第4話
デジタル時計が示すのは午前六時半。
その時間に目が覚めたのは、習慣のおかげだろう。
床で寝ている三人を起こさないようにして、台所に向かう。流し台の壁についている電灯をつけて、開けた冷蔵庫。
中には健太さんが作ってくれた常備菜のタッパーと、ホットドック用のパン。それから卵と牛乳。
「朝飯作ろうか、夏樹」
背中からの声に振り返る。
おはよ、と笑う健太さんにほっとする。
「おはよ、健太さん……嬉しいけど、箸だけ浮いてるの見られたらやばそうな気がします」
「それもそうか」
「卵使い切っちゃっていいです?」
「いいよ」
残っていた卵を四つ、ボウルに割る。砂糖と塩、それから牛乳を入れてかき混ぜる。ガスを付けてから少し待って、フライパンに卵を流し入れる。
じゅう、と音がして、卵が焼ける匂いが漂う。
「卵焼き?」
「スクランブルエッグですね」
「あぁ、なら少し待ってから混ぜるとふわふわになるぜ」
「そうなんだ……いつもボロボロなっちゃうの、早かったのかな」
「多分な。オムレツもそれで……おっと」
健太さんが言いかけて、口を噤む。
それと同時に、部屋に繋がる扉が開く。
「……三浦?」
「梶、おはよ。パンでいい?」
「あー……なんか、悪いな。押しかけて飯まで」
「ううん、一人作るのと変わらないし……それからごめん、十時からバイトあって、九時くらいに解散でもいい?」
「マジ? いいよ、青山達起こすわ」
「うん、ありがと」
菜箸を動かせば、確かにいつもよりふわふわのスクランブルエッグが出来ていく。
火を止めて、残りは余熱で固めることにして。
冷蔵庫の上に出していたパンの袋を取って、そこで梶が立ったままだったことに気付いた。
その顔色は、少し青い。
「……あの、さ」
「うん」
「今、ここに……男、立ってた気が、して」
……健太さんか。
どう誤魔化そうかな、と思いながら、ホットドック用のパンを少し開く。
もう入っていた切れ目の両面にマーガリンを塗って、トースターに。
普通のパンよりも焼けるのか早いから、気を付けないと。
「そこ、アクリルガラス入ってるじゃん。僕が映ったんじゃない?」
「三浦が?」
「うん。そこ、僕姿見に使ってるし」
「……ふは」
どこか安心したように、梶が笑う。
そうして、「何もなかったなぁ」としみじみ呟いた。
「ここ、さぁ」
「うん?」
「昔っから、部屋の中に若い男がいる、とか噂、あったから」
そう言えば、梶は実家が近いと言っていた。
そういう噂は不動産屋さんからは聞いていなかったけど、マイナスになることは伝えないか。
「……若い人が死んだ、って話あるの?」
「いや、聞いたことねぇな」
「じゃあ、前のおじいさんの親戚とかだったんじゃない? それか泥棒さん」
告知があったのは、『老人の孤独死』だった。
それ以外は聞いたことがない、と返せば、そっか、と梶が笑う。
「三浦と話してると、なんともないように聞こえるわ」
「田舎育ちで図太いだけだよ」
「いや、都市伝説ってこう出来るんだろうなぁって思ったわ。人の不安とか、噂とかで」
「あぁ、来年講義でもあるよね」
「マジ? 都市伝説が?」
「うん、神話から都市伝説までって……去年シラバスにあったから、今年もあるんじゃないないかな。二年次の選択」
そこでトースターが音を立てた。
焼きあがったパンを取り出せば、梶は「アイツ等起こすな」と笑う。
その背を横目で見て、パンにスクランブルエッグを詰める。上からケチャップをかけて――ふと、気になった。
ここで死んだのは、おじいさんだけ。若い男の人の話は、不動産屋さんも、梶も知らない。
それならどうして――健太さんは、この部屋から外に出られないんだろう。
◆ ◆ ◆
地縛霊みてーなもん。
健太さんからそう聞いたのは、同居を始めて一ヶ月が経った頃だった。
この部屋の中なら、自由に動ける。少し前までは無理だったけど、最近物に触れるようになった。
『いけるのはこの部屋の中だけだな。部屋の中なら、普通に過ごせるけど』
ぽつぽつと話すそれに、おばけも色々あるんだなぁ、と感心した。
『難儀なものですね』
『まぁな……まぁ、前のジジイの時は一緒にテレビ見てたけど、今度の坊主はテレビ持ってねぇもんな』
『ラジオならありますよ』
『ジジイよりジジイじゃねーか!』
そんな会話をした時は、気にならなかった。大変だなぁ、と思うくらいで。
その日は天気が良かったから、南側の窓を開けて、二人で柏餅を食べたんだった。
『お、美味ェなこれ』
『……甘い物、お好きです?』
『あー……まぁ、人並には』
『じゃあ、週一くらいで買ってきますよ……いつも、家事してくださっているので。御礼、というか』
『ガキが気にすんなよ』
『いや、どっちかって言えば仏壇のお供え』
『オメー、信心はあるのにビビらねぇよなぁ』
そんな会話をして、笑い合ったのを覚えている。
次の金曜日、コンビニスイーツの新作を買って来たら、健太さんの顔が子供みたいに輝いたのも。
『これコンビニだって? ケーキ屋じゃなく?』
『はい、僕もそんなに食べたことはないんですけど……コンビニごとに特色あるみたいで』
『はぁー……すげぇな、時代の進歩。俺の時なんてナタデココだったぜ』
『僕、ナタデココ食べたことないかも』
『えっ!?』
そんな会話を交わす内に、健太さんは容器を空にしていた。だから、次の週には健太さんの分を二つにした。
居室は僕。健太さんは、押し入れの上の段。
最初はそう決めたけど、そんな取り決めはすぐに曖昧になった。
あまりの自炊の出来なさに、料理は健太さんが作るようになった。
地元とは違いすぎる夏の暑さに参っていたら、扇いでくれたのは健太さんだった。
誰かがいるのに、苦しくならない生活。それが一年も続いたのは、夢を見ているようだった。
……気にしたことが、なかったのだ。
彼といることが、居心地が良くて。
彼と話すことが、居心地が良くて。
……なにより、
『――おかえり、夏樹』
その笑顔を、向けらることが嬉しくて。
……だから、考えないようにしていたのかも、しれない。
◆ ◆ ◆
「悪かったな、三浦」
「ううん。こっちこそ過去問、助かった」
「試験頑張ろうぜ」
玄関で青山が言って、曽根の言葉に梶が頷く。
思えば、修学旅行以外で誰かと同じ部屋で寝たのは、初めてかもしれない。
楽しかったなぁ、と思いながら、玄関のドアノブに手を掛けた梶の背を見送る――その、瞬間。
ばんっ、ぱぁん、がたがた。
響いたのは、そんな音。
結構な音量に、三人が固まっている。振り返れば、部屋に続く扉が閉まっていた。
「ちょっと待ってて」
閉まった扉を開けて、居室の中へ。
部屋の中を見れば閉めていた筈の押し入れが開いていて、上の段に座る健太さんと目が合った。
彼は人差し指を口元に当てて、それから天井を指す。
「……なんか、風で押し入れ開いてた」
扉から顔だけを玄関に向ければ「いや」「お前さぁ」という言葉が返ってくる。
「今の、どう見てもホラー映画であるやつだったじゃん! 真っ先に向かうって第一の犠牲者かよ!」
「いや、今も住んでるし。こっちのアパート、壁に通風口? 換気口? なんかあるじゃん……押し入れの上も、天板動くとこあるし」
玄関の扉から外を見れば、風が強い。
だから、風が吹き込んだんだろう。
そう続ければ三人は顔を見合わせて――それから、どうしてか深く、溜息を吐いた。
「やっぱお前、心臓に毛が生えてるよ。それも剛毛」
「……えぇ……」
「分かったけど、気を付けろよ三浦」
「バイト頑張れよ」
「……うん、ありがと」
そんな三人を見送って、玄関を閉める。
その途端、深い息が落ちた。
「……お疲れ」
いつの間にか健太さんは後ろに立っていて、その笑顔に、さっきとは違う息が落ちる。
「……健太さんも、一晩すみません」
「いいよ……楽しそうだったけど、疲れてんな」
「そう、ですね……楽しかったと、なんか、同時に劣等感が、こう」
「うん?」
「……会話の端々に、あぁこの人達とは、住む世界が違ってたんだなぁ、って」
楽しかった。それは間違いがない。
けれども話題や前提条件に――どうしても、ちりちりと何かが焦げる音がした。
東京の真ん中に当たり前に住んで。
塾に当たり前に通って。
学校の終わりには買い食いをして。
自分がそれをしたかしないかで言えば、性格的にしなかっただろう。
……それでも。
休みの日に簡単に県外に行けることも。
美術館や博物館に気軽に行けることも。
……何より、進学に、学ぶことに制限がつかないのことも。
端々に浮かぶそれらが、羨ましいと、そう思った。
「恵まれてんなぁ、苦労したこともないんだろう……って思っちゃって」
「うん」
「……なんか、こんなドス黒いことを考えちゃう自分が嫌だし……思っちゃうなら、近寄らない方がいいなぁ、と自己嫌悪をですね」
そこで、苦笑を浮かべた健太さんが僕の頭を撫でた。
わしゃわしゃ、いつもより優しいそれ。
視線を上げれば、いつもより苦く笑った健太さんがいる。
「……あるよな、そういう時」
「……健太さん?」
「まぁ、思っちまうのは仕方ねぇよ……俺も、高校の学費自分で稼いでない連中に、思ったことあるし」
「え」
「俺は行けなかったからなぁ……だから、まぁ……思っちまっても、ぶつけないならいいんじゃねぇの」
苦く、掠れた声。それに言葉が出てこなくて、ただ健太さんを見上げるしかできない。
視線に気付いたのか、「変なこと言っちまったな」と健太さんは笑う。
「なぁ夏樹、バイト前に悪いんだけどよ、一つ頼んでいいか?」
「はい?」
「押し入れの天板、戻してくれねぇ?」
健太さんは申し訳なさそうに言う。言葉を理解するのに数拍、さっきのでずれたのか、と思い至る。
開いたままだった押し入れの、上の段にどうにかのぼる。
天井に開いた、四角い
「戻そうとしたんだが、下手に触ったら全部天井裏いっちまいそうでよ」
「……健太さん、天井裏は」
「無理、出れん。だもんで触れなくてなぁ」
すまん、としょんぼりした健太さんに、「お安い御用です」と返事をする。
中腰で立って、顔を突っ込んだ虚。
蓋をしていた四角い板は、天井裏にあった『箱』に引っかかって止まっていた。
「……え」
ひとかかえはある、四角い――ランドセルくらいの大きさの『箱』。
紫色の布がかかっていて、その下にある『箱』は、桐で出来ているんだ、と――見なくても、分かった。
――どうして、これが、こんなところに。
「……夏樹?」
「あ、はい」
「どうした?」
健太さんが首を傾げる。
天井裏に『箱』があります。
前の人の忘れ物でしょうか。
そんなことを言わなきゃいけないのに、頭をよぎったのは『雪女』の昔話。
その結末が喉に詰まって、言葉にならない。
誤魔化すように何度か息を吸って、吐いて。
「……僕が子供で運動神経がよかったら、多分、わくわくして登ったなぁって、思いました」
「ふは、お前でもか」
「秘密基地、欲しかったんですよ。誰にも邪魔されないで本読める場所」
「訂正、お前らしいわ」
板の端をつまんで、引っ張る。そうして上手いこと元に戻せば、隙間風が止んだ気がした。
……関東のアパートは、壁が薄いのに風が抜ける造りになっている。
寒い筈だなぁ、なんてぼんやり思いながら押し入れを降りれば、苦笑を浮かべた健太さん。
「悪いな、バイト前に」
伸びてきた手が、頭を撫でる。
冷たい、けど、確かにそこにある手。
それに、今見たものは彼に言えないと――そう、思った。
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