第5話 『祝鯨祭(しゅくげいさい)』
夏が来る前に明日の種を播きましょうね。
枯れる前に水やりをして悪くならないようにしましょうね。
後悔さえも糧にして。希望の杭打ちこんで。
国と大地に機能を刻み。一廻りの太陽を握りましょうね。
人魚の姫は河を下った。
あの人を冷たい牢屋に閉じ込めた。
どうせなら魔女の顔まで奪い取ってみてましょうね。
だってせっかく人になったのですもの。
あんな醜い女より私の方が幸せだものね。
愚か者と呼ばれたでしょうね。
誰にでも見初められる器量が私の証。
笛と太鼓の鳴り響く夏に着る衣装には。
蝶と月とを刺しました。それに狼と蝙蝠を従えて。
季節を凌ぐ外套は忘れられた友達の形見。
砕けてしまった小さな波が音と弾けて風に乗りました。
此処まで届くと潮の香りになりました。
亡骸に根ざした苗床に桃色の花びら。白い茎。
唇が白いのは過去を忘れて生れ変わった証拠だもの。
綺麗だなんて言わないで。
精一杯の祈りで抱いた。
海風のあたる白い壁に七つになる子供の絵を描いた。
サラサラと崩れ落ちたでしょうね。既にをくすみ洗い流した壁だから。
あの人の叱声は町の働き者を励ましているでしょうね。
思いやりごと全てを捨ててしまえば楽なのに。
抱えて歩く姿には憐憫があるでしょうね。
取替えっこした肉体を野原の水の中に映してみるの。
浅ましいのは私の証。
鍵を付け忘れてしまった家の中。
独りきりなのは辛いでしょうか。
日常は少しづつ足りないものだから。
毎日々々。肉を削いでみましょうね。
骨まで見えたら笑われるかしら。
あの人の子供が産声を上げました。
窓外の雛鳥の声は姦しかったでしょうね。
哲夫が深い、ふかい眠りから覚めると。
客室の窓の外は、夜だった。
窓から見える、領区の景色には。
ちらちらと、明かりが見えた。
ちらちらと灯る明かりは、規則正しく並んでいた。
いったい、なんの明かりだろうか。
哲夫は最初、その明かりは。通り道を照らす明かりかとおもっていた。
しかし、よくよく眺め見て、考えるに。
どうも違うようだった。
考えていても仕方がないので、ベッドから起き上がった。
哲夫は、ベッドから離れて、客室を出ようと想っていた。
エルサンか、あの世話係の青年を見つけようと想っていた。
哲夫が客室の扉に近づくと。ちょうどよく、扉を叩く音がきこえた。
「入って下さい」
哲夫がそう言うと、エルサンが扉から入って来た。
「やあ、哲夫さん。おはようございます。と言っても、もう夜ですがね」
「おはよう、エルサン」
「気分はどうですか? 具合の悪い所は?」
「ありません」
哲夫は、素直に応えた。
「そうですか、それは良かった。ちょうど、アスターリさんが、館の近くに用事で来てるんですよ。もし会いたいなら、知らせを出せばすぐに来てくれるでしょう。どうしますか、哲夫さん?」
「アスターリに、会いたいです」
「いいでしょう、知らせを出しましょう」
エルサンは、扉の外に向かって、声をかけた。
しばらくもしないうちに、世話係の青年がやってきた。
エルサンは、何かしらの用事を青年に申し付けた。
そして青年はすぐに、客室の扉から出て行った。
その様子を見届けると、エルサンは話をはじめた。
「哲夫さん。アツの領区は今、お祭りの準備をしてるんですよ。祝鯨祭(しゅくげいさい)と呼ばれる、祭りでね。アスターリさんは、丸の一カ月も、哲夫さんをここに留めおくつもりはなかったようですがね。もっと、きちんとした手順をふんでから。そのように考えていたようですが。結果的には、祝鯨祭にも、哲夫さんを誘う形になってしまいましたね」
「シュクゲイサイ?」
「そうです。祝う。鯨。祭り。と書いて、祝鯨祭。鯨の訪れを祝う祭りですね。最も、哲夫さんたちの知っている鯨ではありません。ここから南にずっとずっと下った領区内に、海岸線があります。私も何度か行った事がありますが、本当に綺麗な海岸でね。そこに虹鯨(こうげい)と呼ばれる、空を飛ぶ鯨がやってくるんですよ。その鯨は、神の使いとも、悪魔の化身とも呼ばれていますがね。まあ、どちらかであったとして、その虹鯨と呼ばれる空を飛ぶ鯨は、呪いから人を解放する力をもっているのですよ。その力を信奉して、祝鯨祭は行われるのですよ。虹鯨に会う事が出来なくても、その呪いを解放する力に、あやかろうと言う事です」
「うん?」
「ははは。まあ、いきなりそんな話をされても、困るでしょうね」
「ええ、まあ。はい」
「虹鯨は、今日からちょうど一週間のちに、海岸にやってくるとされています」
「コウゲイ?」
「そう、虹の鯨と書いて。コウゲイ」
「その、ええと。その鯨は、呪いを解放するんですか?」
「そうです。伝承にもそう伝えられているし、事実として。何人もの呪いに苦しむ人間たちが、虹鯨の訪れによって、それから解放された記録が残っています。かく言う私も、呪いに苦しむ知人が、虹鯨に触れる事で、その呪いの苦しみから解放されたのを、この目で確かめた事があります。ただし、虹鯨に触れる事ができる者は、呪いから解放される事を選んだ者だけです。虹鯨の持っている力は、基本的には我々の使う魔法と同じ原理とされていますからね」
「呪い……魔法……」
「詳しくは、アスターリさんが説明してくれるでしょう。哲夫さん」
「うん、はい……」
「あなたは、その虹鯨に出会い、触れる事が必要なようですね」
哲夫は、なんとなく。
物事の順序を飲み込んだ。
アスターリは、確か。
こう言っていた。
『あなたの中の呪いを、払うべきだと思っています』
アスターリは、哲夫の中の呪いを。
解放したいのだ。
哲夫自身が、もう。
どうにもならないと想っていた事。
おそらくは。
それを、解放するべきだと。
アスターリは言っていたのだ。
「俺は、アスターリが言うに。呪いを抱えているみたいです」
「聞き及んでいます」
「その、虹鯨ですか? それに会う事で。触れる事で、呪いから解放されると?」
「そうです。古くからの伝承も、私自身の経験も、それを約束できます」
「うん……」
哲夫は、しばし。
考え事に時間を費やした。
「エルサンと、アスターリが言うなら。それは本当なんでしょうね」
「そう受け止めてもらって構いません」
哲夫は、大きく息を吸って、吐いた。
「俺も、お祭りに参加したいのですが」
「もちろんです! 歓迎します!」
エルサンが、髭を揺らしながら。
真面目な顔で、そうやって応えた。
そして哲夫は、エルサンに連れられて、客室の部屋を出た。
ふたりは、館の玄関前の部屋までやって来た。
そこには、あの世話係の青年に連れられたアスターリがいた。
アスターリと哲夫は、目を合わせた。
哲夫は、自分が安心している事を悟った。
「哲夫、無理をさせてしまいました」
「うん、いや。いいんだ」
「なんの説明もなく、哲夫を危険な目にあわせてしまった」
「いいんだよ、アスターリ」
「良くはありません、私が軽率だったのです」
「アスターリ、もう過ぎた事だよ」
その言葉がアスターリの耳に届いた時。
アスターリは、しばらく言葉を紡げなかった。
「俺はさ、アスターリ。記憶の中で、新しい友達と出会った。海と言う名前だった。ちょっと話しただけで、抱きしめられちゃった。驚いたよ」
「はい、私の友人でもあります」
「海は、いつか、俺やアスターリにお礼がしたいと言っていたよ」
「わかっています」
「そうか、それなら話は早いや」
アスターリと哲夫が、ふたりだけにわかる会話をしていると。
エルサンが口を挟んできた。
「ふたりとも、話が尽きないようですが。祝鯨祭の準備にはいかないのですか?」
哲夫は「いや、行くよ」と、応えた。
アスターリは「もう少し、話をしたい」と、応えた。
「まあ、いいでしょう。とりあえず、外へでましょう。人手はいくらあってもたりませんからね」
エルサンがそう言って、祭りの準備へとふたりを促した。
館の世話係の青年を残して、さんにんは館の外へと足を運んだ。
世話係の青年が「お気をつけて」と言った。
外へ出ると、既に空気は華やいでいた。
祭りの準備と言うけれど。
既に祭りの空気が漂っていた。
「祝鯨祭と言うのは、にぎやかな祭りなんですね」
「ほう! どうして、そう想いますか? 哲夫さん」
「なんとなくです。祭りの準備でこれだけ華やかな空気なんだから」
「全く、その通り! 祝鯨祭はほんとうににぎやかで楽しいですよ!」
さんにんは、ぽつぽつと明かりの灯る道を、どこかに向かって歩いた。
そうしていると、アスターリが。
ふと、哲夫に話しかけた。
「ところで哲夫。タケルの事なんですが」
「猛? 猛がどうかしましたか?」
哲夫は突然、猛青年との約束をすっぽかした事を、想い出した。
一カ月も寝ていたというのだから、猛青年は心配しているかもしれない。
その事を、ようやく想い出した。
「心配しないでください。タケルに何かあった訳ではありません。一カ月前に、哲夫をここに連れてきてから、なんどかタケルにも会いに行きました。最初は、私の言う事を疑っていたようですが。哲夫の事を詳しく話をしているうちに、信じてくれたようです。タケルも時間に都合をつけて、祝鯨祭に間に合わせると言っていました」
「ああ、そう言う事か。じゃあ、猛に会えるんだね」
「そのように、話をしてきました」
「ありがとう、助かるよ。アスターリ」
「いえ、礼を言われるような事ではありません。哲夫の友達は、私の友達です」
「そうか、そうなんだな」
ふたりの会話に区切りがついた事を見て取ったエルサンが、こう言った。
「さあ、ふたりとも。祝鯨祭の準備ですよ。なにしろ、人手が足りなくてね」
エルサンに促されて、ふたりは祭りの準備に参加した。
哲夫は、仕事を辞めてから長い間。
こんなにたくさんの人たちに触れ合う事がなかった。
祭りの準備の時の、これから始まる事への高揚感。
それを、みんなが共有している事への、不思議な連帯感。
祭りの時の、普段にはない匂いや音。景色。
そう言った事が、哲夫を刺激した。
楽しかった。
このまま、ずっとこうしていたい。
そんな事を、想うくらいには。
とてもとても。
楽しい時間だった。
哲夫は祭りの準備を楽しんでいた。
ほんとうに、心のそこから。
楽しかった。
けれど。ふと、気が付くと。
エルサンとアスターリがいなかった。
哲夫は、少し。心細くなった。
祭りの準備で、人々は忙しくしていたけれど。
その誰とも、哲夫は関係なかった。
少しの間、呆然として立ちすくんでしまう。
「おい、邪魔だ! そこをどいてくれ!」
祭りの準備で忙しくしていた、名も知らぬ大男に。
怒鳴りつけられた。
哲夫は心細いまま。その場を離れた。
突然、何をしてよいかわからなくなる。
ぽつぽつと明かりの灯る夜道を、意味もなく歩いた。
エルサンとアスターリを探した。
しかし、夜道はどこまで行っても、夜道だった。
哲夫は、急激に不安になった。
エルサンの館に帰りたくなった。
館には、世話係の青年がいるはずだから。
あの豪華な客室のベッドが、たまらなく恋しくなった。
そうだ、そうしよう。
エルサンの館に帰って、ゆっくりしよう。
哲夫は、祭りの準備をしている誰かに。
エルサンの館の場所を訪ねようと。そうしようとした。
その時だった。
「哲夫さん」
柔らかく、小さな声だった。
女性の声だった。
最初は、何かの聞き間違えか。ともおもった。
「哲夫さん、こっちだよ。どこを観てるの?」
哲夫が、その声の主を探して、辺りを見回した。
「海」
そこには。
記憶の中で出会った少女が立っていた。
「こんばんは、哲夫さん」
赤い宝石の着いた、ブローチが。
夜の闇に輝いていた。
「どうしたんだよ? こんなところで」
「うん、海はね。このブローチがあれば、魔法使いの住むような街なら、生きてる人間と同じように出来るんだ。それでね、哲夫さん。わたし、アスターリや哲夫さんに会いたくなっちゃった。哲夫さんは久しぶりに話し相手だから。なんだか、話がしたくなっちゃったの。それでね、海はアスターリや哲夫さんを探してたんだよね。そしたら、哲夫さんを見つけたの」
「うん、そうだったんだ」
「哲夫さん、ちょっとの間。一緒にお話しない?」
「いいよ」
「よかった、ありがとう!」
「それは良いよ。だけど、話をするって言っても、みんな忙しくしてるし」
「それなら大丈夫。祭りの準備をする人たちが、食事をする場所があるの」
「うん?」
「休憩する場所があるから、そこに行こう!」
「そうか、そう言う場所があるなら。そうしようか」
「うん、こっちこっち」
海は、無邪気に哲夫の手を引いた。
哲夫は、手を引かれるまま。
明かりの灯る夜の道を、歩いて行った。
「あの時は、ごめんね。哲夫さん」
「あの時?」
「アスターリが造った記憶の中で、哲夫さんに無理させちゃったみたいだから」
「ああ、あれか」
「あの時、海はなんにも考えてなかったの。ごめんね」
「俺だってそうだよ。たいした事なんて考えてなかったさ」
「ううん、違うの。海は魔法使いなんだから、慎重じゃなきゃいけなかったの」
「いいよ、いいんだよ。海もアスターリも、責めたりするつもりはないよ」
「哲夫さんは、人が良いんだね」
「そうかな」
「そうだよ」
哲夫は『人が良い』という言葉が、少しだけ。
気に障った。
けれど、すぐに忘れた。
「ほら、あそこ。あそこのテントが休憩所だよ」
「でかいテントだな」
「そうなの。大きな休憩所でしょ」
「あんなでかいテント。使う人間がそんなにいるの?」
「うん。アツの領区のほとんどの人が、お祭りの準備に来てるからね」
「アツのリョウク……?」
哲夫は、前にもその言葉を聴いた気がした。
「哲夫さんは気にしないで良いよ。今はまだね」
「そうか、海が言うなら。そうなんだろうね」
海と哲夫が、とりとめもない事を話していると。
休憩所の大きなテントに、たどりついた。
大きなテントの中は。人で溢れかえっていた。
祭りの準備の為に、集まった人々なのだろう。
活気と熱気が、大きなテントの中に満ち足りていた。
海は哲夫の手を引いて、なんとか空いている席を見つけた。
ふたりは、そこに座ったのだった。
席に着くなりに、海は片手をあげて元気な声でこう言った。
「食事と飲み物、お願いします! ふたりです!」
哲夫は、その様子を見て驚いた。
「おい、俺は金なんて持ってないよ」
「大丈夫。お祭りの準備をする人たちは、タダだから」
「ええ!?」
「そんなに驚かなくて良いよ。魔法使いの住む街にでは、よくある事なの」
「そんなもんなのかい?」
「そうそう、だから遠慮しないでいいよ。哲夫さん」
「うん、まあ。それなら、遠慮なく」
「忙しいみたいだから、料理が来るのは遅いかもしれないね」
休憩所の大きなテントの中は。
人々の喧騒や、活気や熱気で溢れかえっていた。
「料理が遅いくらい、別にいいよ。タダなんだし、贅沢はいえないさ」
「あはは、贅沢なんて言ってないよ」
「うん、まあ。そうか」
「それでね、哲夫さん。海はアスターリの造った記憶の中だけで、ずっと生きて来たから、話し相手がいなかったの。ほんとう、つまらなかったな。だからね、どうしても、哲夫さんと話がしたくなっちゃったの。ブローチも戻って来て、こうやって生きてる人間と同じように話せるようになった事だしね。海はね、昔、おかあさんから貰った指輪がね。本当に大事だったの。それでね……」
海は。
まるでそうでもしないと、死んでしまう。
そうおもえるほど、とめどなく話し続けた。
同じ話。
似たような話。
関係のない話。
そんな話を、ただただ。
ひたすらに、しゃべり続けた。
料理と飲み物が来てからも。
食べながら、話し続けた。
飲みながら、しゃべり続けた。
祭りの準備なんか、まるで関係ないかのように。
ただただ。
哲夫を相手にして。
どこまでも、どこまでも。
朗らかに、陽だまりのように、楽しそうに。
話し続けるのだった。
いつの間にか。
海と哲夫は、酒を飲んでいた。
海は、まだ少女だった事を。
哲夫は咎めたような気がしたが。
なんだか、言いくるめられて、酒を飲んでいた。
「ああ、よくしゃべったな」
「しゃべり過ぎだよ、海。喉とか痛くないか?」
「全然平気だよ。このまま、朝までしゃべれるよ!」
そう言って、海は。
目の前の酒を飲みほして、片手をあげた。
また、酒を頼んだ。
「飲み過ぎじゃないか?」
「いいのいいの。なんだって、何十年ぶりのお酒だもん!」
「うん、まあ。そうか」
「哲夫さんも飲んで!」
「わかった、わかったよ」
「ああ、そうだ。あの子は?」
「あの子?」
「哲夫さんの使い魔。蛇の使い魔」
「ああ、そう言えば」
「どこにいっちゃったの?」
「いや、わからない」
「ねぇ、哲夫さんはこのまま魔法使いになるの?」
「うん?」
「だからさ、魔法使いになるの?」
「いや、わからない……」
「え、そうなの?」
「俺は、アスターリに連れられた来ただけで。魔法使いとか、祭りとか。まだ何もわかってないんだよ」
「あはは、海だってそうだよ」
「そんな事はないだろう。海は、俺よりも長く生きてるんだから」
「年齢なんて関係ないよ。あのね、哲夫さん」
「うん」
「魔法使いたちの間で、古くから伝わる言葉あるの。本当に賢い人間は、自分が何も知らない事を知っている。哲夫さんは、それを知ってると思う」
束の間。
海は、真面目な顔になった。
「いや、そう言われても。よくわかってない事は、よくわからないんだよ」
「そうかな」
「そりゃそうさ」
「うん、そりゃそうだね」
そう言って海は。
新しく運ばれた酒を、一気に飲み干した。
海は「ああ! 美味しい!」とどこまでも底が抜けるように、言った。
「本当に、朝まで飲み続けるつもりなんだな」
「そうだよ! 付き合ってよ! 哲夫さん!」
「無理だよ」
「そんな、薄情だ!」
その時になって、哲夫は気が付いた。
海は、本来なら身体がないのだ。
身体がないのだから、酒で酩酊する事もない。
まして、眠る必要などないのだろう。
「あのさ、今気が付いたんだけど」
「どうしたの?」
「俺は、海と違って。生身なんだよ」
「知ってるよ!」
「酒に酔っ払って、気絶する事もあれば、眠くて眠くて仕方ないこともあるんだよ」
束の間。
海はキョロキョロと瞳を動かした。
「ああ! そうか! ごめんね!」
「いや、良いんだ」
「良くないよ! もう、哲夫さんは寝なきゃいけないんだったね!」
「まあ、そうだね。うん」
「ごめんね。本当に何十年ぶりだったから、気が付かなかったね」
「海は便利だね。疲れる事も眠る事もないんだから」
「そうでもないよ」
「うん」
束の間。
ふたりはとりとめない話をして。
ようやく、休憩所の大きなテントの席を離れた。
その時になっても、まだ。
大きなテントの中には、活気や熱気が渦巻いていた。
哲夫は、そこから離れた時。
ほんの少しだけ。
寂しいような、そんな気持ちになった。
海は、無邪気に哲夫の手を引いた。
海に案内されるまま、哲夫はエルサンの館へと向かった。
夜の道は、見通しがきかない。
「近道しよう」
海がそう言うので、哲夫は「うん」と応えた。
哲夫はそれが近道なのか、遠回りなのかもわからない。
ただ、ちょっと不安になった。
ぽつぽつと灯る明かりから、離れていくような気がしたからだ。
「こっちでいいのか、海?」
「うん、こっちが近道だよ」
言われるまま。
手を引かれるまま。
哲夫は、夜の道を歩いた。
やはり、道しるべのように灯っていた明かりから。
離れていった。
すると、大きなテントが見えてきた。
「あれ? なあ海。あれはさっきの休憩所じゃないか?」
「ううん、違うよ。あれは別のテント」
「そうなのか?」
「お祭りだからね、似たようなテントだけど。あれは違うよ」
「なあ、海。ほんとうにこっちで良いのか?」
「間違ってないよ、だけど。あのテントは気になるね。前はあんなのなかったんだけど。お祭りの時のテントの場所は、決められてる筈なんだけどね。前に来たときは、あんなのなかったんだけど」
「前って、いつの話だよ」
「ええと、六十年前くらい?」
「そんな昔の話なのか!? 本当にこの道でよいのか?」
「それは大丈夫。エルサンの館の場所は六十年前と変わってないよ」
「そうか、それなら……」
哲夫が、何か言いかけると、ドスンと。
何者か、背中にぶつかって来た。
「なんだ!?」
海と哲夫は、夜の道を手を繋いでいた。
だから、束の間。
夜の中で混乱した。
繋いでいた手が、離れた。
哲夫は、よりどころを失くした。
「どうした!? 哲夫さん!」
「ええと、ちょっと」
「あい、すいましぇん。おふたりさん」
聞きなれない声がした。
「夜の道で、わかりやせんでした。あい、すいましぇん」
男の声だ。
「なんだよ!? 海、どこにいる! 何があった!?」
「哲夫さん、落ち着いて。海は、ここにいるから!」
「おふたりさん、慌てないでくだっせ。すいましぇん、あっしのせいです」
哲夫は、聞きなれない声の正体がわからなかった。
けれど。
なぜか、少し落ち着いた。
声の正体は、わからないけれど。
悪い奴ではないと、わかったからだ。
哲夫は、夜の道のなかで。大きく息を吸って、吐いた。
すると、誰かが、哲夫の手を引いた。
その手が、海の手だという事は、すぐに理解できた。
「今、灯りをつけま。ちょっと、動かないでくりゃんせ」
聞きなれない声の主が、そう言った。
束の間。沈黙があった。
そのすぐ後。
辺り一面。
暖かな光に包まれた。
哲夫は、光の広がる夜の道を見回した。
すると、小太りで髭を生やした男が。
ランタンを灯しているのが、目に入った。
哲夫と手を繋いでいる、海が。
目に入った。
「これで、よく見えま」
小太りで髭を生やした男は。
愛嬌のある顔で、笑った。
「大丈夫でしゅか? おふたりさん?」
哲夫が言い淀んでいると、海が応えた。
「大丈夫ですよ、怪我もないしね」
「あい、すいましぇん。誰もいないとおもっていまして」
「灯りがあるなら、最初から使いなよ」
「あい、すいましぇん」
「ねぇ、道を聞きたいんだけど。エルサンの館はこっちでよいんだよね?」
「あい。ここは領区長様の館に続く道でさ」
「よかった! 間違ってなかったんだ!」
「おふたりさん。祝鯨祭は、初めてで?」
「ううん。海はもう、何回も参加してる」
「そうだよ、初めてだよ」
海と哲夫が。
バラバラな返事をしたものだから。
小太りで髭を生やした男は。
カハハと、笑った。
「あっしは祭りに呼ばれた楽団の小間使いでさ」
「楽団?」
海が聞き返した。
「へえ、そうで。今から、祭りの前夜祭がありやしてね」
「ゼンヤサイ……?」
今度は、哲夫が聞き返した。
「おふたりさん、前夜祭に参加するんで?」
「ううん、知らない」
「それには呼ばれてないな」
「そうなんで?」
「海は、エルサンの館に帰る所なの。哲夫さんと一緒に」
「いやあ、ここで出会ったのもなにかの縁でさ。前夜祭に参加しちゃあどうで?」
海と哲夫は、互いの目を見合わせた。
「ああ、もちろん。嫌だったら、遠慮なく言ってくだんせ」
「嫌じゃないよ。海は興味あるよ。面白そう」
「いいよ、参加してみよう。どうせ、館に戻っても用事がある訳じゃない」
「へえ。よござんす、案内いたしま」
小太りで髭を生やした男は。
カハハと、もう一度。笑った。
「案内いたしやす。と言っても、すぐそこでござんす」
小太りで髭を生やした男は。
ランタンで、さっきのテントを指し示した。
さんにんがテントまでやって来ると。
テントの入り口に、受付の係がいた。
「前夜祭の参加をご希望ですか?」
と、聞いていた。
「へえ」
と、小太りで髭を生やした男が言った。
「テントの中での飲み食いはタダでさ。ごゆっくりどうぞ」
受付に促されて、ふたりはテントの中へと入っていった。
小太りで髭を生やした男とは、そこで別れた。
鯨の訪れを祝う。
呪いから解放される夜を祝う。
長く深い夜が、はじまろうとしていた。
最初はまばらだったテントの中は
いつの間にか、人々でいっぱいになっていた。
あまりにも人が多かった。
海と哲夫の肩がぶつかるくらいには、人でいっぱいだった。
テントに人が入りきらなくなった頃合い。
哲夫は海に、肘で小突かれた。
人々の間で、食べ物や飲み物が回されていた。
哲夫はそれを、ふたりぶん受けった。
見知らぬ隣の誰かに手渡した。
見知らぬ隣の誰かは、哲夫に向かってささやいた。
「熱いですね、もうすぐはじまるみたいですよ」
テントの外は、すでにまっくらであろう。深夜だ。
きっと、星々が煌めき輝いている。
テントの中央に造られた舞台の上に、ひとりの女性があらわれた。
虹の鯨を迎える巫女の演舞が、今まさに始まろうとしていた。
テントの中が、魔法の光で美しく青く輝いた。
青く輝いた舞台の上で、ひとりの踊り子が巫女に見立てられた。
虹の鯨の訪れを祈り。ただ一心に舞っていた。
見た事もない、艶やかな衣装を緩やかに身体に纏っている。
唇にはうっすらと青く滑らかな化粧がひかれている。
巫女に見立てられた踊り子の赤い髪は。身に纏う衣装と同じく緩やかだ。
その衣装はひとつの生き物のように天幕の熱気に煽られている。
海の流れをあらわして、流れるように揺れていた。
巫女に見立てられた踊り子の額に添えられた細かな銀の飾り。
それは、虹の鯨を迎える巫女の証しか。
太鼓と笛と絃が鳴り、舞台の上の扇情をさらに掻き立てていた。
漆黒の瞳を縁取る、青い円(まどか)。
それが虹彩を彩り、さらに扇情を煽る。
その瞳が、微かに狂気を孕んでいる。
束の間。
哲夫の瞳と、視線が交わる。
それは、哲夫の気のせいだったろうか。
巫女に見立てられた踊り子の唇の端が。
白く柔らかな頬にきれあがる。
巫女に見立てられた踊り子が、一枚の衣装を脱いだ。
衣装は舞台の上に舞う。
それは、さらに深い海の底か。
或いは、深く青い空の上をか。
美しく自然の姿をあらわしていた。
巫女に見立てられた踊り子の、肩と腕が顕わになった。
その細くしなやかな腕は、炎に向かって伸ばされた。
青い化粧が施された、爪の先が、青い光に照らされて煌めいていた。
テントの中で響く曲が。
テントに集まった人々の五感を釘付けにした。
やがて、巫女に見立てたらた踊り子の曲目が終わると。
静かになった。
舞台を注目していた人々は静まり返っていた。
頃合を見て笛の奏者が低音から吹き始めるた。
それが次の演舞に変わる最初の伴奏になった。
巫女に見立てられた踊り子はテントの舞台に再びあらわれた。
静かに激しく湧きたつ様に身を震わせている。
あわせて動く爪も赤い髪も青い口紅も。
その全てが大海の大波をあらわし、揺れていた。
哲夫は、テントの中の熱気にあてられた。
少し、頭が重かった。目の奥が、ズキッと痛んだ。
海に耳打ちして、ふたりは人々の間を抜けて、テントを出た。
「なあ、海。ちょっと、飲み過ぎた。この近くで休まないか」
「そうだね、うん……」
海が哲夫の手を引き、ふたりはテントを後にした。
海が哲夫の手を引く、その力が少し強かった。
けれど、哲夫はその事に気が付かなかった。
ふたりは、短い草の生えた平らな地面を探しだした。
そして、そこに腰を下ろした。
「すごかったな、あの踊り子さん」
「うん……」
「前夜祭って言ってたけど」
「うん、うん……」
「あれは、魔法使いの間では、普段通り……」
哲夫が何かを言おうとすると、何かに唇をふさがれた。
とても強引に、短い草の上に。押し倒された。
海と哲夫を。夜気と冷気が包んでいた。
哲夫は、押し倒してきたのが。
海だとわかった。
大きなどよめき。歓声や感嘆が。
テントの方から聞こえてきた。
哲夫の耳には。
それは、あまりにも遠い現実だった。
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