボォッと窯の中に再び火が上がると、元あった場所へ竹筒を置きなおし、再びシエルの顔を見据えた。
「なんだって…?」
「目が覚めたら、森の中にいました。 私、
「ふむ…たった一人で、森の中をさ迷って、挙げ句の果てに記憶喪失かい!? おかしな事も、あるもんだねぇ……。」
「えぇ。 それに、道の途中で、荷物も地図も、何もかも無くしてしまって…」
シエルはきゅっと指先を握りしめた。 深い森の中で目を覚ました時。 薄暗くてなんとも気味の悪いものだった。 生い茂った木々が行く手を阻み、風がザワザワと揺れていた。 得体の知れない何かが、自分の事を
道中、生き物たちがガサガサと茂みの中から音を立て、まるで迷宮にでも迷い込んだかのように、行くべき道が分からなくなっていた。
それでもなお、頭の中で「ノアという人物を訪ねろ。」という言葉が、永遠と流れていたのだった。
「物陰から何か、得体の知れない物が出てくる気がして、一人ぼっちで、私、怖くて。 不安で仕方なかったんです…。」
忘れていた恐怖心を思い出して、シエルの手は震え始めた。 彼女の額には冷や汗が滲み、眉をひそめ、なんとか震える手を止めようと、ぎゅっと強く握りしめた。
「迷子になっていると、どこからか、水の音が聞こえてきました。 それを辿って、歩いて行ったんです。 そしたら大きな滝が、目の前に現れて……そこに彼がいたんです」
「なるどねそこで、クロトと出会ったんだね?」
「はい。 私……彼の姿を見て、とても安心しました」
嘘をついているかどうかは、目を見ればわかる。 シエルの瞳は真っ直ぐで、曇り一つない。 ノアは、そっと袖の中から、青年から貰った布を取り出して、静かにそれを開いた。
(嘘を言っているようには見えないな。 ならば、あの“黒い羽”について、何か知っているだろうか?)
「お前さん、これが何かわかるか?」
「はい。 彼の黒い羽…。 私、思わず拾って大切に持っていました。 でも…風に飛ばされて行ってしまったんです」
「そうか…」
シエルは、目を瞑ると、木々の間から見えた、彼の後ろ姿を思い出していた。 指先まで広がっていた、あの大きな漆黒の翼…。 まるで水に愛されて、溶け合っていたかのような…あの美しい光景——
シエルはクロトの後姿を、何度も記憶の中から手繰り寄せた。
(この娘が言っている黒い羽というのは、これで間違いなさそうだな。)
「私、彼の背中を見て…。 ここに誰かがいるって…とても安心しました…」
「ふむ…」
(もし、この娘があの場で、黒い羽がクロトの物だと口にしていたら…。 間違いなく、大変なことになっていただろう。)
彼女が、あの少年の秘密を知っていたとは、思いもよらず。 ノアは眉を潜め、すっと目を細めた。 そして、振り返ると、心の内を悟られぬよう鍋に調味料を入れ、程よくかき混ぜていく。 ノアはあえて細かいことは聞かずに「そうかい」と呟いた。
(この娘。 あの子の背中を見ただと? もしあの“
「他に何か、変わったことはあったかい?」
「はい…彼の、背中には、燃え上がるような赤い紋章がありました。 それを見て、私…」
ノアが感じた通り、彼女は既に、彼の
「お前、それを見てなにか思わなかったのかい?」
「はいっ…! あの時の彼は、すごく美しくて…。 かっこよくて、素敵だなって、思いました」
クロトへの恋心が、彼女の瞳の奥底に揺らめいて、ノアは胸を打たれ拳を握りしめ「オホン」と咳払いをすると、「ふぅ」とため息をついて、再びシエルに顔を向けた。
(まさか、これほどまでに彼を思っていたとは…。 いい子に出会ったもんだ)
「あんた……クロトに恋してるんだね…?」
「ひぇっ…! わゎ、私ったら、恋だなんてそんな…! そんなことありません…っ!」
ノアの一言にシエルはとどめを刺され、心臓の鼓動がより大きく感じていき――赤く染まった顔は更に熱を増して、とうとう噴火する勢いでシエルは身をよじって悶えていた。
シエルのクロトへの恋心は、この時、確信に変わってしまった。 両手で顔を覆って、言葉にならない声を発している。
「んもぉ、ノアさんったらぁ、ひゃぁ。 どうしたらいいの私…っ」
「あらまぁ…。 そんなに好きなのかい…?」
「す…好きだなんて。」
「あーあー、こっちまで恥ずかしくなるよ!(まったく、若者のペースに巻き込まれたら、わたしゃ婆さん失格じゃなぁ。)」
しっし、とノアは手を縦に振ると、まるで興味が無くなった様なふりをして、鍋の方へ顔を向ける。 鍋の中には、刻みいれた食材がホクホクとして食べごろになっていた。
「ほらほら、スープが出来上がったから、クロトを呼んできておくれな!」
ノアは火を止めて、スープの味を確かめようと器に注いだ。 一口味見をすると思いの外熱かったようで「あちっ。」と声を漏らした。
シエルは静かに立ち上がると、彼が入っていった部屋へゆっくりと進んでいく。 彼の部屋へ向かうシエルを背中で感じ「とうとう、春の訪れか…。」と心の中でしんみりとつぶやいた。
✦ ✦ ✦
コン、コンと扉を叩く音が響いた。 中から返事が返ってくることはなく、彼女はそっとドアに手を触れた。 木製のドアは、ひんやりとしていて、まるで「この先には誰も居ない」と言っているみたいだった。
「クロト…?」
彼が中にいることを確認するように、シエルは呟いた。 相変わらず返答はなく、彼女はそっとドアノブに手を掛けた。
「クロト、入るね…?」
カチャリと、ドアを押すと、きしんだ音がキィっと聞こえ、中から優しい木の香りが漂ってきた。
部屋の中には、ベッドとサイドテーブル。 そして小さな椅子が置かれている。
(花の香り……?)
窓辺に置かれた花瓶の中に、ライラックの花が差し込まれ、ふわりとそこから香りが漂って居る。
その花瓶以外に、小物は何一つ置かれていない部屋。 寝泊まりをするためだけの、質素な見た目だった。
クロトは、ベッドの上に座り、頭を地面に向けてうなだれている。 彼は座りながら指を組み、微かに肩を震わせていた。
(泣いてる……?)
「クロト…?ねぇ、大丈夫? 元気出して…?」
「…………。」
シエルは彼の前に立つと、しゃがみ込み、見上げるようにしてクロトの顔を覗き込んだ。
(あれ……? 青い……瞳……?)
彼の瞳は、悲しみの青を宿していた。 優しく頬に触れると、ぽろり、ぽろりと我慢できずにクロトの目から涙が溢れ出した。 零れた涙は、彼の頬と、添えられた指の間を伝って、静かに下へ向かって流れていく。
「……っ。」
(この人は、自分の事を隠して、その苦しみをどれほどの時間耐えてきたのだろう。)
「これで、わかった……だろ……」
目の前に現れた、まばゆい光を纏った彼女を見ることができず、クロトは涙で霞んだ視界の中、シエルの手を掴むと、そっと引き離し、そのまま顔を背けた。
彼の顔は、くしゃくしゃと苦しみに歪んだ顔をして、絞り上げた声で嗚咽するように泣きはじめた。
「つ…うっ…俺は…。」
「クロト……泣かないで。 大丈夫だから……」
「そんなの……。分かるわけ……ない」
シエルはそっと手を膝の上に置いて、そのまま彼を見上げていた。 彼が苦しんでいると言うのに、離れた手は、その温もりを求めるかのように、そっと彼の手を握った。
「どうせお前も、俺の前からいつか消えていなくなるんだろ……」
彼の悲しみの言葉は、静かに虚空に溶けていく。
「産まれた頃から、父さんも、母さんも居なくて……」
「顔を見たことも、声を聞いたこともないんだ。 こんな翼で産まれて来て、俺は……っ!」
大人になりきれず、子供のまま成長してきた18歳の少年の心は、今よりも深く一人になっていく恐怖と孤独を感じていく。
(俺は、何故黒い翼を持って産まれたのか? ――何故、この翼は災いと言われているのか?)
「この翼が見つかったら……俺は、もうここには居られないんだ…」
「そんなの、おかしいよ……。」
(この先訪れる、今以上の孤独に…俺は一人で耐えていけるのだろうか…?)
――孤独な少年の心は、ただその場で足をすくませて、うずくまっている事しかできなかった。
「心配しないで。 私が、あなたの傍にいるから…」
シエルはそっとベットに腰かけるとその隣で、むせび泣く彼の肩を優しく抱き止めた。
花瓶の中に入れられたライラックの花は、カーテンの隙間から、優しい香りを放ちながら、二人を静かに見下ろしていた。
「うっ……うっ……!」
「大丈夫。 もう泣き止んでいいんだよ」
シエルはそっと背中をさすると、彼の衣服の隙間から、“赤い紋章”がちらりと、その顔をのぞかせた。
「あなたの、背中のこれも……素敵だと思うよ?」
シエルがそっと背中に手を当てると、彼は驚いて身体をビクつかせた。 まさか、この背中にあるものすら知られているとは、思いもよらなかった。
「……!! おまえ、知ってたのか……?」
「うん。 初めて会った時から、知ってるよ」
「そんな……」
(まさか、これまで知られていたなんて……!)
クロトはそっと、自分の肩に手を乗せた。 産まれた時から感じていた。
何かが、この背中に刻まれている…不思議な感覚…この紋章は、黒い翼を隠すのと同じように、必然的に隠さなければいけないと、そう思っていた。
「クロトは、クロトだから……私は今のあなたが、一番いいと思うよ?」
「……俺はっ…ここに居てもいいと、そう思うか…?」
「もちろん。 私は今のあなたが一番好きだよ!」
「…っ!」
――思いもよらなかった言葉。
何気なく放った彼女の言葉に、心の中の霧が一気に晴れて行き、闇が光の中へ溶かされていくような温かさを感じた。
“好き”と言われて、心がときめいて‥‥彼はほんの少しだけ照れていた。
(でも、勘違いしたらだめだ。 きっと、俺を慰めるために、
彼はようやく気を取り直すと、スッと顔を上げ、最後の涙の雫が、彼の瞳からポロリと零れ落ち、にこりと笑ってシエルに顔を向けた。
「ありがとう…」
「あ、やっと笑ってくれたね!」
「へへ……。 それにしても、俺の秘密を全部知られてたとは、思わなかったよ!」
「えへへ、ごめんね……?」
自分の秘密を、全て知られたとしても、思いのほか不快な感じはしなかった。 いつのまにか温かい気持ちは全身を包み込んでいた。
「いや……でも、なんか……嬉しい。 ありがとう」
「うん、よかった! えへへ、どういたしまして」
彼の瞳は、すっかり元の色に戻っていた。 シエルはにっこりと笑うと、そっとクロトの手を握りしめ、その場でゆっくり立ち上がらせた。
「さぁ、そろそろ行こう?」
「あぁ…」
クロトは、ふと、窓辺から外を眺める…と、すでに外では日が落ちかけ、夕焼けの光が村の中を照らしていた――
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