✦✦Episode.2 改めまして✦✦
✦ ✦ ✦Episode.2 改めまして
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シエルの目の前にひらひらと、一枚の黒い羽が舞い降りてきた。 彼の翼から抜け落ちて来た、その漆黒の色をした美しさに、彼女は思わず手を伸ばして拾いあげた。
静かに、その羽に、目を落とそうとしたその時。
声変わりはとっくに終わり、低くなった男子の声が、耳に届いた。
「――もう顔をあげて大丈夫だぞ」
彼女は静かに立ち上がると、ゆっくりと…後ろを向き、振り返る。
太陽の輝きに照らされ、舞い降りてきた彼は…ちょうど、すぐ
彼の衣服は、自然の暮らしに対応した軽い装いで、しっかりとした生地で作られ、その肌を優しく包み込んでいる。
羽織った上着は、羽を広げた時に、しっかりと翼が出るような構造になっている。 肩には四角い穴があけられて、特徴的な衣装を身に纏っていた。
(黒い翼…本当にきれい…)
彼女は心の中で呟きながら、静かに目を伏せた。 自身が着ている白いワンピースの裾をそっと伸ばすと目線を下げたまま。 先程とはまた違った、美しい声色に変えて…。
「改めましてシエル・ルシルフィアと申します。 シエルとお呼び下さい」
ワンピースのスカートの裾を、指先で丁寧につまみ上げ、片足を後ろに引きながら――
ゆっくりと、腰を落として、深々と頭を下げた。
(…丁寧な挨拶…。 どこかのお姫様みたいだ。 一体、どこの貴族の生まれだ…?)
気品に溢れた面持ちで、礼儀正しく挨拶をされたクロトは、驚きの表情を浮かべながら、つられるようにして、頭を下げた。
彼は、ゆっくりと、目線をあげると、少女が手に持っていた物が、ハッキリと彼の目に飛び込んできた。
(――なんで、俺の羽を握ってるんだ!?)
黒い羽、それを握りしめていた彼女を見た途端…。 心の中に、じわじわと悔しさが込み上げ、不快感をあらわにして眉を潜めた。
あどけない少女の光は、眩しい太陽のように、純白の輝きを放っていて、髪の毛から指の先まで真っ白で――繊細な少女の、その中に。
たったひとつ忌々しい黒点を残して――
まるで、じわりと、その輝きを侵略し、奪っていくような禍々しさを放つ
その色を目にして、自らの翼をすべてむしり取ってしまいたくなるほど…。
辛い気持ちが胸に押し寄せた。
グッと歯を食いしばり、拳に爪が食い込むほど力を入れて握りしめる。
(あら…? ご挨拶の仕方…間違えたかしら?)
シエルは静かに顔をあげ、彼の顔を見据えると、彼の冷ややかな視線にハッとして、不安になってしまい、しょんぼり
きゅっと両手を握りしめ、胸にそっと手を当てた。 すると、胸元に置いた自分の手に、黒い羽が握りしめられているのが視界に入った。
(まぁ、もしかして…これのこと?)
シエルは、悟ったように顔を上げ、柔らかい笑みを浮かべて、目の前にいるクロトの不安を拭うように、静かな声でそっと語り掛けた。
「あなたの翼ってとても暗いのね…まるで夜空みたい」
静かに目を伏せ、黒い羽に視線を落とす。 手元の羽にそっと親指を添えると…漆黒の羽は、繊細な輝きを放っている。
シエルは、まるで、大切な宝物でも見つけたかのように、ゆっくりとその羽を指先でなぞっていく。
一通り、柔らかな質感を楽しむと、今度は手首を動かして、太陽の下で透かすようにくるくると角度を変え、わずかに変わっていく色彩を、優しい眼差しを向けながら眺めていた。
ふと、シエルは彼の表情を伺うと、滑らかな羽の光沢に再びそっと目を移す。
クロトの顔と黒い羽、二つを静かに行き来して…。
純粋で無垢な顔を、ちょこんと傾けると、パチッと二人の目が合った。それと同時に、やんわりと笑みを浮かべた。
「いや、これはそのっ…!」
クロトは声を上げると、背中を丸めて翼を後ろへ隠した。 ぎゅっと目を閉じ、俯くと、背中がじわじわと熱くなっていく。
チクチクとした痛みを感じ、黒い翼はぼんやりと揺らめいて…。 淡い光を放ちながらゆっくりと溶けていく。
まるでそこには何も存在しなかったかのように、翼は体内へ吸い込まれるようにして消えていった。
数分もかからないうちに、その場所にあった翼の全てが跡形もなく消え、彼は普通の人間と変わらない姿となった。
(翼が仕舞える。 この力があって本当に助かった…)
数多く存在する天使の種族には、翼を仕舞う事の出来る力が備わっていた。 人間や獣人達と暮らす中で、地面に降り立って仕事をするのには、翼は適さない。
そんな時、この力を使えば仕事の邪魔にならずに済むのだ。
「…あら、どうしてしまっちゃうの?」
シエルは、クロトが翼を隠した事を不思議に思うと、背中を覗きこもうとゆっくりと近づいた。
(なんでこっちに来るんだよ…)
クロトは顔をしかめ、それを避けるようにじりじりと後ずさっていく。
「ちゃぽん。」と音がして、かかとが水に浸かり、水面を揺らした。
これ以上後ろに下がり切れない事を悟り、諦めたように、静かにその場に立ち止まった。
(俺の羽を…撫でていた…っ。 こいつ、恐ろしくないのか…?)
彼自身、この漆黒の翼を忌まわしく思っていた。 他人にこの黒い翼について触れられた事は、今まで一度もなかった。
グッと心臓をつかまれたかのように、恐怖を感じて、動揺した心臓の音が鳴り響く。 冷や汗が頬を伝っていった。
(幼い頃からずっと…毎日のように言い聞かされてきた。)
「お前の持つその黒い翼は"
耳に残るように、何度も何度も。
彼の育ての親――ノアが、毎日のように繰り返し呟いていたのだ。 村で生活していた時は、翼の無い天使として…奇異の目に触れながら過ごしてきた。
(そうやって過ごしてきたのに…)
――耳に残るあの言葉。
「お前なんか、天使じゃないだろ! 本当は人間だろ? 嘘つきめ!」
(なんで、信じて貰えないんだ…。 この翼を見せる事が出来たら、こんなこと言われないのに!)
彼の翼を、子供たちは一度も見たことがない。 何一つ信じてもらえず、嘘つき呼ばわりされて、同じ年齢の子供たちはヒソヒソと噂話しを繰り返した。
そして、自分より背の高い子供が、意地悪な目をして、幼いクロトに向かって心無い言葉を浴びせてきたのだった。
「やぁい、飛べないちび助」
それ以降、そのあだ名が定着して、毎日のように呼ばれていた。
彼はやり返そうとした事もあったが、返り討ちにされ、その度、ノアに気付かれない様に、物陰に隠れて、ひっそりと、泣いている事が多かった。
――嫌な記憶が、頭の中に蘇り、クロトは不快感に、さらに深く眉間にしわを寄せた。
この滝は…普段から誰も訪れない。 そのおかげで…いつもはこの場所で、翼を出して自由に飛び回っていた。
その事にすっかり慣れて…油断してしまったのだ。
(今すぐ、この場所から逃げたい…っ!)
そんな気持ちに苛まれ…。彼は思わず視線を泳がせた。
彼の焦りを感じる事もなく、シエルは握りしめた、黒い羽を優しく眺め続けていた。 ふ、と目線を動かすと…クロトに向かって、にっこりと微笑みかける。
「森の中からあなたを見つけた時…」
「なんて素敵なんだろうって、そう思ったの」
「…えっ…」
彼女の、美しい声が周囲に響いた。
その途端――風が、一段と強く吹き抜けた。 近くに咲き誇っていたライラックの木が揺れ、花びらがふわふわと散っていく。
優しい香りが、風に乗って二人を優しく包み込み、まるで……。
春の風が、二人の出会いを祝福するかのように吹いていた。
――初恋。 甘酸っぱい春の陽気が、彼の胸の中に静かに溶け込んでいった。
やがて、黒い羽は、花の香りに誘われながら、風と手を繋ぐ。
風と共に羽は浮び上がると、彼女の手の中から「さようなら」と離れていく。 空に舞い上がった羽は、遥か彼方へ。
木々の向こうに流され、消えていく。
「あーあ、飛んで行っちゃったなぁ」
せっかく手に入れた宝物は、すぐにその手の中から無くなってしまった。 寂しい気持ちがシエルの胸に込み上げ、チクリと何かが胸の奥に刺さって…彼女の心の中を揺さぶった。
(あの羽は…一体どこに行っちゃったんだろう)
シエルは目を凝らして探してみたが、全く見当たらない。 すでに視界から見えなくなったお気に入りの羽を探して、しばらくじっと空を眺めていた。
「…ふうぅっ」
シエルの目の前で、ドサリと何かが落ちる重たい音がした。
胸の奥に、溜め込んでいた息を吐き出す声が、目の前で聞こえてくると、シエルはゆっくりと、空に向けていた視線を、クロトのいる方に向け、その顔を動かした。
彼は体が強張って、立っている事さえままならず、へなへなと腰を抜かして、その場に座り込んでしまった。
「俺、そんなこと…はじめて言われた…っ」
張り詰めていた緊張の糸が解れて、恐怖心がゆっくりと溶かされていった。 ふっと力が抜けきってしまい…。
自分の中に芽生えた小さな恋心に、思わず戸惑いの表情を浮かべていた。
(こんな気持ち、初めて…だ…。 どうしたらいいんだ…?)
「ふふふ、あなたって‥‥なんだか面白いのね」
シエルは唇にそっと指をあて、クスクスと笑っている。 クロトのそばに、ゆっくり静かに歩み寄った。
腰を抜かして、座り込んでしまった彼の目の前に立ち、自分も腰を低くかがめて、顔を覗き込む。
「――大丈夫?」
そう言いながら、淡く白い手を差し伸べ、そっと優しく手のひらを向けた。
「…っ」
戸惑いと、恥ずかしさからなのか。
クロトはちょっとだけ頬を染めると、ふいっと目をそらした。 目の前に差し出されたその手に照れながら…そっと、重ね合わせ…。
「えいっ!」
「うあっ…!」
ふいに、シエルはその手をぎゅっと握りしめ――…思い切り力を込めて、自分の元へと彼を引き寄せた。
よろめきながらも、クロトは立ち上がる。
(ち、近い…)
密着はしないほどの距離なのに、その近さに、ドキドキとした心臓の音が、彼女の耳に届いてしまいそうで、クロトは少しだけ戸惑って視線をおよがせた。
シエルは、自分よりも背の高いクロトを見上げて、柔らかく笑うと…。 ふと、興味深そうな顔をして、クロトの顔をじっと見つめていた。
(あぁ…こいつの瞳…すごい…きれいだ…)
パチッと二人の目が合った。 目の前で笑う、彼女の瞳は…。 黄金の輝きの中に、まるで、翡翠のような緑色の光彩を宿していて…。 この瞳に見つめられると、なんだか光の中へ吸い込まれてしまいそうな、深い輝きがそこにあった。
「…お前の目、良い色だな」
その美しい色に、彼は思わず口に出すつもりのなかった言葉をぽろりと呟いた。 その瞳の中に吸い寄せられるように、自然と目を離せなくなっていく。
「あなたも、その目の色素敵ね。
…ーなんというか夜空の中で海と炎が出会ったかのような色ね――」
時が止まったかのように、お互いにしばらく見つめ合っていると、どこからともなく木々を揺らす音が響き渡った。
――ガサガサッ
二人の雰囲気を断ち切るかのように、一羽の鳥が木々を揺らしながら空へと飛び立っていった。
(ちっ…いい所を邪魔されたな…)
クロトは眉をひそめて、空を見つめる。
木々はまだゆらゆらと揺れていて、その先にはただ、青い空が雲一つなく広がっているだけだった。
握り合った手は、名残惜しそうに離され…。
「あっ、ご…ごめんね。」
「いや、俺の方こそ…ありがとう…」
その場で、二人はポッと顔を赤くしながら、お互いに、顔を反対方向に背けた。
クロトはぽりぽりと頬を指でかいて、シエルは両手でもじもじとしていた。
(シエルか…。可愛いな。 …こんな気持ちになったのは、今までで…初めてだ)
彼は再び目の前の少女に視線を移すと…。 照れくさそうにはにかんだ。
「そういえば俺の名前、まだ教えてなかったよな」
「俺は、クロト。
クロト・アルテスタだ。 よろしくな」
「そう…」
「クロト・アルテスタ…。 クロト…。 うん、クロト…」
(いい名前、ちゃんと、忘れないようにしないと…)
彼女は、胸に手を当て、目を閉じると、噛みしめるように何度も彼の名前を呼んだ。
(そんなに呼ばれると照れるなぁ…)
二人の出会いの時は静かに過ぎて…近くに咲いたマリーゴールドの花が、風に揺られてなびいている。
大切な記憶が、二人に芽生えた瞬間の…温かい思い出の日となった。
「私の事、シエル、って呼んでみて?」
「うっ…シ…シエル…っ!」
「ふふっ…よろしくね、クロト!」
(こ、こんなの…は、恥ずかしいじゃないか…)
――しばらくの間、二人は、誰にも邪魔されず………他愛のない会話を続けていた。
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