第4話 『蛇』
土が崩れた。大地は崩れ踏みしめれば膝がわらう。
胸とこころの奥にまで。刻み込まれた振り返る古い道のりがあった。
尊ぶべき者がこころの中に見当たらない。神様と呼ぼう。
誰も居ない。一人も居ない。
啼き叫ぶ。 寂しい寂しい、辛い辛い。
もうすぐ雨の季節が終わる頃でした。
蒸した曇りの空でした。
裸で駆ける。波の上。片想いの心の痛み。
夏の朝日も、季節はずれの冷たい風もわたしに遠い。
過ぎ去ってしまった、春の夢の温もりも。
訪れる暑い、夢の煌きも。
抱いた夢を手放せば、それは孵らない。
春が過ぎた頃には別れた恋人を想います。
今はまだ儚い夢を待つしかありません。
肌を照らす夏が過ぎるまで。
白い高い空の季節を想起する。
あなたには会えない人恋しさを求め合う。
溜息を吐いたりして。
数え切れないなら忘れてしまうよう。
解りあえない記憶に切り刻まれる。
もうすぐ道の半ばまで。
暑い日々が続く前。わたし春を思い出す。
その時どこにいたのだろう。
あの時なにをしていただろう。
心の隙間に這入り込む。
隙間の中に這入り込む。
丘の上で遊んだりした。
鬼と呼ばれて追いかけた。
其処にも此処にも彼処にも。
確か暗がりがあった。
追いかけられて遊んだ。
山に登って駆けたりして。
通り過ぎてゆく雲を追う。
晴れやかな雲の隙間から。
神様と悪魔。
太陽と月。
風と海。
雲が流れ。流れていくよ。
問いかける。何時も。何時も。
水の香りの交わる道に。
過ぎた記憶を想起する。
視界の端で雲の陰が盆地を割った。
向こう側まで行けるでしょうか。
大した事でもない筈なのに。
何時もいつも笑っているものだから。
伝えたい事や言いたい事が、沢山あって。
私が伝えた。あの人に。
今でも振り返れば幼い後悔がありました。
それでも確かに覚えています。
夏に吹く風が、季節外れの冷たい風が気持ちよかった。
どこかで、雨が降っているのでしょうか。
みあげれば番(つがい)の鴉に一羽が寄せた。
晴れ渡る空と雲に吹き、重なって羽ばたいた。
あの丘陵に辿り着く。
いつか 雨が通り過ぎると、土に溜まった水に晴れた雲と空。
番の鴉に一羽が寄せた。
カア。カア。カア。と啼いたりして。
どこからか。
闇の中なのか。
それよりも、深い場所からか。
声が聞こえた。
『やりすぎです』
『わかってる。申し訳ない事をした』
『我々は、何百年もの間。用心深く過ごしてきた』
『わかってます』
『それを、こんな。こんな些細な事で。失う訳にはいかないのですよ』
『充分に、承知している』
『とてもそうは思えませんがね』
『この結果の責任は、わたしが全て負います』
『責任と言うのは、背負える物の事を言うんですよ。アスターリさん』
『わかっている』
『とても、そうは思えませんがね。この青年が目を覚ました時。何を言い出すか』
『それは心配ありません』
『アスターリさん。我々はね。何百年も、何千年も用心深く過ごしていて……』
『わかっている、わかっているよ』
『まあ、良いでしょう。領区長として、この青年の領区内への生活を認めます』
『すまない。本当にすまない』
『謝罪するべき事が、違うんじゃないですか? アスターリさん』
『私は、わたしの意志に従って、謝罪するべきを謝罪するだけです』
『ふうん、そうですか』
『責任は感じている』
『わかりました。しばらくは様子を見る事になるでしょう』
『私も、そうするべきと思います』
『いいでしょう。まずは客間のベッドのシーツを変えなくてはね……』
どこからか。
そんな会話が聞こえた。
ひとりはアスターリだという事はわかった。
もうひとりは。
誰だろうか。
よくわからない。
ほんの僅かな時間。
心の病の事。
猛青年の事。
レーレーの事。
記憶の中で出会った、海と言う少女。
そしてアスターリの事を、想いうかべた。
本来なら。
猛青年と、会う約束だった。
今は。
何もない、暗闇の中にいた。
風の音だけがあった。
風の音は、時々。
赤ん坊の声や。
男の人の笑い声にきこえた。
そこに灯りが産まれた。
小さくて、今にも風に消えてしまいそうな。
ちらちらと燃える火。
目を凝らして見ると、それは火ではなく炎だった。
燃え盛っていた。
何かを焼き尽くすように。
激しく燃え盛っていた。
最初。
その炎は、哲夫を焼こうとしているのかと想っていた。
炎に焼かれてしまうのも悪くないとおもえた。
身体の四肢から、高温の炎が灯り。
焼き殺されてしまうのも悪くないと思えた。
暗くて何もない場所。
風の音だけが聴こえる場所で、灯っていた炎は。
徐々に明るく、大きくなった。
暗くて何もない場所を、照らした。
照らされると蛇がいる事がわかった。
あの炎が焼こうとしているのは。
蛇だという事がわかった。
炎は蛇を焼こうとしているのだ。
でも蛇は。あまりにも、涼しい顔をしている。
それに負けるかのように。
炎は時々、勢いをなくして小さくなるのだ。
「もうすぐ街が消えるよう」
蛇の声だった。
哲夫に話しかけているのだろうか。
それとも独り言なのか。
それはわからなかった。
何しろ蛇は。焼かれながら、生きているのである。
身を焦がされながら。
なんでもない顔をしているのである。
炎に照らされた暗闇。
風の音だけが聴こえる。
何にもない場所。
そこには蛇の声の響きだけがあった。
「もうすぐ、身体中が腐って汚い蟲に喰われた真っ黒い腹を空かした大きな魚がやってきて、お前を喰うんだよう。街を喰うんだよう。大地を喰うんだよう。海も泉も飲み干すんだよう。空の青さも雲も、全てのみ込むんだよう」
蛇が声を出すと。
蛇を焼く炎が激しく盛った。
蛇の声が、哲夫の脳の奥にまで。
刺すようで嫌だった。
蛇を焼いている炎に触れて、自分も燃えて。
消えてしまいたい。
そんな気持ちを抑えられなかった。
蛇を焼いている炎に向かって、腕を伸ばした。
うまくいかなかった。
腕は伸ばせるのだけど。
届かなかった。
何かでつっかえがされているようだった。
あの炎があれば、身体が自由になれると思った。
炎が蛇を焼き尽くしてしまえば、哲夫は自由になれると思った。
だから。
届かないのに、炎に向かって。
必死で手を伸ばした。
それでも、身体は動かなかった。
身体を動かそうとすると、締め上げられる様な痛みを覚えた。
腕だけは自由だったから、余計に必死だった。
やがて、哲夫は。
蛇を焼く炎に、手を伸ばす事をやめた。
身体を動かす事をやめた。
瞼が重かった。
強烈な眠気があった。
少しでも動こうとすると、痛みを覚えた。
痛みと眠気が、交互に反復した。
哲夫の身体を、その反復が蝕んだ。
虚しく空気を掻くように手を動かした。
辛いだけだった。
身体の奥底から冷えていくようだった。
身体の芯に、冷たい氷を詰められているようだった。
目の前には、あんなにも炎が燃え盛っているというのに。
哲夫の身体は、氷のように冷たくなっていった。
切り刻むような冷たさが。
身体の中で。
ゴロッ、ゴロンと。
動いているようだった。
氷の塊が身体の奥で動くたび。
哲夫は生きる力を失った。
手足も痺れて来た。
顎も瞼も。動かすのに億劫だった。
身体が痙攣していた。
眠く、重たい瞼を開いてみれば。
鈍い視界の先に、震える左手が目に入った。
左手は真っ青で血の気がなかった。
ぽつん、ぽつんと。
青や黄色や白の斑点が出ていた。
指の先にも血の気もなかった。
死者のようだった。
哲夫は、自分の身体が。
自分の物ではないような錯覚に襲われた。
「よく見ておくんだよう」
耳元で蛇の呼吸や鼓動が聴こえた。
死者のように凍える左手では。
もう、感覚すらない右手では。
耳を塞ぐ事も出来なかった。
「お前もそのうちこうなるだろうよう」
刺すような。
蛇の嫌な声だけが響いた。
風の音に紛れて。
その声は哲夫を刺した。
重たい眠気と、倦怠。
それを何とか逃れて、蛇を探す為に。
哲夫は、頭と目玉を動かした。
ぎょろぎょろとした大きな蛇の。
蛇の目玉が。
哲夫の視線をとらえた。
そうしたら。
もう、そこから目が離せなかった。
哲夫の視界のすべてを埋めた。
蛇の瞳だ。
蛇の瞳の奥に。
見た事もない景色が写る。
蛇の視界の奥に、とても小さな人間たちが動いていた。
もぞもぞと。
或いは。
気味が悪いと形容しても良いような。
小さな、ちいさな塊が。
蛇の瞳の奥で蠢いていた。
『みらい』
蛇が、大きな声を出して叫んだ
突如として。
さっきまでは見えなかった筈の。
哲夫と同じくらいの大きさの人間たちが。
炎に照らされた暗闇に。
風の音だけが聴こえる暗闇に。
何にもない筈の暗闇。
群れを成した。
ひとりひとりは、茫洋としていた。
顔もうまくわからない。
掴みどころがなかった。
哲夫と同じくらいの大きさの人間たちが。
一斉に同じ方向に向かって、走ったり歩いたりしだした。
いや。
哲夫がそれを知る前から。
ずっとそうしていたのかも知れない。
皆、一様に。
高い所を目指しているようだった。
高い所を目指して。
歩いたり、走ったり。
或いは、さぼったり、立ち止まったりしていた。
その様子は、様々だったけれど。
皆、一様に。
高い所を目指しているようだった。
哲夫と同じくらいの大きさを持った人間たちは。
どこか、楽しげだった。
けれど。
どこか、哀しげだった。
高い場所を目指しているというよりも。
むしろ。
高い場所に追いやられているようだった。
哲夫と同じくらいの大きさを持った人間たちは。
皆、一様に豊かな感情を表していた。
顔もよくわからないのに。
喜んだり、怒ったり、笑ったり、悲しんだり。
そんな事を、ほんの束の間に。
何十回も、何百回も。
或いは。何千回も、何万回も。
繰り返していた。
なのに。
それは均されていた。
きっちりと。
お互いの領分を出ないまま。
自分の領界の中で。
誰かを攻撃したり、攻撃されたりしたとしても。
哲夫と同じくらいの大きさを持った人間たちは。
絶対に、その領分も領界も侵犯する事はなかった。
それはまるで。
お互いが、言葉にならない領域で手を握り合って。
ない筈の約束を護っているかのようだった。
よくよく眺めるに。
哲夫と同じくらいの大きさを持った人間たちは。
毎日々々、お祭りのような事をしていた。
争いや諍いが絶えないにして。
それでも、暖かい光に包まれていた。
蛇。
蛇が。
蛇の瞳が。
蛇の瞳の中の。
とても小さな人間たちは。
その様子を、ただ。
じっと、黙ってみていた。
蛇の瞳の奥に追いやられた。
とても小さな人間たちは。
ずっと、ずっと。
誰も見えないような。
奥の方へ、奥の方へと追いやられていた。
そこには、冷たくて硬くて、尖った物が捨てられていた。
とても小さな人間たちが、動こうとすると。
冷たくて硬くて、尖った物に刺さって悲鳴をあげた。
哲夫と同じくらいの大きさを持った人間たちは。
とても小さな人間たちの悲鳴が聞こえない時は。
上を眺めていた。
どこまでも広がる、無限の空間を見上げていた。
可能性とか、夢とか呼ばれる物を。
ただ、呆然と見上げていた。
とても小さな人間たちの悲鳴が聞こえると。
怯えたり、怖がったり、気持ち悪くなったりした。
絶望や悪夢や、断絶を感じ取っていた。
そして、下を見た。
「もうすぐ街が消えるよう」
とても小さな人間たちは。
自分たちの存在を知ってもらおうと。
ただ、ただ必死だった。
哲夫と同じくらいの大きさを持った人間たちに。
その存在を知ってもらおうと。
それだけを望んでいた。
必死であればあるほど。
必至である者が、必死であるほど。
とても人間たちは。
大きな悲鳴を上げた。
その存在を知られる事すらないほど。
それでも命を使い果たした、とても小さな人間たちは。
せめて静かに休ませてくれと。
哲夫と同じくらいの大きさを持った人間たちに。
声にならない声で。叫び続けた。
哲夫と同じくらいの大きさを持った人間たちが。
その叫び声を聴いた。
叫び声をあげた、とても小さな人間たちの悲鳴が。
あんまりうるさいものだから。
石を投げた。
黙らせようとしたのだろう。
幾つもの礫を投げた。
とても小さな人間たちが石にあたった。
残り少ない命を使って、また。悲鳴をあげた。
石にあたって、命を失う者が居ても。
まだ、諦めなかった。
今。叫ばなければ。
今。悲鳴を挙げなければ。
二度とその声は届かないと。
とても小さな人間たちは知っていたから。
例え。その悲鳴が。
束の間に、忘れ去られる言葉だったとしても。
この声が、誰かに届かない限り。
這い上がれないと、知っていたから。
そして、とても小さな人間たちのうち。
悲鳴を挙げる事も出来ない者たちは。
言葉にならない言葉を振り絞って、なお。
命の限りを振り絞って。
聴こえない悲鳴を上げた。
その悲鳴を聞いた哲夫と同じくらいの大きさを持った人間たちが。
また。これでもかと。
もっと大きな礫を投げた。
ぎょろぎょろとした大きな目玉が、暗闇に潰れた。
蛇が瞳をつぶったのだ。
「お前はどっちになるだろう」
無防備に蛇の響く声を聴き遂げる他はなかった。
耳をふさぎたかったが、出来なかった。
哲夫は、弱い人間だった。
嫌な事や、痛い事から逃げだす人間だった。
哲夫は、思い通りにならない事を。
受け入れる事が出きなかった。
それを認められなかった。
それは辛い事だったし、虚しい事だった。
人生を。
投げ捨てようと。
感じるくらいには。
虚しく、辛い事だった。
炎に焼けれた蛇の炎に喰らわれた。
そして。蛇の牙で砕かれた。
蛇の餌と代わらない。
弱い人間でいる事が認められぬ事が。
蛇の餌であった。暗闇が赤く光った。
炎に照らされて。微かに暗闇の向こうの光が見えた。
『みらい』
気が付くと。蛇はいなくなっていた。
誰か。
部屋の中に入ってくる、気配がした。
哲夫は、ゆっくりと瞼を開いた。
「おはよう、哲夫さん。と言っても、もう夕方ですがね」
知らない声だった。
いや。
まっくらな闇の中で。
その声を聴いたような気がした。
声がした方に、ゆっくりと顔を向ける。
立派な髭を生やした壮年の男性が、本を開いて座っていた。
「初めまして。気分はどうですか? 具合の悪い所は?」
「ああ、ええと……」
「大丈夫ですか?」
「あなたは……?」
「ああ、自己紹介がまだでしたね。わたしはエルサン・アツ」
「俺は、狭間哲夫です……」
「知っています。アスターリさんから聴いてますよ」
「ああ、アスターリ?」
哲夫は、キョロキョロと辺りを見回した。
「アスターリさんは、今はいませんよ」
「あの、その、ここは……?」
「わたしの館の客室です」
「ええ、はい……」
「哲夫さん、あまり無理をしないでいいですよ」
「ちょっと、すいません……」
「まったく、アスターリさんにも困った事ですね」
「アスターリが、何かしましたか……?」
「あなたに、無理に魔法を使わせたんです」
「え……?」
「まだ、魔法使いにもなっていない人間に、魔法を使わせるなんてね」
「いや、俺は……」
「哲夫さん、大丈夫ですか? 気分は?」
「大丈夫。だと、おもいます……」
気分。
気分は、悪くない。
哲夫の気分は。
むしろ、少し軽くなっていた。
「あなたは、魔法も使えないのに無理に使い魔を呼び出したんですよ」
「使い魔……?」
「あの蛇です」
エルサンは、天井を指さした。
そこには、蛇がのんびりと張り付いていた。
蛇は、哲夫と目が合うと。
ヒヒヒ、と笑った。
「うん? 使い魔ですか……」
「そう、あの蛇は哲夫さんの使い魔です」
「そうなんですか……?」
エルサンは、大きく息を吸って吐いた。
「まったく。アスターリさんには困ったものですね」
エルサンは、そこで本を閉じた。
「いいですか。使い魔と言うのは、魔法使いになった証のようなものなんです。それを、魔法使いにもなっていない人間に、無理に呼び出させるなんて。ほんとうに、困ったものですよ。そのうえ、魔法で造り出した記憶の中で、さらにまた、記憶の中の存在と話をさせるなんてね。魔法使いにすらなっていない人間にとって、それはとても負担な事なんです。それは例えばね。泳げない人間に、まだ泳ぐ事も決めてないうちに、泳がなければ帰ってこれない海に放り込むような事なんですよ」
「……」
「アスターリさんはね、ちょっと変わった所があるんですよ。普段は、紳士的でとても気の良い老人ですがね」
「すいません。俺のせいで……」
「いえ、哲夫さんが謝る事ではないんです。ただね、アスターリさんが、あまりにもね」
「アスターリは、悪くないです……」
「哲夫さんが心配する事ではありませんよ。何もアスターリさんを罰しようと言う訳でもないですしね」
「よかった……」
「ご気分は?」
「悪くないです」
「そうですか、なにしろ哲夫さん。あなたは一カ月も眠り続けていましたからね」
「一カ月!?」
哲夫はおもわず、叫んだ。
「そうです、その間。哲夫さんは、ずっとうなされていました」
「ああ、それは」
「辛かったでしょう」
「ええ、そうですね。悪い夢を見ていました」
「まったく、アスターリさんにも、困ったものです」
「いえ、良いんです」
「随分、アスターリさんを信頼しているんですね」
「そう見えますか?」
「ええ、そう見えます。哲夫さんとアスターリさんは、一カ月前にほんの少しの間だけ、話をしただけでしょう?」
そう言われてみれば、そうなのだ。
アスターリとは、それほど多くの話をした訳ではない。
「いや、ええと、アスターリは」
哲夫はそこで、言葉につまった。
「どうしました? 哲夫さん?」
「アスターリは、友達なんです」
ほんの少しの間。
沈黙があった。
「そうですか」と、エルサンが応えた。
「ええ、そうです」
「なるほど。それならばアスターリさんの所へ、知らせをやりましょう。心配してるでしょうから」
エルサンは、それ以上はなにも言わなかった。
その言葉を聞いて、哲夫はなぜか安心した。
改めてゆっくりと、辺りを見回した。
今まで哲夫が泊まった事のある、どのホテルよりも丁寧に造られた部屋だった。
「すいません、ちょっと聞きたいんですけど。俺は、どうしてここに?」
「アスターリさんが、ここまで哲夫さんを連れて来たんですよ」
「ここは、どこなんですか?」
「魔法使いの住む街。ここはアツの領区です」
「アツのリョウク?」
「アツと言うのは、この土地の名前です。アツは古い言葉で『太陽』と言う意味です」
「魔法使いの住む街……太陽の、街……?」
エルサンは、立派な髭を揺らせて、真面目な顔でこう言った。
「ようこそ、哲夫さん。魔法使いの住む街へ!」
哲夫は、ようやく。
自分がどこへやって来たのか。
ゆっくりと噛締めた。
蛇が。
天井に張り付いていた、蛇が。
ヒヒヒと、笑った。
エルサンは「まだ、少し休養が必要でしょうから」と言った。
そして、哲夫に休むように促した。
哲夫は言われた通りに、見た事もないような豪華な部屋で。
再び、ベッドに横になった。
頭の奥が、痺れるようだった。
ただ、その痺れは嫌な痺れではなかった。
血の通っていない所に、血が通い始めた。
例えれば、そう言う痺れだった。
哲夫が横になって、痺れが治まるのを待っていると、客室の扉を叩く音がした。
返事をすると、この館の世話人によって、食事が運ばれて来た。
世話人は哲夫よりも、ずっと若い青年だった。
青年は哲夫に「食事はできるか?」と言う、意味の事を言った。
哲夫は「お腹が減っている」と言う、意味の返事をした。
青年は背丈が整っていて、見ているだけで気持ちの良い好青年だった。
哲夫がベッドから起き上がるのを、手伝ってくれたけれど。
そこまで具合が悪いわけではなかった。
だから「ありがとう」と言って、哲夫は自分で起き上がった。
運ばれてきた食事は。どれも温かく、どれも美味しそうだった。
さっきまで一カ月も寝ていたという、実感すらなかった。
だけど、温かく、美味しそうな食事を前にしたら。
食欲が、とめどなく溢れた。
食事を運んできてくれた、世話人である青年が「ごゆっくり」と言った。
丁寧な仕草で部屋から退出した。
哲夫は誰の目も気にせずに、貪るように食事を口に運んだ。
まるで。水を飲むように、食べた。
食べたという、実感すらない程。
哲夫は、夢中で食事した。
食事が終わると、急激に眠くなった。
一カ月以上も、眠っていたのに。
また、眠くなった。
まだまだ、眠たりないとおもった。
哲夫は、三度。ベッドに横になった。
そしてあっという間に、眠りについた。
暗闇のどこかで。
蛇。
蛇が。
ヒヒヒと、笑う声が聴こえた。
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