第6話 『地下鉄の魔女』
いつまでも私の左手は小刻みに震えていました。
温もりをわすれたように血色は失われていました。
指先は青白いまま小刻みに震えていました。
都会の街の夜に慣れない両耳に。
リャンリャンと、虫の鳴き声が響いていました。
友人の優しさに慣れない私。
友人の冷たさに慣れない私は。
今日もひとりで泣いていました。
いつまでも夢に追い付かない心の片隅に。
捨てられたように残された純心は。
大人になろうとする私の心を笑います。
大人になれない私を、都会の街の夜が笑っています。
置いて行かれた私は、先を歩く背中達に怯えていました。
いつまでも、煙草を止めない私。
私は煙草を止めた人達を、強い人達だと笑いました。
真っ白になってしまった明日は、無垢な未来でありました。
真っ白になってしまった私は。
何もない平らな荒野のようでありました。
何処までも悪戯に続く自分の心でありました。
ここに私が座って見ているものは。
数える程の年月隔てて、朽ちて土に帰るでしょうか。
ここで私が見ているものは。
私が生きて朽ちて土に帰るまで。
いつまでもその姿であり続けるでしょうか。
帰らない想いを籠に詰め、冷たい海に流したら。
この気持ちに明るい太陽が昇るでしょうか。
震える左手に。凛とした力が戻るでしょうか。
束の間。
哲夫は海のしたいようにさせていた。
だが、身体の芯から冷たい気持ちになった。
海は、哲夫の服を捲り上げた。
哲夫の肌を、愛撫しようと触れ合った。
「海……」
哲夫は、僅かに抵抗した。
海には、哲夫の声がどのように聞こえているのだろう。
「ちょっと、まってくれ……」
その声を、哲夫はなんとか絞り出した。
海は、さらに触れ合いの強さを増した。
哲夫の唇を、また、強引にふさいだ。
唇が離れると、哲夫は息を吐いた。
「聞いてくれ、海……」
「なに?」
海は、愛撫する手を休めない。
「俺は昔、姉に、レーレーに虐待された事があって……」
海の、愛撫する手が緩んだ。
「裸になって、さんざん嫌な事をされた事があって……」
海の、愛撫する手がとまった。
「女の人と、性行為が出来ないんだよ……」
重なるふたつの影が、動きを止めた。
束の間。
物音ひとつ。しなかった。
「そうなんだ……」
海が、物を放り捨てるように、そうつぶやいた。
呟いて、哲夫の身体から離れた。
哲夫は、捲り上げられた衣服を、なおした。
海は、髪の毛を弄っていた。
「あのさ、哲夫さん……」
「ちゃんと言っておくべきだった」
「そうじゃなくて、それもそうなんだけど……」
「ずっとそうなんだよ、レーレーと別々に暮らした後も」
「うん……」
「レーレーは。同性愛者で、女の人が好きなんだよ」
「そっか……」
「それを、誰にも言えずに苦しかったらしくてね。子供の頃。レーレーが自分で言ってたけど、早熟だったんだよ。学校に行く前から、その事に気が付いていたって。俺たちが小さな頃はまだ、誤魔化しがきいたって。もう少しだけ、大きくなった頃。思春期って言うの? そう言う時期になると、苦しくて苦しくて、死にたい瞬間が突然やってくるんだって。そうやって、レーレーから聞いてる。レーレーは、俺が学校に行くようになって、漫画を描くようになった頃。なんて言うのかな。俺の心の隙をつくんだよ。風呂に入る時や、寝る前の布団に入る時にさ。そういう時って、誰でも安心すると思うんだけど。レーレーはさ、そういう時を狙ってたんだよ。俺が、安心する瞬間を狙ったんだよ。そう言う瞬間に、レーレーは服を脱いで裸になるんだよ。それで俺に、性行為に似た事を無理やりさせた。絶対に性行為の最後までいかないようにしながらね。それで、その後になって、俺を口汚く俺を罵るんだ。性行為をしようとした俺を罵る時もあったし、全然違う事で罵る時もあった。下手したら朝や、その次の日まで。レーレーは俺を罵った」
哲夫はそこで。
ひとつ。
息をついた。
「レーレーは、いつ頃かそれが卑怯で許されない行為だって気が付いた。いつ頃かは、知らないけど。たぶん、働き出して一人前に金を稼ぎ始めた頃じゃないかな。俺に性行為に似た事を、無理やりさせなくなったずっと後。性行為の事や、レーレーに何の関係もない事で俺を罵っていた、ずっと後だよ。もう、成人してたと思う。俺に向かって『誰かを殺したくなったら、最初に私を殺しに来い』て、言ったんだよ。レーレーがね。俺は、その時その言葉の意味がわからなかった。しばらく後になってからだね。その言葉の意味を考えて、俺なりに理解したのは。それ以来、俺はレーレーのして来た事を、責めるつもりはないんだ。向こうが。レーレーが。罪悪感や恥を感じていたとしても、俺がそれを汲み取ってどうこう言う気はないんだ。俺が、レーレーにされた記憶を、他人にどうこうしてもらうつもりがないのと同じでね」
「そんなの、関係ない! 海は哲夫さんのお姉ちゃんの事、嫌い! レーレーなんて大嫌い!」
「レーレーが俺を、傷つけたから?」
「そうだよ! 絶対に嫌い! レーレーなんて大嫌い!」
「海がどう決めたかは、俺がどうこう言う事じゃない」
「ねえ、哲夫さん。レーレーに復讐したくないの?」
「復讐は終わった。後は、時間の問題だよ」
「人が良いんだね……」
「そうでもないよ」
哲夫は「それじゃ」と言って立ち上がった。
「俺は、エルサンの館まで戻るよ。海はどうする」
「……知らない」
「わかった、好きにしたら良いよ」
海は黙って、哲夫の手を引いた。
弱々しく、力なく。その手を引いた。
哲夫は、何も言わずに。
その手を、静かに手放した。
海も哲夫も、何も言わなかった。
ただ、夜気と冷気が。漂っていた。
哲夫は。
どこにあるかもわからな、エルサンの館に向かって歩いた。
途中で、誰かに道をきいた。
それに従って、エルサンの館に戻った。
エルサンの館は、すぐ近くにあった。
哲夫は館の扉を叩いた。
しばらくすると。
世話係の青年の声が、返って来た。
青年はすぐに「今、扉を開けます」と言って、扉を開けた。
哲夫が扉から館に入る。
青年に「どこにいらっしゃったんですか!?」と、叱られた。
哲夫は「友達と、前夜祭に参加していた」と、答えた。
「前夜祭!? それならそう言っていただければ、案内しましたよ」
「悪かった、成り行きでそうなったんだ。心配かけてしまった」
「まったく、領区長も心配なさっています」
「そうだな、エルサンは? 帰って来たと伝えてくれ」
「その必要はありませんよ」
エルサンの声だった。
「おかえりなさい、哲夫さん」
「ただいま、エルサン」
「心配しましたよ、途中で姿が見えなくなって」
「悪かったよ、友達にあったんだよ」
「友達?」
「うん、ええと。アスターリの記憶の中の、海って言う……」
「ああ! あの少女ですか! ほう、友達だったのですね!」
「さっきまではね……」
哲夫は、聴こえないくらい。
小さな声で、そう答えた。
「なにか?」
「いや、なんでもないよ。心配させてしまったみたいだ」
「そう、それなんですが。わたしの方が、うっかりしていまして」
「うん?」
「実はですね、この領区内で生活するには、区役所での手続きが必要なんです」
「役所……? 魔法使いの街にも、役所があるのか……?」
「もちろんです。それで、哲夫さんには区役所に行ってもらわなければいけなかったんですよ」
「まあ、必要ならそうするよ。明日にでも、今日はもう……」
「いえ、それがですね。今日を逃したら、一週間後になってしまうんですよ。と言うのもですね。役所の方も、祝鯨祭の準備に職員が総出しでしてね。明日から、役所が休みになってしまうんですよ」
「ええと、だから……?」
哲夫は、嫌な予感がした。
「つまりですね、今日のうちに役所に行っていただきたいんです」
「今日!? 今晩のうちにって意味か!?」
「そうです、今晩のうちです」
「俺は、もう休みたいんだけど……」
「哲夫さんには申し訳ない事をしたと思っています」
エルサンは、譲る気はないようだった。
「わかったよ、区役所だね」
「そうです、お願いします。今晩のうちにね」
哲夫は、何も言わずに頷いた。
エルサンは、後の事を世話係の青年に任せると。
自分の部屋に戻っていった。
哲夫は世話係の青年から、区役所の場所を詳しく教えてもらった。
区役所は、地下鉄に乗らないと、今晩のうちには着かないとの事だった。
「地下鉄……?」
「乗り換えなどはないので、心配はありませんよ」
「いや、魔法使いの街にも地下鉄があるのかと思ってね」
「おかしいですか?」
「アスターリに空を飛んでもらう訳にはいかないんだろうか」
「ああ、それは構いませんが。たぶん、アスターリさんはもう寝ていますよ」
「そうだろうね……」
哲夫だって、眠いのだ。
「安心してください、魔法使いの街の地下鉄はタダですよ!」
「うん、それは助かるよ」
「他に聞きたい事は? なければ、駅まで一緒にいきますよ」
「お願いするよ」
ふたりは、エルサンの館を出ると、夜道を駅まで歩いた。
地下鉄の駅に、他に人はいなかった。
ちょうど、電車がやって来る所だった。
案内してくれた青年に見送られて、哲夫は。
地下鉄に乗り込んだ。
電車の中に、誰もおらず哲夫ひとりだった。
少しだけ、不安になった。
電車に揺られながら、ふと。
さっきまでは哲夫は、海と一緒に前夜祭を楽しんでいた。
それを想い出した。
そして、やっと気が付いた。
(ああ、そうか……)
海は、六十年ぶりだと言っていた。
(海にとっては、六十年ぶりのデートだったのか……)
会ったばかりの男だったとしても。
六十年ぶりだったら。
哲夫だったら、どうしていただろう。
もしかしたら、海と同じことをしたかもしれない。
もしかしたら、海と違うことをしたかもしれない。
それはわからない。
ただ。
(悪い事したな……)
それは、はっきりとわかった。
また会えたら、その時に謝ろうか。
哲夫が、そんな事を考えていると。
電車は、区役所前に到着した。
駅のホームには、誰もいなかった。
出口の案内があったから、それに従った。
地下鉄の通路には、絵が敷き詰められていた。
コンクリートの壁や、天井や床にまで。
絵が敷き詰められていた。
どうやら、様々な各地から集められた子供たちの絵。
名前の知れていない十代の作者たちの絵。
地下鉄の通路の人工の明かり。
それが壁画の生々しい迫力を増しているように思えた。
誰ひとりいない。
哲夫はこんな場所を歩いた事がなかった。
不安が、徐々に増していった。
哲夫の足首に、何かが触れた。
ぞわっとして、身体を硬直させた。
『みらい』
蛇。
蛇だった。
蛇は、哲夫を見ていない。
哲夫を通り越して、天井を見ていた。
それに気が付いた哲夫が、上を見上げた。
そこには、ジンベエザメがいた。
「なんなんだよ、お前たち」
言葉にしても、返事はない。
蛇も、ジンベエザメも。
笑っているように見える。
それも、とても楽しそうに。
哲夫は、首をかしげて考えていた。
けれど、すぐにやめた。
「いいさ、別に。好きにしたら」
独り言のように言って、地下鉄の通路を歩きだした。
蛇と、ジンベエザメは、哲夫の周りをクルクルと。
好き勝手に。愉快そうに。空気の中を。
泳ぎ回っていた。
地下鉄の通路は、どこまでもどこまでも。
終わりがないんじゃないかと言うくらい。
ひたすらに続いていた。
一度だけ特急が通り過ぎた。
哲夫は自分が何か、間違いを起こしたのだと思った。
終わりの見えない地下鉄の通路のどこかに。
時刻表や路線図を探した。
探しても見つからなかった。
ただ『区役所前』と言う、案内は見つかった。
ここは間違いなく地下鉄の区役所前駅である事はわかった。
「ああ、やっぱりここにいた」
聴き覚えのある声がした。
けれど、違和感があった。
確かに、その声には聴き覚えがある。
だけど。
どこか、その声が虚しい物に聴こえた。
「哲夫、こっちだよ」
姉の。レーレーの声だった。
「こっちって、どっちだよ」
「こっちだよ」
蛇と、ジンベエザメが。
急いで、物陰に隠れたのがわかった。
「こっちこっち」
レーレーは、地下鉄の通路の椅子に座っていた。
レーレーの顔は、青白く血色が失われていた。
哲夫は、背中から全身に向かって、寒気がするのがわかった。
「どうしたんだよ、レーレー」
「わたし、レーレーじゃない」
「なんだよ、意味のわからない事を言うんじゃない」
「だって、レーレーじゃないもの」
「だから、なんだってこんな所にいるんだよ」
「哲夫、あなたを待っていたの」
「待ってた?」
「そう。魔法使いの街に、やって来た時からね」
「言ってる意味がわからないな」
「あなたに伝わらなくても、わたしは待っていたのよ」
「なあ、レーレー。俺はこれから区役所に行かなきゃいけないんだよ」
「そんなの、後にしなさい」
「いや、今晩のうちじゃないといけないんだ」
「だから、後にしなさい。それより、わたしに付き合いなさいよ」
「レーレー、だからさ。何でこんな所にいるんだよ?」
「わたしはレーレーじゃない」
「言っている意味がわからないんだよ。さっきから」
「そのうちに、わかるわよ。さあ、行きましょう」
そう言って、レーレーは哲夫の手を取った。
冷たかった。
冷たくて、手を握られると生きた心地がしなかった。
「すぐそこよ」
レーレーがそう言うと、椅子から立ち上がった。
そして、壁に向かって歩き出した。
地下鉄の通路の壁に丸い。
丸い丸い。大きな穴が開いた。
穴は真っ暗で深かった。
硬いコンクリートの壁に、ズブズブと姉の。
レーレーの身体が、埋まっていった。
哲夫は手を握られていた。
だからそのまま一緒に、穴の中に飲み込まれた。
声を出す暇もなかった。
地下鉄の通路の壁の中は、暗くてざらざらしていた。
身体が削られて、押し潰されてしまうようだった。
レーレーは何も感じないのだろうか。
レーレーを見ようとしても、哲夫の首は動かなかった。
引きずられて行くだけだった。
引きずられて身体が動くたびに、痛みがあった。
いつ終るのだろうか。地下通路の壁の中はとても長かった。
本当はどれくらいの時間なのか、わからなかった。
哲夫にはとても長い時間のようだった。
真っ平らな壁の中。冷たくて気持ち悪い。
耳や指先が硬いもので擦られるのが本当に嫌だった。
永遠に続くのではないかと思った。
壁を抜ける時に、目の前が真っ赤になった。
しばらく動く気になれなかった。
哲夫は、ふと。
辺りが暖かい光に照らされている事に気が付いた。
暖かな光の源を探して。
哲夫はやっとの想いで首を動かした。
そこには。
そこにはとても美しい少女の。
少女のステンドグラスが輝いていた。
束の間。
哲夫は倒れたままの姿勢で。
美しいステンドグラスの少女に、目を奪われた。
女神と言うのがいれば。
このステンドグラスに輝く、少女の事を言うのだろう。
そう想えるほど。
そのステングラスの少女は、美しかった。
「わたしの、娘だ」
哲夫は、声のした方に。鈍く顔を傾けた。
重たく、深く、暗い。
けれど、透き通るような、冷たい声。
哲夫は、辺りを見回した。
そこには、知らない女が立っていた。
背丈は、哲夫と同じくらいだろうか。
長い黒髪は、乱雑に縛られて、手入れもされていない。
ひどく血色の失った青白い顔。唇は青紫だった。
けれど、それは。
化粧による物ではない。
化粧をした事もない哲夫にも、それはわかった。
何よりも、なによりも。
女から発せられる、臭い。
腐った魚のような、穢れた臭い。
哲夫は、鼻をもぎ取りたくなった。
それくらい。女が発する臭いは、穢れていた。
「わたしは、君子」
「俺に、何の用だ……?」
「お前のような者を、ずっと待っている者だよ」
「俺……?」
「勘違いするな、別にお前でなくても構わないさ」
「じゃあ、なんで……?」
「いっただろう。わたしに必要なのはお前のような者だ」
君子は。
壁から抜け出した事で、体力を使い果たした哲夫に。
歩み寄った。
「さあ、お前の人生を。わたしに贈れ」
哲夫は、はっきりとわかった。
この女は。
君子と名乗った女は。
哲夫を嫌っている。
憎悪がある。嫌悪がある。
哲夫を害そうと言う、意識がある。
「嫌な目をするじゃないか」
君子がそう言った。
哲夫は、まだ身体が動かない。
「いいだろう、手間のかかる事だ」
君子は、そう言って、哲夫の目の前から姿を消した。
哲夫は、身体が動かないまま。
ひとり、残された。
しばらくすると、少しだけ動けるようになった。
あの、君子と名乗った女は。本当に嫌な臭いがした。
何かはわからないけれど。
関わってはいけないという事は、肌でわかった。
哲夫は最初、引きずるように身体を動かした。
動かしていると、多少は動けるようになった。
ようやく、歩けるに充分なくらい回復すると。
とにかく、この部屋から離れようと想った。
しかし、部屋には出口がなかった。
哲夫は、ふと。
そのステンドグラスの少女が、まるで生きているようだと想った。
しばらくの間、見とれていたが。
何も解決しなかった。
仕方なく何もわからないまま。部屋の中を歩き回った。
ステンドグラスが輝いている。
それ以外に何もなかった。
本当に、何もなかった。
ひとが暮らしているとは、とても思えない。
それくらいには、何もなかった。
ステンドグラスの少女は、部屋のどこから見ても。
あまりにも美しかった。
しかし、それ以外にこの部屋は。 何もない。
生活の跡がない。
ひとが生きている証のような物。
そう言う物が、決定的に欠けていた。
階段も、外に出る扉もみつからないまま。
哲夫は長い時間、部屋の中を歩いた。
「哲夫? そこにいるの?」
聞きなれた声。けれど。
どこか虚しく聞こえる声。
「入って来なさいよ、一緒にお風呂に入ろうね」
記憶の中の、レーレーの言葉。
哲夫は、呪いにかかったようになった。
その言葉に引きずられた。
部屋の隅で、レーレーが裸になってシャワーを浴びていた。
「バカだね哲夫。濡れちゃうから早く服を脱ぎなさい」
哲夫はノロノロと、自分の着ている服を脱いだ。
哲夫が裸になると、シャワーを浴びているレーレーは。
冷たく笑った。
レーレーはシャワーを止めた。
そして湯船につかった。
哲夫は交代でシャワーを浴びた。
はじめて、レーレーが一緒に風呂に入ろうと言った時。
哲夫は、どこかで嫌な気持ちになった。
レーレーは『昔みたいに、一緒に入ろう』と言っていた。
それは記憶している。
だけど。
すでにレーレーは十代の半分を過ぎていた。
そんな年齢になった姉が、弟に裸を見せる事を望むだろうか。
「哲夫、漫画はどう? すすんでる?」
哲夫は、返事をしなかった。
レーレーの瞳が、ギラギラしていた。
異様な輝きを放っていた。
「哲夫、シャワーは気持ち良い?」
哲夫は返事をしない。
「もう、哲夫ってば。恥ずかしいんだね、家族なのに」
レーレーは、そう言って。
湯船から勢いよく立ち上がった。
哲夫を背中から抱きしめた。
哲夫は、本当に嫌な気持ちになった。
心の底から。レーレーを殺してしまえ、と想った。
それは記憶している。
レーレーは、哲夫の唇に自分の唇を近づけた。
触れ合う事は、絶対にしなかった。
その後、哲夫のお腹を撫でまわした。
「哲夫、シャワーは気持ち良い?」
哲夫は、返事をしない。
そして、力も何もいれずに。
哲夫を、ゆっくりと押し倒した。
哲夫は、何も感じなかった。
レーレーは自分の太ももで、哲夫の太ももを擦った。
温度も何も感じなくなった
シャワーが。
出しっぱなしのままだった。
レーレーは、いきなり哲夫の身体から離れた。
そして、浴室に四つん這いになった。
素手で浴室のタイルの目地をこすり始めた。
タイルを剥がそうとしているのに違いなかった。
見ているだけで、絞り上げるような疲れがたまっていった。
レーレーは何も言わずに何度も何度も。
浴室のタイルに柔らかな爪をこすり付ける。
ついに一枚のタイルを剥ぎ取ってしまった。
指先も爪も、手の甲まで血で汚れていた。
その血はシャワーの水に流された。
排水溝に溶けていった。
綺麗に剥ぎ取られてしまった浴室のタイル。
レーレーの手の中で、艶々していた。
レーレーはそれを見つめていた。
手に取ったタイルを濡れた床に置いた。
タイルの長さを、指で測ったりしていた。
やがて哲夫は。嫌気してレーレーを強くにらみつけた。
見えていない筈なのに。
レーレーはわざとらしく溜息をついた。
傷だらけになってボロボロになった爪から。
血が流れていた。
レーレーは哲夫に向き直った。
血でぬれた手で、自分の柔らかな太ももを撫でた。
まるで、血で洗うかのように。
太もも。膝小僧。ふくらはぎ。くるぶし。
レーレーは、順番に。
自分の足を、自分で穢していった。
やがて、なにかが途切れるようにそれをやめた。
そして、また。浴室のタイルをこすり始めた。
「手伝ってくれないんだよね」
レーレーは哲夫のほうを見もしなかった。
地の底から這うような細い声で告げた。
哲夫はレーレーの、肩をつかんで引き起こした。
風呂場からレーレーを追い出そうとした。
「やめてよ、乱暴しないで」
さっきと全く変わらない声の細さだった。
哲夫のつかんだ手を。肩だけで威嚇した。
哲夫を拒絶したのだ。
顔も見なかった。
気持ちの悪い風呂場の湿気だけがあった。
それだけは、はっきりと記憶している。
レーレーはまだ、タイルを引き剥がそうとしている。
「手伝ってくれてもいいでしょ」
薄く引き延ばしてのっぺりした温もりのない。
レーレーの声だけが。
何度も何度も、哲夫の魂に。
注がれていった。
哲夫の記憶は。
いつも、そこで途切れている。
レーレーは、突然。
海になった。
裸の海は。
哲夫を抱きしめた。
魚が腐ったような臭いが。
哲夫の鼻をついた。
レーレーから海なったそれは、さっきまであった事を忘れたように。
グイグイと哲夫に裸を押し付けた。
唇にも。局部にも触れない。
哲夫が身動き出来ないくらい。
異常な力で哲夫を押し倒した。
哲夫の身体は、記憶になかった反応を起こした。
身体が、熱くなるのがわかった。
「手間のかかる事だ」
レーレーや海の声ではなかった。
「お前は、自分を裏切った」
君子。
君子の声だった。
突然。
哲夫は何もわからなくなった。
目も。耳も。鼻も。肌も。唇も
何も感じなくなった。
哲夫は頭や背骨や手足のさき。
身体の内側の柔らかい内臓。
脳髄の隅々にまで。
コンクリートやタイルや。
尖った鉄を。
詰められたようになった。
ほんの少しも。
身体を動かせなかった。
レーレーから海になったそれは、いつの間にか。
君子になっていた。
「この使い魔は、お前のかな? 邪魔だったから始末しておいた」
蛇。
蛇は。
潰れて、ひしゃげて。
かさかさに干からびて、潰れて茶色になっていた。
蛇を。
君子は哲夫に向かって投げつけた。
蛇。
蛇は。
もう、動かなかった。
想えば。
ずっとずっと。蛇と一緒だった。
漫画を描いていた頃か。
漫画を描けなくなった頃か。
レーレーに虐待を受けた頃か。
レーレーに虐待を受けていなかった頃か。
両親が離婚する前か。
両親が離婚する後か。
猛青年と出会った頃か。
猛青年と出会った前か。
アスターリと。
海と。
エルサンと。
誰かと出会った後だったか。
それとも。
それよりもずっと。ずっと前だったか。
哲夫は。
蛇と一緒に生きて来た。
蛇と一緒に。人生を過ごしていた。
蛇はずっとその間、哲夫の傍にいた。
哲夫が酷い目にあった時も。
哲夫に友達が出来た時も。
蛇。
蛇は。
茶色になるまで干からびて。
かさかさに潰されて、動かない。
蛇。
蛇は。
動かない
空も飛ばない。
どこかに張り付いてのんびりしない。
ヒヒヒと笑ったりしない。
哲夫の身体は。
血の巡りも神経も骨も内臓も。
完全に動きを失った。
何かに押しつぶされているようだった。
身体の中が、圧力でひしゃげているようだった。
瞼も瞳も。動かない。
干からびて潰れた蛇を。
哲夫は景色のように眺めた。
何も感じなかった。
蛇。
蛇は。
哲夫よりも。
ずっと辛い目にあったのかもしれない。
それでも何かを感じる事が出来なかった。
哲夫には痛みだけがあった。
レーレーはどうしているだろうか。
あるいは官能的な瞳で。
風呂場の綺麗に整えられたタイルを。
生爪が割れるのも構わず、一枚づつ剥がしているのだろうか。
哲夫はそう思った。
どこからか。
少年や少女の声が聞こえた。
産まれた時から、今まで。
何度も耳にした声だった。
痛みに耐える事。
誰かを痛めつける事。
何かを壊す事。
すべて一緒になった時の悲鳴。
或いは。
あるいはそれによってもたらされる。
達成感。
幸せな気持ち。
豊かさを受け取った時の気持ち。
人との触れ合いに安堵した時の気持ち。
哲夫の耳に。
硬い物が。壊れる音がした。
ジンベエザメが。
たまりかねた様に、その場から逃げだした。
壁の中に潜り込んだ。
ずぶずぶと埋まって行って、この部屋から逃げだした。
君子は。
それに気が付かなった。
君子が。哲夫の胸に手をあてる。
その手はズブズブと、哲夫の胸の中に潜り込んでいった。
そして、何か掴むと、それを乱暴に引きずり出した。
真っ赤に輝く、ステンドグラスの破片だった。
君子は、そのステンドグラスの破片を。
少女の眠るステンドグラスにかざした。
破片はステンドグラスに吸い込まれた。
束の間。
ステンドグラスで眠る少女は。
グネグネとその身体をよじった。
苦しんでいるのか。
それとも、喜んでいるのか。
ステンドグラスの少女はやがて、動きを止めた。
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