第5話

「あら、三浦さん」

 アパートを囲む植え込み、その前で立ち話をしていたご婦人方。

 その内の一人に名前を呼ばれて、思わず肩が跳ねた。

 誰だっけ、と思い返して――大家さんに挨拶にいった時、一緒にいた人だと思い出す。

「……どうも」

「今日までテストだったでしょう、お疲れ様」

「梶さんちの息子さんもでしょう?」

「あの子、いつもギリギリになって手を付けるから大変よぉ」

 もう一人は、どうやら梶のお母さんらしい。

 二人の会話に、ちりちり、心のどこかが焦げていく気がする。

 ……都会は、地元みたいなことはないと思っていたけど、そうでもない。

 ここ一年で、そんなことを思うようになった。

 そんなに差異がないことは、電車の中吊広告が描いている。地元よりも、幾らかマシ、程度。

「――あぁ、そうだ三浦さん」

 早く終わらないかな、と聞き流していたら、不意に名前を呼ばれた。

 ハイ、と裏返った声が出る。

「今回、契約更新してくれてありがとうねぇ」

「……ア、ハイ、イヤ……」

 そういうの、守秘義務とかあるんじゃないのか。

 それとも、大家さんには伝わるものなのか。

 頭に浮かぶそれとは裏腹に、返事は掠れてしまう。

「……変なこと、何もない?」

「……ア、ハイ」

「そう」

 大家さんちの人――梶曰く、高橋さん――はそう言って、ほっとしたような笑みを浮かべる。

「よかったわぁ――来年の更新の時、家賃を元に戻そうと思っているのよねぇ」

「……え」

 がつんと、硬い物で頭を殴られた気がした。

「一年住んでもらったし、何もないなら……ねぇ」

 流石にあの家賃じゃ、採算が。

 誰も入らないよりはマシだけど、それでも赤字で。

 そんな苦笑交じりに、息が詰まる。

「……アイウチさんも、悪い人ではなかったんだけどねぇ」

「ずっと住んでいらしたものねぇ。長かったでしょう」

「そうなのよ。なかなか、ねぇ。こっちからは更新を断り辛くて……」

「奥さんを早くに失くして、息子さんも連絡付かなかったんでしょう?」

 ちりちり、ちりちり、身に覚えのある感覚。

 そこでふと、引っかかるものを感じた。

「……アイウチって、相手の相に、内側の内って書きます?」

「あら、ご存知?」

「いえ……ただ、地元の方に多い名字だったので、関東で聞くと思わなくて」

「三浦さんも北の方よね」

「はい、青森で」

 そこで話は逸れて、一人暮らしなんて偉いわねぇ、と言われる。

 けれどもその音にぞわぞわしたのは――遠ざかった筈の、地元を思い出すから。

 意識して息を吸い込んで、吐き出す。

「……家賃の話、は。不動産屋さんに、も、伝えて、いただければ」

「あぁ、そうね。でも来年の話だからねぇ」

「えぇ、まぁ……仲介、お願い、してますし」

 それもそうね、と笑うご婦人方。身なりは綺麗だけど、なんだかグロテスクに見えた。

 テスト明けだから、と理由を付けて、その場を後にする。

 シリンダー錠に鍵を入れて、半回転。アパートの中に入って、鍵とチェーンをそれぞれかける。

 外の音が聞こえない、『僕の家』。

「夏樹ー?」

 部屋の方から、健太さんの声が聞こえる。

 それに返事ができないでいれば、扉から顔を覗かせた健太さん。

 玄関に立ち尽くす僕をどう見たのか、ゆっくり、彼がやってくる。

 見上げた先、細められた切れ長の瞳。

「どした?」

「……ちょっと、そこで、おばさま方の世間話に、巻き込まれて」

「……あー……お前、苦手そう」

「苦手、です……話題が、来年の更新で家賃戻す、ってものだったので、もっと、苦手で」

 え、と驚いた声が降ってくる。

 沈黙は、一拍。少し高い所から、「どうすんの」と心配そうな声が聞こえた。

「元って、六万だろ……いけそう?」

「無理、ですね……そう、なったら、覚悟決めて寮ですけど……」

「そんな嫌そうに言うなよ。俺と住めてるだろ?」

「……健太さんは、特別、ですから」

 口にしてから、言ってしまった、と思う。

 そっと見上げれば、健太さんは眉根を下げて――それでも、笑おうとしていた。

「……そっか、さんきゅな」

「……健太、さん」

「でも、そうなったら、さよならしねぇとなぁ」

 ――俺、この部屋から出られないから。

 どこか寂しそうに、健太さんが言う。その音に、心臓が跳ねた。

 詰まりかけた息を吸い込んで、吐き出す。

 どくどくと、心臓の音が耳元で鳴り続けている。

「……健太、さん」

「夏樹?」

「押し入れ、ちょっと、上がらせてください」

 靴を脱ぎ捨てて、部屋の中へ。玄関から見て左側――ユニットバスと隣接している押し入れを開ける。

 上の段に乗って、天板をずらして。

 ――そうして、抱えたのは、一抱えほどの桐の箱。

「夏樹!?」

 押し入れから降りてきた僕に、健太さんが驚いたような声を掛ける。

 視線が、埃をかぶった箱に向く。

 その瞬間、目が真ん丸くなる。

 床に下ろして、紫の布を取る。

 予想通り――出てきたのは桐箱。

 ――その蓋に、手を掛ける。

「ッ、やめろ夏樹!」

 健太さんの制止は、聞いたことがない音だった。

 痛んだ心臓を無視して、箱の蓋を取る。

 桐箱の中には少し湿った空気と――それから、白い骨が詰まっていた。

 昔、焼き場で見たお祖父ちゃんの骨を思い出す。

 あの時よりは少しくすんで、古い、と思わせる骨。

 頭蓋骨はそのまま入っていて、後頭部が少し――陥没、していた。

「……健太さん」

 振り返る。座り込んだ健太さんは、青い顔をしている。

「……やっぱり、ここに、いらっしゃったんですね」

「……なんで……お前……」

「こないだ、天板直した時に……なんで、骨壺が天井にあるんだろう、って気になってたんです」

「……骨壺?」

「骨壺、地域で違うんですよね、確か……」

 お祖父ちゃんのお葬式の時に、焼き場で骨を納めた木の箱。それに紫の布をかけるそれが当たり前と思っていたから、関東の『骨壺』を見て驚いたのを覚えている。

「僕の方はこうやって、陶器の壺じゃなくて桐箱にお骨を入れて……納骨の時、墓石の下にそのまま、入れるんです、直接、中身を」

 あぁ、と健太さんの口から息が漏れる。

 がしがし頭をかいて、それから額に手を当てて。

「……供養の心算かよ、クソジジイ……」

 苦く落ちたそれに、やっぱり、と思わずにはいられなかった。

「……前の人は、健太さんの――お父さん、ですか」

「……いつ、分かった」

「さっき、です。大家さんちの人から、前の人の名字、聞いて……健太さんと、同じだなぁ、って」

「……あぁ」

「……でも、健太さんが『この部屋から出れない』ことは、ずっと分かんなくて」

 それでも、押し入れの上にお骨があったなら色々納得がいく。

 お風呂場に行く時だけ、壁を抜けてきたり、とか。

 前に、押し入れの中がなんでか落ち着く、と言っていたこととか。そんな、沢山のことに。

 健太さん、と名前を呼ぶ。

 なんだよ、と苦い声が返る。

「……隣、行ってもいいですか」

 そう言えば、丸くなった健太さんの目。

 それが、くしゃりと歪む。まるで、泣き出す前の子供みたいに。

「……やっぱりお前、友達が言うように心臓に毛が生えてるよ、夏樹」

「なんですかね、育った環境ですかね」

 それに少しだけ笑って、健太さんは僕を手招く。

 隣に腰掛ければ、苦く、重い息が落ちた。

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