第3話 『雲の上の魔法使い』

 数えてみれば、何千何万何億の。

 幾歳月を過ごしたろうか。

 愛する事を覚えた日々さえも。

 愛する事を忘れたその時さえも。

 数えてみれば、何千何万何億の。

 瞬きに似た過去の記憶は過ぎ去っていく。

 愛する事を忘れた日々さえも。

 愛する事を覚えたその時さえも。

 訪れる時間の全てが。

 まるで、それを祝福するかのように。

 愛する事を誓ったあの日々さえも。

 愛する事に破れたあの時さえも。


 哲夫は、激しく揺れる幌の中で。

 窓の外を眺めていた。

 雲が。

 雲が本当に綺麗だった。

 雲と言うのは、こんなにも綺麗だったのか。

 そうやって、感慨にふけるほど。

 窓の外の雲は、綺麗だった。


 ガタガタと、激しく揺れる時間が終わった。

 雲を完全に突き抜けて、窓の外には。

 青空しか広がっていない。

 幌に付いた窓から下の方を眺めると。

 しきつめられたような、いち面の雲海。

 まるで、黄金の草原のように。

 その雲海は輝やいていた。


 何もかもが、綺麗だった。

 見た事ない景色。

 感じた事のない空気。

 新しくできた友達。

 

 ジンベエザメは、相変わらず。

 狭い幌の中ではしゃぐように、泳いでいた。


 哲夫は、胸いっぱいに息を吸った。

 少し、冷たい。

 本当に、何十年ぶりだろうか。

 漫画を描く事をやめてしまってから。

 何十年。

 漫画も、小説も、コミックも、エッセイも。

 新聞も、タブレットのニュースの文章も。

 哲夫には、苦痛でしかなかった。

 

 本当に何十年ぶりなのだろうか。

 哲夫は。

 胸がドキドキするような。

 そんな気持ちを抱いたまま。

 アスターリの抱えていた。

 分厚い。

 分厚い百科事典のような本を。

 ひらりと捲った。


 その時は確か。


 役所で書類の申請をしなければいけなかった。

 哲夫は、ひとりでは役所や知らない建物に入れなかった。

 理由はわからなかった。

 専門の医者も、ただ「心の病」と言うばかりだった。

 まともな仕事と言うのは当然なくて。

 外だけで働ける短い期間の日雇い、週雇いを探して働いていた。

 その頃は。

 レーレーとふたりで暮らしていた。

 アパートの家賃は離婚したばかりの父親が三分の一。

 哲夫が三分の一。

 レーレーが三分の一を払っていた。

 生涯、そういう生活で終るだろうと思っていた。

 父親と姉のレーレーは、諦めているようだった。

 父親と母親は、哲夫が二十歳を過ぎた頃に別れていた。

 まれに母親から連絡はある。

 しかし、話す事は、何もなかった。


 ああ、これは。

 過去の記憶を見ているんだ。

 哲夫はそう想った。

 視界のはしの黒くて長い物が、うねうねと動いて形になろうとしていた。

「炊けたね」

 レーレーが、明るい声で言った。

 レーレーは料理が好きだった。

 作る事も好きだが、食べてもらう事も好きだった。

 レーレーは、哲夫にそれを教えてくれた。

 何の問題もない姉弟であれば、そうなる筈だった。

 レーレーとのふたり暮らしを終えて。

 それぞれが、別々に暮らしすようなった後。

 哲夫は。

 まともな料理をしなくなった。

 料理をすると。

 自分が削れてなくなるような気がしてしまった。

 食事をすると。

 貴重な人生の一部を。

 無機物に乗っ取られる。

 そう、想う様になってしまった。


「御飯炊けたよ、哲夫!」


 何時までも。

 いつまでも。

 底抜けに明るい。

 レーレーの声と。言葉。


「なぁ、レーレー。今日は、役所に行くんだ」

「知ってるよ、哲夫! まずは、食べなきゃ、だな!」


 哲夫は、レーレーの推し進めるまま。

 台所のテーブルに座った。

 朝食は、スクランブルエッグと、ソーセージ。

 それに、カリカリに焼いた食パンだった。


 哲夫は、レーレーの食事を。

 どうしても、美味しいと想わなかった。

 ただ、ひたすらに。

 生きる為に、腹に詰め込んでいた。

 今朝もきっと、同じだろう。

 哲夫は何も言わずに、椅子に座った。

 じっと動かなかった。机の上の朝食を薄目で眺めていた。

「お腹へったな、食べようよ」

 できたての朝食のにおいがした。

 なぜ、これほど恵まれているのかわからなくなる。

 それほど、豊かで色鮮やかな朝だった。

 レーレーは、さっそく。

 元気よく自分のつくった朝食を食べていた。

 そして「哲夫、お腹好いてないの?」と聞いた。

 哲夫はしばらくして「ああ」と言った。

 机の向いに座るレーレーは、元気よく朝食を食べるばかりだった。

 その視界のはしで、ぬるぬると黒くて長くて動いていた物が形になった。

 食器と食器の隙間を選び、縫うように形になった。

 形になったものは、蛇だった。


 哲夫の耳元に突然。

『みらい』

 そう聴こえた。

 蛇が。そう叫んでいたのだと想う。


 レーレーが食事の手を止めて「何? 幻覚? 見えるの?」と聞いた。

 哲夫は、ゆっくりと頷いた。

「蛇」

「ふうん」

「今、食器の間に隠れた」

 レーレーは、哲夫の言う事を、無視した。

 無視して、朝食を食べ続けた。

「スクランブルエッグが冷めちゃうよ、哲夫」

「うん」

 それだけしか言わなかった。

 レーレーも、それ以上何も言わなかった。

 静かな。

 あまりにも静かな、朝食だった。

 最も、哲夫とレーレーがふたり暮らしになってから。

 当たり前と言えるような。

 それくらいには繰り返された、朝食の情景だったけれども。

 哲夫は食事をしている最中、突然。

 身体の芯が絞めあげれるような罪悪感に襲われた。

 独り言がでないように身体中で力を振り絞った。

 血の通った家族である筈のレーレーがなぜ、食事を作ってくれるのか。

 哲夫にはわからなかった。

 いや。理屈ならわかる。いくらでも。

 なぜ。自分が生きていくのに必要な責任を。

 食事と言う責任を。

 食欲と言う責任を。

 レーレーに背負わせている事に。

 罪悪感があった。

 哲夫はスクランブルエッグを。

 半分くらいまで。食べた。


『みらい』


 視界の端で。

 蛇が叫ぶ。

 食事をする哲夫の手が、急に動かなくなった。

 レーレーはそれに気が付かなかった。

 今度は独り言ではなかった。頭の中で響いたのだ。

 それが。

 哲夫の言葉になったのだ。

 哲夫にもそれがわかった。


 レーレーの食事は、栄養が豊富で、レパートリーもあった。

 哲夫とレーレーが、問題のない姉弟であったなら。

 レーレーの食事は美味しかったのだろうか。

 このスクランブルエッグは。

 消しゴムの味ではなかったのだろうか。


『みらい』


 やがて胸をまっくらに染めるような、罪悪感は霧散した。

 腹が満ちると嫌な事は薄れていった。

 朝食が終わる頃にはいつものように、狭いアパートに日がさした。

 部屋があかるくなった。

 哲夫は、食べ終わったの食器を片づけようとした。

 そうしないと、レーレーが怒るから。

「今日はいいよ。哲夫は猛と約束があるんでしょ」

「でも、片づけくらいは」

「いや、大丈夫だよ。気にしなくて良いから。シャワーを浴びて、綺麗にしてきな」

「いや、レーレー」


 今日は、役所に行く日なんだ。

 猛青年と会うのは、今日の話だよ。


 台所のすみにはレーレーが買ってきた、小さな洒落た食器棚があった。

 本当は食器棚に使う棚ではないと言ってた。

 詳しい事はわからなかった。

 哲夫はそこから、歯ブラシを取り出した。

 そして、レーレーの言う通り。

 シャワーを浴びた。


 記憶の中で、シャワーを浴びる。

 哲夫は、変な気持ちになった。

 記憶の中でも。

 シャワーは、熱い。

 そして気持ちが良かった。


 哲夫はシャワーを浴び終える。

 レーレーはとっくに片付けを済ましていた。

 自分の部屋に籠ったのだろう。

 微かに。音楽が聴こえてくる。

 レーレーは、音楽を聴くのに凝っていた。

 その部屋には、値段のはる、大きなプレイヤーが置いてあった。

 レーレーは、ジャズだと言っていた。

 哲夫にはわからなかった。

 だけど、それは。

 きっと、良い趣味なのだろうという事はわかった。

 

 哲夫は、コーヒーを沸かして自分の部屋に戻った。

 窓を開けた。

 晴れていたので部屋の窓を開けた。

 狭いベランダに出た。外はまだ静かだった。

 いつもそうするように。

 コーヒーをベランダの手すりに置いた。

 医者が、いつも寄越す薬を開けて飲んだ。

 さっき、朝食の時に蛇になった者は、今は晴れた大空の間で這っていた。

 どこかで。

 似たような景色を見たような気がした。

 蛇は、たまに見ていた。

 目の奥が、痛みを感じない時。

 蛇は、たまに哲夫の視界で、這っていた。

「蛇」

 それを言葉にすると、少しだけ楽になった気がした。

 蛇は、とてもとても悠々と。

 晴れた大空の間を、這っていた。

 そのまましばらくの間。

 哲夫は狭いベランダで、コーヒーを飲んでいた。

 何もしなかった。

 頭の中では色々な事が駆け巡っていた。


 電車に乗る所や、建物に入る所を想像した。

 アスターリと一緒に、空を飛ぶ自転車に乗っている事を想い出した。

 これから、苦手な役所に行く事を想い出した。

 ジンベエザメに気に入られた事を想い出した。

 猛青年と、会う約束をしていた事を想い出した。

 離婚して、哲夫に関わらなくなった母親の顔を想い出した。

 哲夫に、医者に行けと強く言った、同僚の顔を想い出した。

 これは、過去の記憶であって。

 今は、新しくできた友達に。

 見知らぬ世界へと、連れていかれている途中なのだ。 

 それを想い出すと。

 どうしてか胸が痛んだ。

 希望や喜びではない。

 絶望を感じた時の、胸の痛みだった。

 

 アスターリには、なんの悪意もない。

 それはもう、理解している。

 

 それでは、この胸の痛みは何なのだろうか。

 虐待を繰り返した姉と、ふたり暮らしをていた。

 短いけれど、確かな記憶。

 

 その記憶よりも辛い事が。

 哲夫の身にあるんだろうか。

 よくわからなかった。

 手すりに置いたコーヒーを飲む。

 熱いコーヒーが、胃の中に流れ込んでゆくのがわかった。


 晴れた大空を這う蛇が、こっちを見て叫んだ。


『みらい』


 哲夫は、大きな深呼吸をした。

 哲夫を虐待した姉の顔を。

 レーレーの顔を想い出した。

 

「哲夫! ちょっとこっちに来いよ!」


 どこまでも、元気なレーレーの声。


「早く、はやくしろって!」


 哲夫は、ノロノロとした動きでベランダから部屋に入った。

 レーレーが、まだ何か言っている。

 レーレーの部屋の前まで、コーヒーを持って入っていく。

「おい、面白いぞ。猫がね。猫が挨拶するんだよ」

 そう言って、レーレーはタブレットを窓の外に向けている。

「おはよう、猫ちゃん!」

 レーレーが元気に、そう言って、タブレットで写真を撮っていた。

「なんだよ、猫がどうしたんだよ」

「いいから。いいから、な!」

 哲夫は、とても面倒くさい気持ちになった。

 レーレーがはしゃいでいる、窓の近くまで、ノロノロと歩み寄った。

 レーレーの視線の先を追うと、確かに猫がいた。

「哲夫、あの猫に挨拶してみな!」

「うん?」

「挨拶。朝の挨拶!」

「ああ、うん。ええと……」

「早くしろってば!」

 哲夫は言われた通りにした。

 猫に向かって「おはよう」と、気のない挨拶をした。

 すると、猫は。ペコリと頭を下げた。

「凄いだろ、哲夫。あの猫!」

「うん、まあ」

 レーレーは、タブレットで写真を撮る事に夢中だった。

 哲夫は、レーレーの部屋から黙って立ち去った。

 自分の部屋に戻ると、役所に行く準備をした。

 

 出かける時に、レーレーが部屋の中から声を掛けて来た。

 とても元気な声で「哲夫、無理はするなよ」と言ってきた。

 哲夫は「うん、わかった」と、曖昧な返事をした。

 

 哲夫は役所に行く為に、バス停を目指す。

 何故それだけの事がまともに出来ないのか。

 答えなんか無かった。

 ただ、そうなのだと言う事しかわからなかった。

 役所で、役所の職員と、なにがしかのやりとりをするのだろう。

 それを想像した。

 哲夫は身体の芯が冷えるような気がした。


 バス停までは、たいした距離ではない。

 歩き慣れた道だった。

 

 哲夫は、これは記憶の中の出来事なのだと、理解していた。

 だけど、この記憶が、どの季節だったのかはわからなかった。

 記憶など、そんなものだろう。

 それは、よくわかる。

 ただ、暑かった。

 少なくとも、秋や冬ではない。

 おそらく、春を過ぎていた。

 とにかく、この記憶の中は、まっさおに晴れていて暑かった。


『みらい』


 耳の中で、そう聴こえた。

 哲夫はあたりをみまわした。

 蛇。

 蛇が。

 すぐそこの、電信柱の上に、絡みついていた。

 哲夫は、何かを諦めたように、大きく息をはいた。

 

 哲夫は、ずっとずっと大昔。

 少年と呼ばれた時代の頃。

 その頃の哲夫は、天気の気まぐれが大好きだった。

 特に、天気雨が大好きだった。

 そんな時。

 哲夫は、傘を持たされていても。

 傘を差さずに家に帰った。

 雨にも関わらずに、傘を差さないで家に帰った。

 天気雨が、大好きだったから。

 家に帰ると、母親に叱られた。

 レーレーに、怒鳴りつけられた。

 それでも、なんどか。

 傘を差さないで帰った日があった。

 

 なぜかはわからない。

 レーレーとふたり暮らしをしていた頃。

 どうしても役所に行かなければいけない用事があった。

 その役所に向かう途中。

 天気雨が大好きだった事。

 そのたびに、傘を差さずに帰った事。

 それを強く想い出した。

 その事は、記憶のなかで、ハッキリと記憶されたいた。


 歩きなれた、バス停までの道を、ただ歩いた。

 春をとっくに過ぎた日。

 だけど、夏とも言えない日。

 ひどく、暑かった日。

 ただ、歩いた。

 晴れた空にかかる、大きな白い雲

 その雲の淵をなぞる様に、蛇が空を這っていた。

 踊っているようにも、見えた。

 少しは愉快だった。


 変わらない景色が、延々と続いていく。

 仕事をしていた頃も、この景色をずっと見ていた。

 その頃は、景色なんて気にもしていなかった。

 見慣れた緩やかな坂道をのぼった。

 バス停までは、大きな交差点がふたつあった。

 その交差点の手前には、誰も気にしない川の流れ。

 時の流れのように、止まらない川の流れ。

 蛇。

 蛇が。

 河原の上で、横たわって気持ちよさそうに伸びていた。

「たのしそうだね、お前は」

 哲夫は思わず、声に出して言ってしまった。

 すれ違った人が、哲夫を見たのがわかった。

 河原に横たわっていた蛇が。

 晴れた大空に向かって、細い身体を伸ばした。

 どこまでも、どこまでも。

 まるで、太陽に向かってゆくように。


 バス停に辿り着いた。 

 役所で、職員と約束した時間。

 それには、もう少しだけは時間があった。


 バス停からほんの少し歩いたところに、最寄の駅があった。

 その最寄りの駅には、通い慣れたコーヒーショップがあった。

 哲夫は、呼び起こされた記憶の中で。

 

(コーヒーショップには、もう、行ったんだけどな)

 

 そう想った。

 でも、仕方なかった。

 記憶に従って、コーヒーショップに向かって。

 ノロノロと歩いた。


 少し前の記憶。

 レーレーとふたり暮らしをしていた頃の記憶。

 役所にも、バスにも、新しい建物にも。

 どうしても、入る事が苦手だった哲夫にとって。

 駅前のコーヒーショップは、なにも考えずに入れる建物のひとつだった。

 哲夫は、記憶のとおり。

 アイスコーヒーを頼んだ。

 階段を登って、人気のない階を選んで、窓際に座った。


(さっき、似たような事をしたんだけどな)


 哲夫は、誰にたいしてでもなく。

 呼び起こされた自分の記憶に、そうやって呟いた。

 アイスコーヒーに、シロップとミルクを入れた。

 その時になって、床に光る物が落ちている事に気が付いた。

 テーブルを離れて、床に落ちている、それを拾った。

 赤い宝石の着いた、ブローチだった。

 哲夫はそれを拾い上げて、テーブルに戻った。

 こう言う事には、全く関心がなかった。

 この、赤い宝石の着いたブローチが。

 安物なのか、高価な物なのか。

 まるでわからなかった。


(こんな物、記憶にはないんだけどな)


 哲夫は、よく冷えたアイスコーヒーを、ストローで飲んだ。

 冷たくて、甘くて、コーヒーの香りと苦みがする。

 それが、とても身体に染みた。


 記憶に従えば。

 今日はこれから、役所に行く事になる。

 仕事を辞めたまま暮らしていくには、どうしても必要な手続きだった。

 窓際から外を眺める。

 すると、蛇。

 蛇が。

 窓に張り付いて、日光浴をしていた。

 哲夫は、ふと、笑った。

 その時。

 階段から人がやってくる、気配がした。


(アスターリ?)


 哲夫は、新しくできた友達を想い出した。

 しかし、記憶の中では。

 このまま、役所に行くだけの筈だった。


 階段から見えたのは、少女の姿だった。

 見た事のない、知らない女の子だった。

 女の子は何も言わずに、哲夫の座る窓際のテーブルまでやって来た。

 そして、テーブルの向かいに座った。

 哲夫は、目をキョロキョロさせて、その様子を見ていた。

 

「おはようございます。わたしは海。名前しかないから、海って呼んでね」

「ああ、ええと。俺は……」

「知ってます、哲夫さんでしょ」

「ええ!?」

「驚かせてごめんなさい。わたしはアスターリの友達なの」

「アスターリの……?」

「そう。友達と言うより、アスターリはわたしの恩人なの」

「うん……」

 

 哲夫は、まだ、話を飲み込めていない。

 海。

 そう名乗った女の子は、一気に話し始めた。


「アスターリはね、記憶や時間の魔法を研究してるの。わたしは、何十年も前に。哲夫さんが産まれるよりずっと前に、アスターリに助けられたの。アスターリの魔法の中でだけ、生きていける。わたしはそう言う存在になって、なんとか生きのびる事ができたの。もっとたくさんの、楽しい事も辛い事もあって、最後にそうなっちゃったんだけど。今それを話すには、長くなりすぎるから。わたしね、アスターリが呼び起こした記憶の中や、狭い範囲で許された場所なら、生きてた頃みたいに自由に生きていけるの。今は、哲夫さんの記憶の中にお邪魔してるのね。気分を悪くしないでね。記憶の中だから、わたしはがその記憶を弄ったり、変えたりは出来ない。だた、ほんのちょっと。その記憶の持ち主と、話が出来るくらいの事なの。それでね、哲夫さん。そのブローチ。赤い宝石の着いたブローチ。それは、わたしが、大事にしていた物なの。色んな人の記憶の中を、ずっと探していたんだけど。全然、見つからなくて、諦めていたんだけど。あのね、哲夫さん。あの子なの」

「あの子?」

 海は。

 窓に張り付いて、日光浴している蛇を指さしていた。

「あ、え? 蛇?」

「あの子が、探してきてくれたの。わたしの物だって、知らなかったみたいだけど。哲夫さんの記憶の中には、本当はなかった筈のものだから」

「ああ、そうか。なるほど」

 哲夫は別に、何も納得していたなかった。

 ただ、曖昧な気持ちで、返事をしただけだった。

 何も、わかっていなかった。

 ただ、海と名乗った女の子には。

 話がしたいと言う以外、なんの他意もない。

 それだけは、なんとか飲み込んだ。


「それでね、哲夫さん。このブローチは、海の物なの」

「うん、そうみたいだね」

「これは、海が持っていても良いかな?」

「もともと、君の物だろう?」

「じゃあ、持っていても良い?」

「いいよ」

「ありがとう!」

 海はそう言って、テーブル越しに、哲夫に抱き着いた。

「おっと……」

 哲夫は、海の抱擁にたいして。

 驚く以外の、何も出来なかった。

「ごめんさない、本当に嬉しかったから」

「うん」

「海はね。まだ、アスターリと会う前。宝石に魂を入れる研究をしていたの」

「研究?」

「海も、魔法使いだから。一応ね」

 海は、明るく笑った。

「なんで、そんな研究をしていたかって言うとね。魔法使いはみんな。自分で選ぶ事なの。選ばれた人が魔法使いになるんじゃないんの。自分で選んだ人が、魔法使いになるの。魔法の辞典とか、魔導書とか。そう言う物はあるけど。それはみんな、自分で魔法を選んだ人たちが書き残した、書物にすぎないのね。海は。海は子供の頃から。ああ、今でも姿は大人とは言えないけどね。まだ、生身の肉体があって、魔法の研究をする、そのずっと前から。宝石がね。好きで好きで仕方なかったの。子供の頃、ママがしてる指輪をね。大きくなったら、海にくれるって約束してくれた日の事。今でも覚えてるな。嬉しくて眠れなかったのね。それでね。海は、その少し後に、魔法使いに連れられて、魔法使いになる事を決めたの。自分で選んだのね。そして、宝石の中に、自分の魂を入れる研究をはじめたの。楽しかったなぁ。でもね、その後に研究中の事故で、海は肉体がバラバラになってしまったの。色んな魔法使いが、助けてくれようとしてね。そのひとりがアスターリだった。アスターリは、海の研究した記録を読んで、魂や記憶がブローチに残ってるかもしれないと考えたの。アスターリは記憶や時間の研究をしていたから、ブローチから、記憶と魂を取り出して、アスターリの魔法の中で自由に生きられるように、頑張ってくれたのね。わたしはね、哲夫さん」

「なんだい?」

「アスターリのおかげで、なんとか、記憶と魂だけはいきのびたの。もう、何十年もそうしてる」

「辛くはないの?」

「ううん。色んな人の記憶の中で、いくらでも時間をつぶせるの」

「そうか、それなら、まあ。うん」

「哲夫さん、ブローチを見つけてくれありがとう。記憶はともかく、魂はブローチの中に入れたままだったから」

「そうなの?」

「そうなの。それでね。アスターリにも哲夫さんにも、いつかお礼がしたい」

「いいよ、別に。ブローチを見つけたのは、俺じゃないしね」

「ううん。そんな事を言わないで。暇つぶしはできるけど。人の役に立てる事なんて、ここではほとんどないから。それでね。いつかでいいから、アスターリがわたしにしてくれたみたいに。哲夫さんの助けになれる事があったら。必ずわたしを呼んで。哲夫さん、約束してくれる?」

「わかったよ、海。約束するよ。困った事があったら、君を呼ぶよ」

「わたしが出来る事は、宝石と魂の魔法。後はちょっと役に立つ魔法。それから」

「うん?」

「それからね、話し相手」

 海は、明るく笑った。

「ああ」

 哲夫は、やっと気が付いた。

 海は、数十年の間。

 哲夫が産まれる前から、ずっと。

 アスターリ以外の誰とも。

 気軽に話す相手もいなかったのだろう。

「うん、ああ。いいよ。話し相手ね」

「よかった、ありがとう!」

 海はそう言って、哲夫の手を取る。

 そして窓に手をあてた。

 景色。

 景色が。

 ぐるんぐるんと。

 回転してるように感じた。


 その瞬間だった。気が付くと、哲夫と海は、コーヒーショップの窓の外にいた。


「うお!?」

 哲夫は、思わず叫んだ。

 哲夫と海は、ふわふわと空中に浮いていた。

 しかも、ちょっとだけ。

 高度をあげている。

「大丈夫、記憶の中だから。落ちても死なないよ」

「そう言う事じゃない!」

 戸惑い、叫ぶ哲夫の手を。

 海は。強くつよく、にぎった。

 哲夫がその感触を確かめた時。

 何もない筈の空に向かって。

 物凄い速さで加速していくのを感じた。

「慌てないで、哲夫さん。海と散歩しよう」

「散歩!? どこで!?」

「そう、空や雲の上で散歩しながら、お話しよう! ロマンチックでしょ!」 

 ふたりが少しの言葉を交わしてる間に。

 ふたりは、ぐんぐんと空に向かって昇っていた。

 何もない筈の空の彼方へ。

 ぐんぐん、ぐんぐんと。

 空を昇る速度は、増していった。

 もうすでに、コーヒーショップのあるビルが、遥か下に見える。

「空で散歩するって言っても、俺は魔法を使えないよ!」

「大丈夫! 海が教えるから! 大丈夫だよ!」

 哲夫は、何が大丈夫なのかもわからなかった。

 どこまで、行くのだろうと思って、空の上の空を見上げる。

 あっという間に、雲の中に入り込んでいった。

 そして、あっという間に、雲を突き抜けてしまった。

「どこまでいくんだ!」

「もう、着いたよ!」

 海はそう言って、可愛らしく笑っている。

 しかし、その言葉とは違って、哲夫と海はどこまでも。

 どこまでもどこまでも。

 空を高く高く、突き抜けていく。

 その加速は、とても形容する事が出来ない程だった。

「あれ!? ちょっとまって!」

 海が叫んだ。

 なにか、間違いあったのだ。

 それはそうだ。

 この勢いなら、本当に宇宙まで行ってしまいそうだった。

「哲夫さん、落ち着いて! 大丈夫だから!」

「そんなこと言っても! よくわからない! これ、まずいんじゃないか!」

「いいから! いいから、落ち着いて!」


『みらい』


 どこからか、声がした。

 物凄い勢いで、空を上昇していく中で。

 哲夫は周りを見渡した。

 

 蛇。

 蛇が。


 いつの間にか、哲夫の身体に巻き付いていた。

 蛇は。

 なにが嬉しいのか。

 ヒヒヒ、と笑った。


 哲夫は、そこで。

 まっくらな闇に包まれた。


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