第2話 『風のアスターリ』

 わたしと言う個人に代わって世の中がさも。

 本当にひとつだけの事を大事にしてくれると言う事はありません。

 天の川の川沿いに星の船がたどり着きました。

 星の船を見上げると、時々。

 その美しさが辛く、さも残酷であるようにわたしには思えるのです。

 世の中と言う蜃気楼のような。

 それでいて大きなひとつの意思ある生き物の様な掴みどころの無い現象が。

 今日もわたしにしてくれる事は間違いだらけでありました。

 そういう時、いつもいつも。

 辛くたって誰かと一緒に生きて行こう、そうやって思うのです。

 わたしは弱い人間でした。

 意思が浅い。思慮もない。

 いつも後悔や無関心を伴って文句ばかりを口にして過ごしています。

 そういう時、いつもいつも。

 あなたと過ごした幸せな時間を思い浮かべるのです。

 そうやってようやく毎日毎日を生きて行こうと思えるのです。


 哲夫は窓際から見える、駅前の人の流れが好きだった。

 それを眺めていると、時間を感じなくて済む気がしたから。

 モーニングのサンドイッチを食べながら、駅前の人の流れを目で追いかける。

 味気なくまずかった朝食に比べると、たいへんに美味だった。

 齧る度に、身体に味がしみ込むようだった。

 生きている実感が湧いていくようだった。

 哲夫はサンドイッチを半分ほど、一息に食べた。

 再び窓際からの景色を眺めた。

 駅前の人の流れは途切れれる事なく、続いていた。

 あの流れの中のひとりひとりに生活があり、人生があり、目的がある。

 哲夫は、それを想像するのが好きだった。

 あのスーツの男性は早く歩いているけれど、なんでなのか。女性がふたり。朝からシャレた服をきて、楽しそうに話しながら歩いているけれど。どこかへ遊びにいくのだろうか。学生服を着た男の子が、自転車で駅前を通り過ぎて行ったけれど。電車やバスは使わないのだろうか。ランドセルを背負った男の子と女の子が、何人も群がって、楽しそうにしているけれど。あの子たちは十年後。どんな人生を送っているんだろうか。

 なんの意味もない。本当に、なんの意味もない。

 とりとめのない、想像。

 その想像を、楽しんだら、直ぐにそれをすぐに忘れる。

 でも、哲夫はそんな時間が好きだった。

 仕事を辞めてから、何もかもやる事がなくなった。

 猛青年以外には、友人と呼べる人間もいなかった

 そんな哲夫にとってこの時間は、心が休まる時間だった。

 サンドイッチを半分ほど残して、熱い、あついホットコーヒーを飲んだ。

 身体の底から、活力が戻ってくるような気がした。

 哲夫の胸にふと。さっきのレーレーの言葉が胸をよぎった。


『なあ、哲夫。夢は大事だぞ。趣味でも、生き甲斐でも良い。哲夫が最初に漫画を描いたのは、小学生の頃だったろ? その頃から続けられる事なんて、あんまりないぞ。人が夢や希望を持って、それに向かって生きるのは、生きている証拠みたいなもんだ』


 哲夫は、確かに遥か昔。

 漫画を描く事に、情熱を燃やしていた。

 青春と呼ばれる時間を、使っていた。

 気の遠くなるくらい昔。

 ずっとずっと、大昔。

 具体的に言えば。

 二十年と少し前。哲夫は漫画を描いていた。

 就職して、仕事を覚える頃には、想い出になっていたけれど。

 確かに、気の遠くなるくらい昔。哲夫は漫画を描いていた。

 哲夫は今。自分の世界が、狭くなっている事に。気が付く。

 漫画を描いていた頃は、世界が無限に広がっていた。

 それを肌で感じる事が出来た。

 青春と呼ばれる、ほんの短い間。

 哲夫は無限に広がっていく世界で。

 何も恐れずに生きていた。

 いつの間にか。

 自分の世界が延々と閉じられていく事に、慣れていた。

 気が付かないうちに。閉じていく世界に、慣れていた。

 なぜ、自分の世界は閉じていったのだろう。

 哲夫はぼんやりと窓外を眺めながら、そんな事を考えた。

 本当に、息苦しい。

 就職した時だろうか。

 仕事を覚え始めた頃だろうか。

 それとも。漫画を描く事が辛くなってしまった、その時だろうか。

 哲夫は、自分の世界が閉じていく事に。納得してしまったのだ。

 無限に広がっていく、あの景色たちが懐かしい。

 もう、戻ってくる事はない青春と呼ばれた。

 ほんの短い間の、時間と記憶。

 気が付けば。それも昔の話になってしまった。

 今からでも遅くはないんだろうか?

 いつまでも、何も変わらずに、延々と閉じられていくこの世界で。

 ずっとずっと。

 叶わないままでいる、次の青春を探していても構わないんだろうか? 

 応えは、どこからも聴こえない。

 哲夫は思う。

 今。たった今、この時。

 自分の前を歩いている人も。

 自分の後ろを歩いている人も。

 いなくなってしまった。

 遥か向こうの、窓の外で。見えないくらい遠い世界で。

 忘れてしまった輝きに包まれている人たちを眺める。

 哲夫の胸に、ほんの少し痛みが走る。

 その胸の奥に痛みが、哲夫を現実へと引き戻す。

 痛みが産まれるという事は、まだ。

 自分の魂は活きていると言う事を、哲夫は少しだけ想い出す。

 まだ、魂が死んでいないという現実が。哲夫の胸にさらなる痛みを産む。

 目の奥が痛む。

 今。哲夫の周りを包む世界は。暗い。

 ほんの少し先の事が、ほんの少しだけ観える。

 ほんの少し先の事だけで、毎日が精一杯になる。

 仕事を辞めてしまってから、何を成した訳でもないのに。

 物凄く遠くに。窓の外のすぐそこに。

 灯のような輝きがある。それがわかる。

 この暗闇に包まれた世界から抜け出す勇気を持てば。

 あの窓の外を流れていく、美しい灯のような輝きに包まれるのだろうか。

 哲夫は自分の周りを包む、世界の暗さに慣れた。

 世界が暗い事に。ただ安堵する。

 漫画を描いていた時の事を想い出す。

 その輝いていた頃の想い出を、今は抱くだけ。

 いつかまた。

 あの美しい灯のような輝きに。

 明るい世界で生きる事が出来るだろうか

 今の哲夫は、それを夢見るだけだった。

 いつかまた。自分の力で輝いて生きる事が、出来るだろうか。

 今の哲夫は、それを想うだけだった。


 哲夫は、物思いをやめて、最後に残ったサンドイッチを齧った。

 ふと、階段を登ってくる人の気配がする。

 空気の中を泳ぐ魚たちが、階段の周りだけ、騒がしく泳いでいる。

 

 階段を登って来たのは、外国の老人だった。

 整えられた白髪。高そうな眼鏡。サスペンダーの下の、しっかりしたYシャツ。

 右手には、バーガーショップの持ち帰り用の、白い紙袋を持っていた。

 ここは、コーヒーショップだ。

 駅前の並びに、確か、バーガーショップがあった。

 そこで、バーガーのセットを、持ち帰りで注文したのだろうか。

 そして、外国の老人は左の脇の下に、百科事典のように分厚い本を抱えていた。

 

 外国の老人の周りには、魚たちが群がっていた。

 その中でも特に。

 確か、ジンベエザメと呼ばれる魚が。

 グルグルと外国の老人の周りを泳いで、はしゃいでいた。

 バーガーショップの持ち帰り用の、白い紙袋を突いたりして、戯れていた。


 外国の老人は、魚たちの戯れに興味を示す様子もなかった。

 哲夫の座っている窓際のテーブルまで、まっすぐに歩いてきた。

 そして、哲夫の前に座った。

「おはようございます」

 外国の老人はそう言って、バーガーショップの持ち帰り用の、白い紙袋と。

 百科事典のように分厚い本を、哲夫の座っているテーブルの空いている場所に。

 ドサッと、遠慮なく置いた。


 哲夫は記憶や状況を、頭を凝らして整理した。

 この外国の老人は、前にもこのコーヒーショップで、見た覚えがある。

 その時も、今と、同じようにして。

 百科事典のような分厚い本を抱えていた。

 その時、この外国の老人は、その百科事典のように分厚い本を。

 難しい顔をして読んでいた。


 哲夫と同じく。

 このコーヒーショップの常連なのだろうか。


「失礼いたしました」

 突然。外国の老人は口を開いた。

 外国の老人は百科事典のように分厚い本の上に、手を載せていた。

「すいません、なんでしょうか。俺になにか、用でしょうか」

 哲夫は自分でもよくわからない、曖昧な気分で返事をした。

「少し気になる事がありまして」

 外国の老人の言葉は、とても堪能だった。

 そして外国の老人は「少し、お時間をよろしいですか?」と、聞いて来た。

 哲夫は曖昧な気分のまま「はい、ええ。どうぞ」と返事をした。

 外国の老人はにっこりと、穏やか微笑みを哲夫に向けた。

「突然、驚いたかと思います」

「ええ、まあ」

 哲夫は状況を整理出来ないでいた。

「私の名前は、アスターリと言います」

「アスターリさん。ですか? 俺になんの用でしょうか?」

「はい、私の名前はアスターリ」


「アスターリ・ヴェル」


「アスターリと呼んでください」

 哲夫は、アスターリ・ヴェルと名乗った外国の老人を、よくよく眺めた。

 白髪に眼鏡をかけていて、どう見ても高齢だった。

 その年齢に相応しい、賢いと言う印象を持った。

 それに、よくみると肌の色が浅黒かった。

 日焼けなのか、地の色がそうなのか。

 健康的で艶のある肌だった。

 肌の色が浅黒く、健康的に艶やかだった。

 それが、哲夫には自分でもよくわからない程には。

 好印象だった。

 哲夫がアスターリ・ヴェルと名乗った老人を眺めてわかったのは。

 それ位だった。

「ええ、はい。アスターリさん。それで俺になにか用でしょうか」

「私はこの店で、何度かあなたお見掛けしました」

「そうですね、この店にはよく来ますから。ええ、はい」

「以前にあなたをお見掛けした時も、お話を伺おうかと思っていたのですが。その時は、すぐにあなたがこの店を出て行ってしまったので」

「そうですか……」

「あなたにはなんの話か、わからないと思います。結論から述べましょう」


「私は魔法使いで、あなたの中の呪いを払うべきだと思っています」


 哲夫は、返事が出来なかった。

 空気の中を泳いでる魚たちが。

 悪戯に哲夫とアスターリを突いて、戯れていた。

「私の言葉を聞いて、困ってしまうのは理解できます。ですが、あなたは今。今までにない説明できない経験をしている。ない筈のコーヒーショップの四階。空を泳ぐ魚たち。もちろん、あなたが、この状況で起きている事を、トリックやイカサマだと感じ取るなら、それを言っていただいて構いません。私は、それを納得させるほど、熟達した人生を歩んではいないのです。ですから、遠慮なく言ってください」

 アスターリは、そこで言葉を区切った。

 哲夫が、口を挟まない事を確認して、言葉を続けた。

「本当に、突然の事だと言うのはわかります。ついこの間、あなたをお見かけした時から、ずっと気になっていました。私が見る限りあなたの中には、通常で言えば耐え難いような、重たく深い呪いが働いているようです。心当たりはありませんか?」

「ああ、それは……」

 心当たりは、ある。

 アスターリが、魔法使いであるかどうかは別にして。

 空気の中を、魚たちが泳いでいるのは別にして。

 通いなれた三階建てのコーヒーショップが。

 四階建てになった事は別にして。


 呪いが哲夫の中にいると言われるなら。

 心当たりは、確かにあった。


「私は、あなたの呪いを払い、苦しみから解放できればと思っています。本当にいきなりで、申し訳ないとは思っています。しかし」

 アスターリは、そこで言葉を区切って。

 ひと息入れた。

「しかし。自分の手で、誰かの苦しみを解放できるなら。出来ると気が付いてしまったなら。それは、やるべき事なのだと思っています。少なくとも私は、そう思っています」

「ええ、はい……」

 哲夫は、形容しがたい感情に揺さぶられていた。

 曖昧な返事しか出来なった。

「よろしければですが」

 アスターリが、哲夫の瞳を見つめた。

「お名前を、伺いたいのですが。もちろん、嫌でなければの、話ですが」


「哲夫。狭間(はざま)。哲夫(てつお)」


 哲夫が本名を名乗った途端。

 誰か、ドスッと哲夫の背中を突いた。

 哲夫が驚いて振り返ると、ジンベエザメだった。

「おや」

 アスターリは嬉しそうに笑っていた。

「どうやら、哲夫。あなたが気に入ったようです」

 哲夫は、そう言われても、何がなんだかわからなかった。

 首をかしげてしまう他、なかった。

「哲夫。私はあなたの事を、哲夫と呼びたい。私の事は、アスターリと呼んでください。よろしいでしょうか」

 アスターリは本当に嬉しそうだった。

 哲夫は「ええ、はい。ご自由に」とだけ答えた。

「それでは、少しだけ時間をいただきます」

 アスターリは、分厚い百科事典のような本を開いた。

「哲夫。良いですか? 私の手の上に、哲夫の手を重ねてください」

「ええ?」

「もちろん、嫌でなければ。の話ですが」

 哲夫は、何もかも、わからないままだった。

 ただ、アスターリの言う事が。

 どうにも、疑うに足りる理由がなかった。

 ほんの少しだけ。

 恐怖とか、迷いとか、疑いだとか。

 そう言う気持ちを抱きながら。

 哲夫は。

 分厚い百科事典のような本の上に重ねられた。

 アスターリの手の上に。

 自分の手を重ねたのだった。


 ほんの少し、昔の記憶。

 哲夫は、まっくらな中にいた。

 仕事を辞めてしまってから、何もない日々。

 灯のような輝きすらない、まっくらな日々。

 仕事を辞める前は、辞めてしまえば、何か人生が変わるような気がしていた。

 仕事を辞める事がただの思い付きだったのか。

 それとも辞める事が必要だったのかと言うと。

 辞める事が必要だった。

 哲夫は自分が、どんな人生を送っていたのかすらも、それまで気が付かなかった。

 仕事を辞める寸前に、誰かに言われて、ようやくそれと気が付いたのだ。


 ぼんやりと、遥かに遠い記憶。

 いつの頃だったか。

 漫画を描いていた頃もそうだったかもしれない。


 哲夫には安心して眠ると言う習慣がなくなっていた。


 それが、心の病であると気が付いたのは、仕事を辞めるほんの少し前だった。

 友人や同僚に、時々、眠れない事を冗談のように話していた。

 それは仕事おわりに同僚と飲んでいた時だった。

 いや、休日に友人と飲み行った時だったかもしれない。

 どっちだったのだろうか。もう、ぼんやりとしか覚えていない。

 仕事が終わって夜に寝ようとする。

 すると突然、身体が跳ね上がって、飛び起きてしまう事。

 眠りについても、悪夢を頻繁にみるし、その悪夢で目を覚ましてしまう事。

 たまに、心臓が痛いくらい鳴って、目の奥が痛くなって寝れない事。

 それが、忘れてしまうくらい昔から、ずっと続いている事。

 どう言う話の流れでそうなったのか、忘れてしまった。

 何かの飲み会の時に、自分がいつも眠れない事を、誰かに話した。

 その時、一緒に飲んでいた人の顔は、ぼんやりとしか思い出せないけれど。

 その人は、哲夫の話が進むたびに暗い顔つきになっていった。

 ひとしきり、冗談のつもりで。

 自分はいつも、まともに眠れない事を話し終わった。

 話し終わると、ぼんやりとしか思い出せないその人は。

 とても怖い顔をして、こう言った。

「次の休暇はいつだ。必ず病院に行け。いや、休暇を取って病院に行け。上司に許可が必要なら、俺がやっておく。必ずだぞ。約束しろ。絶対だぞ。今のお前に必要なのは、仕事じゃない」

 まっくらな世界のなかで、掘り起こされていく、哲夫の記憶。

 そうだ。あの後、休暇を取って医者に行ったのだ。

 そして、哲夫にはすぐには治せない、深い心の病がある事を。

 医者から告げられたのだった。

 哲夫は自分を医者に誘った同僚の顔も、病を告知した医者の顔も。

 もう、ぼんやりとした想い出せなかった。


「哲夫」

 

 自分の名前を呼ばれて、哲夫の世界が少しだけ明るくなった。

 レーレーがいた。

 哲夫もレーレーも、今よりずっと若かった頃。

 レーレーは少女。

 哲夫は少年。

 そう呼ばれていた頃の記憶。

 地方の叔母の家に、哲夫とレーレーだけで行く事になった。

 両親はまだ、離婚もしていなかった。

 家族四人で暮らしていた頃の記憶。

 哲夫も漫画を描く、ずっとずっと前だったし。

 レーレーともごく当たり前の姉弟として、ごく当たり前に暮らしていた。

 駅に向かうまでに、喫茶店に寄った。

 哲夫はそこで炭酸飲料の上にアイスを乗せた、フロートを食べた。

 レーレーは、アイスティーを飲んだ。

 駅に着くと、レーレーが二人分の切符を買った。

 そして、ホームでのんびりと電車を待っていた。


「ねぇ、哲夫。電車を乗り換える度に、姉と弟を取り換えっこしよう」

「うん、わかった。じゃあ、今度の電車が来たら、俺が姉だね」

「そうそう、そう言う事。ほら、もう、電車が来たよ」

「ええと、ええと。姉さん、電車が来たよ。切符出して」

「何を言ってるんだ、姉さん。切符を持ってるのは姉さんだよ、哲夫」

「そうか、そうだっけ」


「哲夫!」


 大きな声だった。

 哲夫は全身に力が入って、そのすぐ後に、ガクンと力が抜けた。


「大丈夫ですか、哲夫」

「ああ……」


 出会ったばかりの外国の老人の事が、頭から抜けていた。

 アスターリの事を、アスターリだと想い出すのに、少し時間がかかった。

「少し、他の記憶も混ざってしまったみたいですね」

「記憶?」

「ええ、そうです。私が哲夫の記憶を呼び覚ましたのです」

「そうか。そう言えば、確かにレーレーと二人で旅行した事があったよ」

「レーレー?」

 そうだ、アスターリはまだ、レーレーの事すら知らないのだ。

「俺の姉です。最も、相当に問題のある関係ですが」

「そうでしたか、なるほど」

 アスターリは、しばらく考えていた。

「哲夫、やはりあなたの中の呪いは、重く深いようです」

「うん、ええ……。俺も、そう想います」

「どうでしょうか、哲夫」

 アスターリは、ひと息、そこで吸った。

「私と一緒に、出掛けませんか。かなり遠くになりますが」

「あの、あのですね……」

 哲夫は、どう返事をしようか。

 本当に迷った。

 アスターリに悪意はない。

 

 空気の中を泳ぐ魚。

 ない筈のコーヒーショップの、四階。

 まるで、現実と変わらない、過去の記憶。

 それらが全て、トリックやイカサマであったとしても。

 アスターリに悪意はない。

 それだけは、どう言う訳か、確信していた。


 アスターリの顔を見る。

 賢く、誠実な瞳。浅黒く健康的な肌。

 よく見れば、鍛えられたであろう、壮健な肉体。

 そして、哲夫と同じく、眼鏡の奥の黒い瞳。

 その瞳の奥にある、哲夫にはない、深い知性。


 哲夫は何度か、アスターリの顔を見ては、考えた。

 詐欺をする者は、詐欺師の姿をしていない。

 詐欺をする者が、疑われる姿をしていては、詐欺にはならない。

 例えば、もし。

 アスターリが詐欺を働こうとしているなら。

 現時点では、大成功だ。


 しかし、哲夫の言葉にならない部分は。

 アスターリの悪意を、明確に否定している。

 哲夫は冷めてしまったコーヒーを、最後まで飲み干した。


 相変わらず、アスターリ老人の眼鏡の奥の瞳は、深い知性を感じさせた。

 哲夫は、ひとつ息を吐くと、アスターリ老人に返事をした。

「アスターリ、あなたが魔法使いだと言う、確信が欲しい」

 アスターリは、にっこりと笑った。

「当然の事だと想います。それは、すぐにわかります」

 その言葉は、柔らかな自信と誇りに満ちていた。

 哲夫はホットコーヒーを飲もうとした。

 さっき飲み干していた事に気が付いて、やめた。

 その時。

 バーガーショップの、持ち帰り用の白い紙袋が、目に入った。

「アスターリ、そのバーガーは、あなたの朝食ですか?」

「ああ、これですか。うっかっりしていた」

 そう言って、バーガーショップの白い紙袋を開けた。

 あっという間に。

 空気の中を泳ぐ魚たちが、それに群がって、バーガーを突いた。

「みんな、バーガーが好きでね。みんなの朝食が終わるまで、もう少し、お待ちください」

 そう言って、今度は。

 炭酸飲料の入ったコップを取り出して、ストローをそなえた。

 すると、さっき哲夫の背中を突いたジンベエザメが、やってきた。

 器用にストローを加えると、炭酸飲料を飲み始めたのだった。


 そして、なにかを、忘れてるような気がした。

「ああ、そうだ。そうだった……」

 哲夫は、猛青年との約束を、ぼんやりと想い出した。

「すいません、アスターリ。実は今日、今から。友達と約束があるんですが」

「お友達ですか、そうですね。その約束は大事ですか?」

「ええ、まあ。今は、その友達以外、付き合いもないんです」

「心配ありません、哲夫。その人に連絡を取って下さい。私が迎えに行きます」

「ああ、ええと……」

「大丈夫ですよ、哲夫。その友達の名前を教えてください」

「猛。陸島猛」

「タケル、ですね。わかりました。任せておいてください」


 哲夫には、もう、アスターリ老人を疑う理由がない。

 しかし、同時に、完全に信じる理由も見当たらない。

 アスターリは、そんな哲夫の目を一度見てから、こう言った。

「いきなりのお話で、混乱するのも無理はないと思います。物事には完全というものはありません。人への信頼も同じです。私は哲夫を裏切るかもしれないし、信頼に応えるかも知れない。その時になって、あれは間違っていた、正しかった。そうやって、結論だけで、全てを判断する事も、また、偏った事だと私は思っています。哲夫、これだけは忘れないでください」


「私はわたしの事を。貴方はあなたの事を」


「もし、哲夫に対して、私に何か間違いがあれば、哲夫。それを正せるのは、あなただけかもしれません。運が良ければ、他の誰かが、私たちに関わってくれるかもしれませんが。物事、特に人との関りは、そうでなければいけないと、私は思っています」

 哲夫は、アスターリの言葉を、何度か噛締めてから、こうやって返事をした。

「アスターリ。まるで心を読んだように、しゃべるのは良くない。例え魔法使いが、いや、例えば天才的な心理学者が、人の心の中を読めたとしても。それを、相手に向けて使うのは、決して良い事じゃない。心の中は、誰にとっても護られなけばいけない場所だから」

「これは失礼しました。哲夫の言う通りです」

 哲夫は、なぜか自分の心臓が高鳴っている事に気が付いた。

 目の奥が、ズキッと痛んだ。

 アスターリは、魚たちにバーガーの残りのクズを与えているところだった。


 哲夫は、自分の中にこの状況を言い表す言葉が見当たらずにいた。

 空気の中を泳ぐ魚たちが、朝食を終える間。

 窓際から、駅の人通りを眺めていた。

 ただもし、今の状況を言い表す言葉を、見つけるとしたら。

 それは、ひとつしかなかった。

 

 まるで、幻のように美しい朝日が。

 ビルの上で、美しく輝いていた。


 ない筈のコーヒーショップの四階。

 その窓際のテーブル。

 哲夫とアスターリは、どちらが言うともなく。

 そこから離れた。

 アスターリが哲夫の前を歩いた。

 相変わらず、百科事典のように分厚い本を脇に抱えていた。

 四階からの階段を降りて行くと、突然ドスンと、誰か。

 哲夫の背中を押した。

 炭酸飲料を飲んでいた、ジンベエザメだった。

「アスターリ」

「どうしました?」

 アスターリは振り返った。

 ジンベエザメが悪戯そうに、哲夫の背後に隠れたのを見てとった。

 哲夫の背後から、出たり入ったり。

 隠れたり、身を出したり。 

 グルグルと泳いでいた。

 アスターリは「うん」と言った。

 その後にこう言った。

「どうやら余程、哲夫の事が気に入ったようですね」

「良いんですか?」

「私は構いませんよ。もちろん、哲夫が嫌でなければ、の話ですが」

「嫌だって事は、ないけですけどね……」

 三階、二階、と階段を降りていく。

 こころなし、ジンベエザメは。

 さっきよりも、はしゃいでいるように見えた。

 今など、哲夫の頭の上でグルグルと身体を回していた。

 哲夫は、そっと、ジンベエザメの身体に手を触れた。

 手触りがある。

 ジンベエザメと、目があった。

 哲夫には、嬉しそうに笑っているように見えた。


 二人は階段を降り切って、コーヒーショップの自動ドアをから出た。

 すると、ジンベエザメは、するすると泳いで、物陰に隠れてしまった。

 駅前では、まだまだたくさんの人が行き交っていた。

 アスターリは、迷う事のなく歩いていた。

 哲夫はその後を、迷いながら着いていった。

 駅の改札とは反対方向だ。

 どちらかと言えば、人の流れのない方に向かっていた。


 アスターリは駅の敷地内を出ると、駐輪場に向かって行った。


 哲夫は、首を傾げた。

 この先には、二階建ての駐輪場しかない。

 自転車で、どこかに出かけようと言うのだろうか。

 駐輪場には、レンタルの自転車もあった。

 もしかしたら、それを借りて、ふたりでサイクリングでもするのだろうか。


「哲夫? 大丈夫ですか?」

「ええ、ああ。ええと……」

「ここで少し待っていてください。すぐに戻ります」


 言われた通り哲夫は、少しの間。

 駐輪場の前で待っていた。

 周りを見まわたすと、ジンベエザメが駐輪場の柱に隠れていた。

 哲夫の視線に気が付いたのか、ちょっとだけ顔を出して、こちらを見ていた。


 本当に、少しの時間だった。

 駐輪場から、自転車を引いて、アスターリが降りて来た。

 ジンベエザメが、駐輪場の柱からするすると泳いできた。

 哲夫の、ちょうど頭の上に来ると。

 ドスン。と、その上に乗った。

 

 アスターリの引く自転車の後部には、幌とタイヤが連結されていた。

 そして。幌の両脇には蝙蝠の羽のような模型が付いていた。

 哲夫はその自転車を見た時、ふと、微笑んだ。

 とても愉快な気持ちになった。


 アスターリは哲夫の前まで、自転車を引っ張って来た。

「乗って下さい。少し遠くになりますが、良い旅にしましょう」

「いいですよ、どこへでも行きましょう」

 そして、哲夫は「天気も良い事だしね」と、付け加えた。


 哲夫は自転車の後部に連結された、幌の中に入る。

 幌の中は狭かったが、座りやすそうな椅子が用意されていた。

 しっかりとした造りだった。

 哲夫は、そこに座って、これから起きる事に、想いを馳せた。


 ふと。外でアスターリが、何か言っていた。

 幌には、ビニールの窓が付いていた。

 ビニールの窓には、ジッパーが付いていたから、哲夫はそれを開けた。

 すると、ジンベエザメが、するすると飛び込んできたのだった。

「全く、しょうがないですね」

 アスターリが諦めたように、そう言ったのが聞こえた。

 哲夫は何も言わずに、ジンベエザメの喉のあたりを撫でた。

「これも、預かっていてください。椅子の下に引き出しがありますから、そこに入れておいてください」

 そう言って、アスターリは、百科事典のように分厚い本を。

 哲夫に手渡した。

 言われたとおりに、その本をしまおうとした。

 足元に、引き出しの取ってがあったから、そこに手をかけて、やめた。

 それはただの、思い付きだった。

 それでも、それをやってみたくなった。

「すいません、この本を、読んでみたいんですが」

 アスターリは、何も否定せずに、ニッコリと笑った。

「構いませんよ、少し遠いですから。暇潰しにはなるでしょう」

「ありがとう、アスターリ」

「それでは、行きましょうか。最初は揺れるので、しっかり掴まっていて下さい」

 その言葉の後、アスターリは前方の自転車に跨ったのだろう。

 幌の中が、グラッと揺れた。

 前方の方で何か。

 ガシャガシャと動いている空気を感じた。

 そのすぐ後。

 幌がゆっくりと、動き出した。

 幌に付いている窓から見える景色が、ゆっくりと動き出した。

 ジンベエザメは、もう、哲夫の膝の上に乗っていた。

 哲夫には、どうにもこのジンベエザメが。

 嬉しそうに笑っているように見えるのだ。

 

 いよいよ。哲夫を乗せた幌は加速していった。

 見慣れた駅前の景色が。

 幌から見える景色が。

 瞬く間に通り過ぎて行く。

 そして、車道に出た。

 四車線の、広い車道だった。

 幌は、いよいよ、さらに加速した。

 

 一瞬の、浮遊感があった。


 哲夫は、幌に付けられたビニールの窓から、外を見た。

 間違いなく空を飛んでいた。

 哲夫は、これから起こる事に想いを馳せた。

 ジンベエザメは、嬉しそうに幌の中を泳いでいた。

 哲夫も、同じ気持ちだった。


 アスターリと哲夫と、ジンベエザメを乗せた自転車は。

 あっという間に、雲の中に溶けて行った。


 哲夫は、タブレットを取り出した。

 そして、猛青年にメールを送った。

 それが終わった時。


 幌に付けられたビニールの窓から、外を見た。

 雲の上だった。

 それは言葉にならない程。

 圧倒的な景色だった。

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