✦✦Episode.1 爽やかな春の風✦✦
✦ ✦ ✦Episode.1 爽やかな春の風
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音も、色彩も無い――モノクロに沈んだ世界。
荒く息づく呼吸音が、脳内で「はぁっ、はあっ……」とリアルに響いている。
(――ここは…どこだ?)
自分の身体が、ピクリとも動かせない。
ひやりとした汗が、頬を伝っていくのを感じ、ゴクリと息をのみ込んだ。
背中から、じりじりとした痛みが、まるで。 そこに
(くそっ――動けない……!何なんだ!)
必死になって、振りほどこうと暴れると――サクッと地面を踏み慣らす音に、視線を向けた。
こちらに向かう――“誰か”その手は、優しく頬に触れた。
……上下に緩やかに撫でられ――愛おしそうなその手は冷たくて……。 まるで、生きてる者では無いかのように。
(こいつは――いったい誰だ? 眩しくて見えない)
目の前にいる誰かの顔は、白くぼんやりとした霧に包まれ、それがいったい誰なのかすら、分からないまま。
ふっと、身体にのしかかった重りが取れ、その“誰か”に触れようと、手を伸ばした。 身動きが取れるようになったと思えば――目の前が歪み、視界の中で緩やかな波紋となって広がっていく。
『さようなら』
身体は宙に浮き、一気に暗闇の世界へと引きずり込まれていく。 何かを掴もうと必死に手を伸ばすのも虚しく――その重力の重さに耐えきれずに沈んでいく。
『うぁあああああ——!!』
――叫び声を上げながら。
失われていく一筋の光―― 伸ばした指の先で、静かに閉ざされていくのがはっきり見えた。
(ここに――俺の居場所は……もう、ない……)
震える声。 真っ暗な闇の中――先程とは違う誰かが、揺らめきながらこちらを見ている。
(錆びた鉄の臭い。 許せない。 なぜ…なぜ、俺を裏切った!!**ル!!)
――歪んだ獣の赤い瞳。
その瞳が、獲物を捕らえる目で…――こちらを見ていた。
「——はっ………!! ゆ………夢?」
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不思議な夢を見た。 まるで自分がそこにいるかのような生々しい夢で…。 そんな、ひどく重苦しい夢を見て、うなされていたようで、パチッと目を開けた時には、全身は汗でびっしょりと濡れていた。
(ここは一体どこだ…? 俺は…今、何をしているのか…?)
ザァザァと、轟音にも聞こえる滝の音。 巨大な滝は、今日もせわしなく、その水を滝壺へと流している。 夢から覚めて、静かに暗闇の先を見つめる。 まばゆい光がゆらゆらと揺れ…。
ぼんやりした視界の中で、ゆっくりと指先を顔の前に持ってきた…。 目の前に見えるのは、ゴツゴツとした、男の手のひらだった。
「お…れは……一体………?」
自分の声が、その場で反響している。 荒くなった呼吸を整えようと、思いっきり息を吸い、しばらく息を貯めてから、フーッと吐き出して呼吸を整える。
「んんっ……」
(朝、か)
顔に滴っている汗を拭うように、顔面から黒い髪のてっぺんまで一気にかきあげた。
ゆっくりと、落ち着きをとりもどすと…手を地面につき、身体を起こして座り込んだ。 寝床にしていた洞窟の中から、外の方向に視線を移して……。
流れる滝の水を眺め、ため息をついた。
まばゆい光が朝の訪れを囁き、洞窟の奥へ流れ込んだ一筋の光を目で追いかけていく。
その光は、ゴツゴツとした岩肌の表面をやさしく照らしていた。
「良い風。 やっと、良い季節になったな」
時おり、ふわりとあたたかな風が吹くと、濡れた髪を優しく揺らした。
微かな森林の香りを、風が洞窟内へ運んでくる。 そして、わずかな岩の隙間を見つけ、静かにその穴を吹き抜けていく。
ぽたり、ぽたりと、雫の音が、奥から反響しているような、そんな気がして…。
(…まだこの奥に、“何か”がありそうなんだよなぁ)
何だか惹かれるような、すごく不思議な感じがして、じっと岩肌を見つめ、耳を研ぎ澄ませる。
——と、カサカサと、小さな昆虫の歩く音が、どこからか聞こえてくる…。
昆虫は、一通りその場を歩いて。 その後は、別の場所にむかって、ブーンと飛んでいき、着地する。…再びカサカサとした音を立てながら、歩いて行く。
「——そうだ村に薬の材料を持って行かないとなぁ」
彼はふと、我に返ってぽつりと呟いた。 洞窟内に反響した声は、静かに岩に吸い取られ、滝の音にかき消されていく。
まるで、その場所には何も存在していないかのように。 力強く落ちる滝は、全てを滝つぼに向かって流して行く。
『——クロト・アルテスタ』
彼の名は、そう呼ばれている。
一体なぜ、彼は村から離れ、この滝に一人で住んでいるかというと、村での生活に嫌気がさして、一人で生きると、心に決めたからだ。
幼い頃…両親はすでに亡くなり、その顔を見たことも、その声を聞いた事もない。 育ての親は、ノアという老婆で、彼女は村の奥で医院を営んでいる。
その片隅に置いてもらって、幼い頃から静かな生活を続けていた。 しかし、村に住んでいる同年代の子供達は、彼に心ない言葉を毎日のように投げかけていた。
ノアの医院には、すでに手伝いが何人もいたが…。 空いている仕事を見つけては、自らそれを引き受けて、次々と手伝いをこなしていった。
狩りや薬草学といった生活に必要なスキルは、仕事をする中で、自然と身についていった。
そんな生活を続けていたある日、彼は10歳にして、一人で森の中を歩くことを許可されたのだった。
そして、ある時——村外れにあったこの滝を、偶然発見したのだった。 初めてこの場所に来た時…。 ごうごうと滝が流れ落ちているその裏側に、人知れず洞窟を発見した時には、すごく感動した事を覚えている。
「うわぁ、すげぇ…!」
あまりの嬉しさに、ぴょんぴょんと洞窟の中で飛び回って、両手をあげて喜んでいた事を思い出した。
「俺、ここでなら…きっと、生きていける気がする!」
そうして、この場所を住居に決めて…それから8年。 彼はここで暮らし続けていた。
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この場所は普段から誰も近寄らず、誰の目からも触れにくい。 周辺には危険な魔物が少なく、自然に慣れた人ならば、たとえ、子供が住んだとしても、問題ないくらいに快適な環境だった。
食料にしやすい小型の生物、木に実る果実…そして、様々な効能のある薬草なども、この滝の周辺に豊富に存在している。
なによりも——彼は天使としてこの世に生を受け、天高く飛べる優れた翼を持っていた。 軽やかに空を飛び回り、この場所で、生活に困ることがあったとすれば、村からほんの少しだけ、離れている事だけだった。
「…汗かいちまったな」
クロトは立ち上がって、滝の方へ身体を向ける。 ゆっくりとその方向に向かって歩いて行くと、裸足になって、踏みしめた地面は、大地の力強さを感じ…ここでちゃんと生きていると実感させてくれる。
滝と洞窟の境目にそびえ立った岩場に登ると、濡れた服をパサッと脱ぎ捨て…その場で大きく背伸びをした。
天使といえば、光を宿す“純白の翼”をその背中に
しかし…彼の翼はまるで…闇夜に吸い込まれてしまいそうな程、
「んん―…いい天気じゃん。 これは…やっぱり、あれをするしかないな!」
彼は、背伸びをしながらゆっくりとその翼を広げていく。 バサッっと音を鳴らして、翼を羽ばたかせると、染み付いていた汗の雫は一気に舞い上がった。
彼が空を見上げると、風にのって木々のせせらぎが聞こえて来る。 時よりチッチと小鳥達のさえずる可愛らしい声が、彼の耳に届いて、爽やかな風を感じながら…ゆっくりと滝の底に目を移した。
「ふーっ。 んっ。 行くぞっ…!!」
深く吸った息を吐き出すと、岩場の上から滝の真下へ腕を伸ばして頭から飛び降りた。
翼を閉じたまま、落ちていく滝と同じ速度で並んで…滝の底まで一直線に飛び込んでいく。
「うおおおっ‼ イヤッホー…!!」
――爽快感に満ちた笑みを浮かべ、叫び声は岩に反響して周囲に響き渡った。 ザブンと大きな水しぶきが上がって、周辺の岩にバシャンとかかっていく。
彼は、そんな事は気に止めず、そのまま深い水の中へ、ぐんぐん沈んでいく。
透き通った水は、底の方まで光り輝いて…。この場所で生まれては死んでいく命…。 その命を…別の生き物が頂き、新たな命を育む。 そんな光景が、あちらこちらで広がっていた。
(おっ、これはゲンゴロウ?)
生まれたての小さな昆虫たちが、揺れ動く草の隙間から顔を出したり、隠れたりしている。 突然迫りくる大きな顔を見て、驚いて急いで岩場の影に身を隠す姿は、彼の目には遊んでいるかのように思えた。
(おお?…あっちは…ヤマメだ! 今夜の晩飯にするかな…?)
——彼はこの場所を愛していた。
水中の様子を一通り眺めて楽しんだ後、そこから一気に浮上して緩やかに泳ぎ…やがて浅瀬にたどり付く。 ザバンッ と音を立てて水面に顔を出し、水中でゆっくりと立ち上がろうとした。
(…―少しだけ深いな…)
彼は水中を足で探って、立てる場所を探していた。 せり出した岩の上に登り、上半身だけが水面から浮かぶと…彼の身体は、暖かい太陽の元へ晒された。 日の光が、柔らかく彼の身体を包み込む。
腕を伸ばして、顔についた水滴を拭うと、全身から水がぽたぽたと滴り落ちて、波紋が静かに広がっていく。
背中に生えた大きな漆黒の翼もまた、日光を求めるように、ゆっくりと天高く…。 羽の先端まで大きく広がってて伸びていった。
「んん…。 いい空気だ。 今日が、始まったな」
ドロドロと肌にこびりついていた砂と汗を洗い流すと、重苦しい夢のあとの嫌な気持ちは、すっかりどこか遠くに飛んでいってしまった。 何の夢を見たかも忘れ、水面から身体を出しながら、清々しい朝の香りを胸いっぱいに吸い込んで楽しんでいた。
——その時だった。
ガサッ、と背後の茂みが揺れて、地面の小枝をパキパキ踏み鳴らす音が聞こえた。
「…!?」
突然の事に驚いて、クロトは振り返り身構える。 彼の翼は、布一枚羽織っていない体を護るように、身体全体を覆い隠した。
(あそこに見えるのは、一体何だ……?)
岩陰に黒い影がぼんやりと揺れている。 この場所に獣がやってくることも稀にある…が。
周辺の生き物は彼の背丈より小さい物が多く、凶暴なものは居ない……だが。 物陰に見える黒い影は自分と同じか——それ以上に大きく感じる。
「——ウゥッ…」
獣に対する、警告のようなうなり声をあげ…。 謎の気配に対して、身をかがめながらじっと物陰を睨みつけた。
サワサワと、風がそよいで、葉の擦れ合う音が響く。 物陰に潜む得体のしれない何かは、敵なのか、味方なのか…?
「ごめんなさい、見るつもりじゃなかったの。」
(え……? 女の……人の声……?)
じっと耳を澄ませておかないと、滝の音の中に溶けて消えてしまいそうな柔らかくて
何とも言えない儚い女性の声が、周囲の岩に響きながらクロトの耳に届いた。
(な、なんだ……凄く、優しい)
暖かく包み込むような優しい声は、彼を少しだけ穏やかな気持ちにさせてくれた。彼の心の中をくすぐるような、不思議な感覚だった。
「……そこにいるのか? 姿を見せろ!」
警戒を解かずに、彼は眉間のしわを伸ばし、緊張した表情を浮かべた。 恐怖心を与えないように取り繕って、不器用な声で優しく語り掛け、そこにいる人物が現れるのをじっと待っていると——
木の葉が揺れ、擦れる音を鳴らして、物陰からゆっくりと、その姿を現した。
クロトは、眩しさに目を細め、現れた者を見据えたその途端…。
(な…!? か……可愛い……っ!!)
爽やかな春の風が、花々の香りを巻き込みながら、空へ舞い上がっていく。
酔いそうなほどの、甘い香りに包まれながら…。目の前に現れた、白銀の髪色をした儚い天使は、少々困った顔でこちらを見ていた。
「おまえ…は? 一体どこから来たんだ?」
突如、目の前に現れた美しい少女に見とれ、すっかり気が緩んでしまった彼の翼は、スルリと、体から滑り落ちていく——
「きゃあっ!!」
少女は、彼のたくましい筋肉をつい見てしまい…恥ずかしさに悲鳴を上げると、慌てて顔を両手で覆い隠した。
焦った少女は「これ以上見てはいけない」と後ろを振り返って地面にしゃがみこむ。
(やだ、み……みちゃった……!!)
幸い、目の前の少年のすべてが見えてしまうことはなかったが…。 少女は照れたように、ぽっと顔を赤らめた。
「わ、私は…シエルっていいますっ…! お願いだから、服を着てもらえませんか‼」
彼女の胸はドキドキと高鳴りはじめ、焦りの入り混じった声を出しながら…手をパタパタとふっている。
「…?」
(こいつ、一体何してるんだ…? 女って分からないな)
(…けど、すげぇいい声…。)
突然現れたかと思えば、自分の顔を見るなり、背を向けられ、何かよく分からない事を叫んでいる。
(あげくの果てに、この反応…。)
「服…? 服なら着て…うあっ…!!」
彼がパッと下を向いた時、自分が今、どんな姿で居たのか、やっと気がついた。 一気に顔を赤くさせながら、慌てて、自分の身体を手で覆い隠した。
(やばい、俺今、服着てないんだった!!)
「わっ…わりぃ…今着替えてくるから、そこにいてくれ!!」
彼は踵を返し、身体を隠すように少女に背を向け、岩場の影に隠れながらバタバタと羽ばたくと、崖の上を急いで登っていく。
「振り向くなよっ?…絶対に!!」
(何でこんな時に人が来るんだよ~!!)
「もうっ…っここで待ってるから、早く着替えてきてくださいぃっ!!」
(振り向けるわけ……無いじゃない!!)
少女は地面を見つめながら顔を赤くしてうずくまっていた。
彼は時々、彼女が自分を見ていないか心配になって、岩の影からその姿を何度も確認しながら…。 自分の衣服を探してあちこち飛び回る。
「うーんっ。」
(服が、無い。 一体…どこで脱いだんだ? おかしいな…)
どれだけ目を凝らしても、脱いだ場所には衣服が見当たらず、彼は慌てたようにキョロキョロと見回している…と、脱ぎ捨てた衣服は、思ったよりも随分と遠くに飛ばされていた。
風がいたずらを仕掛け、岩場の隙間の中にこっそりと滑り落ちた衣服は「ここだよ…。」と囁くようにパタパタとその場で揺れている。
彼はやっとの思いで履物を着用すると、いつも通りの履き心地にホッと安堵のため息をついた。
——その頃。少女シエルはというと…
不覚にも目に焼き付いてしまった男性の胸板と、引き締まった腹筋…。
(凄く、たくましくて、かっこよかった…)
その腕にそっと抱きしめられて…。 優しく髪を撫でてほしい…。 なんて、ロマンティックな想像を掻き立てていた。
「いやん、私ったら…いけないわ! 見ず知らずの男の子にドキドキしちゃうなんて……っ!!」
先ほどの光景を思い出して、赤くなった頬を両手で包み込むと、ふるふると頭を振りながら、一生懸命に熱を冷まそうと、やきもきしていた。
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