『境界線上の約束』
青木克維
第1話 『猛青年とレーレー』
人の群れは草むらに隠れています。
足元から太陽に焦がされた。
日の当たる場所に言葉が産まれました。
わたしは川べりの草むらに寝そべったまま。
腹の上に手を乗せたでしょうか。
別れてしまった恋人を思い出したでしょうか。
ゆらゆらと心が揺さぶられました。
そうして。別れた恋人の想い出は心になりました。
川べりにいたものですから。
川べりから吹き付ける暖かい季節の風を感じました。
そろそろ寒さも癒える季節と知りました。
わたしは長い髪を編んだ。
わたしは黒い髪だったものですから。
編むとよく似合っていたよう。
白い、白い雲を眺めていると。
さっきまでの雨。
雨が振った後の事を忘れてしまうようでした。
この川べりの草むらで誰を望むのでしょう。
草むらに隠れた人の群れに何を望むでしょう。
寒暖激しさをまして尚。
変わる事ない夜でした。
ずっと忘れずにいるあの人も。
きっと変わる事はないのでしょうか。
金色に光っている月に照らされた、白い。
白い雲が。雲が。
その淵を金色に染めていました。
そんな金色の淵に染められた、白い夜の雲を眺めていると。
さっきまでの雨を忘れてしまうようでした。
誰かが、望むでしょうか。
何かが、望むでしょうか。
寒暖激しさをまして尚、変わる事ない夜でしたから。
ずっと忘れずにいるあの人は。
きっと変わって行くのでしょうね。
身体の中の小さな核に。嘆きのようなものがありました。
身体の中の大きな核に。焦がれのようなものがありました。
身体の中の一番、真ん中の核に。
後悔と呼べる想いがありました。
寝そべったまま、ごろりと川べりの草むらを転がって。
石やでこぼこの土が、背中を痛むようでした。
石やでこぼこの土に阻まれて、寝返りもままならない。
それはきっと、つまらない事なのでしょうね。
流れなくなった川の上。
いつまでも消えないのは、形だけではないのでしょうね。
知恵も信仰も思想も辿り着かなかった庭園に。
鮮やかな息吹に色付けして。
それは果たして忘れ物と言えるでしょうか。
何にもない筈の場所。知恵と真理の忘れ物。
心の中に見慣れない花が咲きました。
魂の中に、産まれる前から知っている景色がありました。
私は誰でしょうか。
私は何でしょうか。
私は今日でしょうか。
私は昨日でしょうか。
私は明日でしょうか。
風の無い夜には濃淡のある赤を。
開け放たれたような朝には浅い青を。
友達と呼べるあの人には、温もりのある緑を。
想い人と。片思いと呼ぶあの人に。薄い桃色のいとしさを。
一人きりの夜に、黒い。黒い絶望のような黒を。
山の景色は遠くに隠れています。
その景色は忘れてしまう程。
遠く遠くに隠れています。
男も女も、子供も老人も忘れてしまった私。
そろそろ家に帰りつく。
一緒に誰かといる事も、誰もいない事も忘れてしまった私。
家に帰ることを忘れてしまったわたし。
代わり映えのないの無い、それでいて激しいばかりの帰り道。
いつか、誰かと歩くでしょうね。
昼も夜も。休む事などないのでしょうか。
夜も朝も。変わらない事などないのでしょうか。
ただいまを言えば消えてしまう。
お帰りを言えば産まれていく。
さよならを言えば残されてしまう。
おはようを言えば始まっていく。
言葉を紡げば、わたしとあなたが繋がっていく。
川と風。草の歌。
神様の忘れ物。
陰の道を押し通して倒れた後に、それを拾う者さえいたならば。
求めて分け入らぬ理を今、問いかけたでしょうか。
春光の傍にいた。暁に閃いた。
その影に記憶の草が荒れるなら太陽の道。
悪魔の庭にいざ参らん。
煌きに優る幻に酩酊すれば忘却にも似た希望の行方にその姿がありました。
街の彼方に消えたでしょうか。
霧の彼方に消えたでしょうか。
産まれ変わるのは明日。
限りの無い暗闇の中で終わりを告げた。
私の言葉は言葉に足りない。
わたしの言葉は。伝えるに足りない。
嘆き悲しむには。まだ早い。
あの人を。あの人を想い、あの人に恋焦がれるなら。もう少し。
もう直ぐ訪れる春を。
もう直ぐ訪れる温もりを。
風の吹く春をのぞむように。焦がれていたい。
カーテンの隙間から光が差した。
哲夫は目が覚めてしまった。
部屋の明かりを点けずに、タブレットを手探りで見つけた。
画面を触ると青白く光った。
艶々した画面にアナログ型の丸い時計が映った。
光を目にすると、目の奥がズキッと痛んだ。
哲夫はいま。昼と夜が完全に逆転していた。
こんな朝に目が覚める事の方が、珍しかった。
最も今日は。
陸島猛(むつしまたける)と言う青年との約束があった。
そのせいで緊張して、眠りが浅かったのかも知れない。
哲夫はタブレットを弄り、鳴る事のなかったアラームを解除した。
そして、ベッドから起きあがった。
狭いアパートだった。
だから、ベッドの隣にはすぐに台所があった。
哲夫はその台所で顔を洗って、歯を磨いた。
猛青年との約束まで。
いくらでも時間があった。
哲夫はシャワーを浴びる事にした。
古くて狭いアパートだったから、ユニットバスだったけれど。
シャワーだけはちゃんとしていた。
ただ給湯を点火する時に、レバーを動かして着火するのだ。
とても古い形式だった。
哲夫がレバーを回すと、カキンカキン。と言う音がした。
ボウッと火が起こる音がした。
哲夫はそれを確認すると、服を脱いだ。
シャワーを出すと、少し熱かった。
全身に血液が巡っていく気がした。
気持ち良さはある。
だけど、それよりも、頭痛の方が酷かった。
哲夫は少し熱いシャワーを浴びながら。
陸島猛(むつしまたける)と言う青年の事を思い浮かべていた。
猛青年とは、同性愛者たちの集まりで出会った。
哲夫の姉のレーレーは同性愛者だった。
女性が好きな、女性だった。
その姉に、誘われて参加した、同性愛者たちの集まり。
同性愛者や、セクシャルマイノリティの為の。
反対者や、差別主義者のいない。安心して、話せる集まり。
そう言う事に理解のない人間は、必ずどこかにいるものだけれど。
そう言う事に理解のある人間も、また、必ずどこかにはいるものらしかった。
その時は、誰も住んでいない一軒家だった。
哲夫の記憶では、一軒家の家主は同性愛者でもセクシャルマイノリティでもなかった。不動産を親から継いで、家賃で生活している人の好い夫婦だった。
そう言う話だった。
哲夫は一度だけ、その集まりに行った事があった。
レーレーに誘われたのだ。
おそらく、何かの気まぐれだったのだろう。
哲夫は、今でもそう想っている。
その一軒家に行くと、広い客間に、色んな人が集まっていた。
哲夫はそこで、猛青年に出会った。
レーレーに誘われたという理由だけで行ったものだから。
最初は目的もわからなかった。
今だって、それは殆ど変わらない。
ただ同性愛者やセクシャルマイノリティの人たちの集まりに、何も考えずに参加しただけだった。
もしかしたら。
行けば楽しい事が何か見つかるかもしれないと思っていた。
それくらいの事しか、考えていなかった。
同性愛者やセクシャルマイノリティの人たちは。
社会の問題や、軋轢。
差別、蔑視。
受け入れてくれた人の事。
受け入れてくれなかった人の事。
そんな事を、みんなでとりとめなく話していた。
猛青年とレーレーは、その中でとても楽しそうに談笑していた。
それを見た哲夫が、これなら楽しそうだと思って会話に加わったのだ。
その時の猛青年の笑顔と。レーレーの笑顔を。
哲夫はくっきりと、鮮明に想い出せる。
ただ。その時、その瞬間。
レーレーと猛青年は、初対面だった。
同性愛者同士の、いくつかあるうちの世間話をしていた。
それにしても猛青年とレーレーは、あまりにも楽しそうだったけれど。
ただ、ふたりはありふれた世間話を、笑いながらしているだけだった。
だから、レーレーはすぐにその会話から離れた。
そのまま、別のひとたちと共に、とりとめもない話に戻っていった。
哲夫はなぜか。その時、その瞬間。
猛青年と気が合った。
同性愛とかセクシャルマイノリティとか。
そう言う事とは関係ない話を、ずっとしていた。
哲夫は猛青年と話を続ける為に、その二次会の居酒屋まで行った。
ずっとずっと。猛青年と話を続けた。
その時、その瞬間から。
猛青年は、哲夫の親友になった。
その二次会の居酒屋での会話の最中。
哲夫は猛青年に、姉のレーレーが同性愛者だ。
だけど、哲夫自身は同性愛者ではないと言った。
猛青年は不思議そうな顔をしていた。
その時、哲夫はちょっとした不安を覚えた。
気が合ったと言う安い気持ちで、その不安を猛青年に告白した。
「こう言う所に来ると、迷惑じゃないかと思って。俺は同性愛もセクシャルマイノリティも、何もわからない。だから、もしかしたら嫌がられるような事を平気な顔で言ってるかもしれない。例えばそう言う奴に、友達面や理解者面されて、拒む訳にはいかないから、周りが気を使ってるかもしれない。俺はそう言う事が、ちょっと不安なんだ。猛さん、そう言う人がこう言う所にいるのは、迷惑じゃないんですか?」
同性愛者やセクシャルマイノリティの人たちの集まりの二次会の時だった。
だから周りがにぎやかでうるさかった。
哲夫は、そう鮮明に記憶している。
「あのね、哲夫くん。変わって行く事は怖い事じゃないんだ。変わらない事が、必要な時もある。だけど、生きて行くって事は、変わって行く事なんだ。それは、絶対に曲げる事の出来ない事なんだよ。哲夫くん、あのね。君が変わる事を拒否したら、それは必要だからそうするんであって、生きて行くって事が、変わっていくって事が。消えてなくなってしまう訳ではないんだよ。哲夫くんが同性愛者やセクシャルマイノリティではなかったとして、それを拒むことの方が、僕は怖いんだよ。僕の周りの同性愛者やセクシャルマイノリティにとって、それが間違いだったとしても。僕は、僕の恐れる未来を望まないんだ」
哲夫が安い気持ちで質問した割には。
猛青年は、存外に難しい返事をした。
「その、猛さん。同性愛者やセクシャルマイノリティの人たちはみんな、そう言う考え方で生きてるの?」
「いや、それは僕にも誰にもわからない」
その時。猛青年がふと、笑顔になった。
哲夫はいつまでもそれを忘れる事が出来なかった。
「それとね哲夫くん。猛さんは面倒だから猛って呼んでよ」
哲夫は今でも、その二次会の事を細かく、細かく記憶していた。
空気の暖かさ。周りの賑やかさ。
不安と期待がどこまでも延々に入り混じったような。
例えようのない緊張感。
哲夫はその記憶でもって、猛青年への信頼を深く保っていた。
友情と呼ばれるような信頼を、深く抱いていた。
そう言う信頼の仕方が間違いなのかどうか。
哲夫はわからない。
ただ、答えが必要だとも思わなかった。
哲夫自身は、恋愛や性愛にほとんど興味がなかった。
ただ、対象は女性だった。
事実として、男性に恋愛感情も性愛も抱いた事もなかった。
だから哲夫は、猛青年に対して恋愛感情も性愛の衝動もない。
猛青年から哲夫に対しても、ほとんど同じ気持ちがあるのだ。
なぜかわからないけれど、それが確信としてあった。
だから、猛青年を親友として付き合っているのか。
そう問われるなら、また、それも違った。
それを説明するには実に微妙で、他者にはわかりにくい。
心の中で起きている事を哲夫自身が、言葉にしなければいけなかった。
哲夫は、それはする必要もない。
そう考えていた。
付け加えるなら。
必要な時が来たら、勝手にそれが起きるだろうと思っていた。
だから哲夫は、誰に何を言われても。
猛青年の事を、親友としてずっと付き合っていたい。
そう思っていた。
猛青年の方も、おそらく同じように哲夫の事を親友だと思ってくれていた。
そう言う事に、証明の方法はないけれど。
哲夫は、その感覚を疑う理由を持っていなかった。
哲夫はシャワーを浴び終えて、身体を拭いた。
身体を拭いて、Tシャツを着替える頃。
視界の端に黒くて、長い物が動いていた。
哲夫は見ないようにしてた。
どうせそのうちに、勝手に消えていく。
心の病のせいで。
神経もまた、正常ではないのだろう。
その時の哲夫は、まだ。
そうやってその事を軽く考えていた。
シャワーを浴び終えた哲夫は米を研いだ。
昼と夜が逆転してしまった哲夫にとって、珍しい事だった。
いつもなら太陽がおちて、暗くなった頃。
炊飯器のスイッチを入れていた。
今日はちょっとだけ、いつもと違うようだった。
哲夫は、換気扇を回した。
ご飯が炊けるまで、幾分かの時間があった。
哲夫は料理が得意でもない。
本当の事を言えば、嫌いだった。
料理は大嫌いだった。
今だって、それは変わらない。
ご飯が炊けたら。生卵をふたつ。納豆をひとつ。大盛りの白米。
それを、朝食にするつもりだった。
なんでもない、ちょっと偏った朝飯。
なんでもない、いつもの朝飯。
なのに、どう言う訳か。
今朝の玉子かけご飯は、まずかった。
卵の味も、醤油の味もしない。
まるで、プラスチックを、嚙んでいるようだった。
いや。消しゴムを食べているようにさえ感じた。
とにかく、不味かった。
しかし、不味くとも独り暮らしの朝飯である。
生卵をふたつ。納豆をひとつ。大盛りの白米。
それを胃の中に、流し込んだ。
消しゴムを食べているような。
そんな不味い朝食を終えて、哲夫は出かける準備をした。
猛青年との約束があった。
だから、気分のよくならない朝食だったけれど。
それほど落ち込んではいなかった。
哲夫は猛青年に会う準備を終えると、アパートのドアを開けた。
春が来て、間もない外気に触れた。
気持ちの良い風が吹いていた。
それがまるで、幻ですらあるように感じられた。
それは、季節の変わり目だったのだと思う。
気温も湿度も丁度よかった。
天気だけはとても気持ちの良い朝だった。
頭の芯が熱くなった。
目の奥が縛り付けられるように、ズキッと痛たんだ。
目の奥の酷い痛み。
それは心を病んでしまった哲夫の、深く重いストレスが原因だった。
なんでもない時、なんでもない事で。
そうやって、目の奥が痛むのだ。
哲夫は痛む目の奥から、意識を散らした。
昨日の夜の事を思い返していた。
何時ものとおり、ほとんど眠れなかった。
この所、ずっとそうだった。
いや、もう何十年もそうだった。
いつまでも変わらない、眠れない夜。
働いていた時も。働くのをやめた時も。
同じようにずっとずっと。眠れなかった。
いつか、気の遠くなるような昔から。
ずっとずっと、そうだった。
だから、それに慣れてしまった。
目の奥の痛みは相変わらず、激しい。
ただ、歩きだしてしまえば、目の奥はあまり痛みを感じなくなった。
いや。感じてはいる。ただ、歩く事で痛みは紛れていはいた。
哲夫は、目の奥の痛みを。
痛みをかんじたままに。ほとんど、気にしなかった。
春になったばかりの、まるで幻のような風に吹かれた。
哲夫は春の香りを全身に感じながら。
アパートの階段を降りた。
哲夫の住むアパートの最寄り駅には、コーヒーショップのチェーン店があった。
猛年との約束には、まだまだ時間があった。
哲夫はそこでひとまず、コーヒーを飲もうと思った。
今日に限らず、心を病んでいる事がわかって仕事を辞めた頃から。
昼と夜が逆転してしまった頃から。
そこでコーヒーを飲む事が、哲夫の楽しみになっていた。
今の哲夫にとって、そう言う時間は、程よく気を休める事が出来る時間だった。
働いてもいないのに。
わざわざ店に行ってコーヒーを飲むのは、お金の無駄遣いだった。
けれど、猛青年に会いに行く事は別にして。
それ以外のお金の使い道も、あんまりなかったのも事実だった。
ぼんやりと、駅前までの道を歩いた。
今はまだ朝だ。
道すがら。制服姿の学生たちや、スーツ姿の会社員たちが、ひとつの流れのようになって、駅前までゾロゾロと歩いていた。哲夫は今、そのどの人達にも関わり合いがなかった。その度に哲夫は、ひとつの流れのように、ゾロゾロと歩く人々を眺めた
自分が今、何者でもない事を知った。そんな時哲夫は、寂しいような。なんでもないような。或いは、誇らしいような。不思議な。もしかしたら心地良いと呼べるような。ふわふわと浮遊したような虚無感を覚えた。そのまま、なんの関係もない人々の流れに混ざり歩いていった。この時間が、何の為に流れているのか。哲夫は眠れなかった頭で、ぼんやりと考えた。自分にとって、今。この時間は必要なんだろうか。時間が余っているから、コーヒーショップでコーヒーを飲む事に、どれほどの意味があるんだろうか。歩きながら、そんな事を、なんの意味にもならない事を考えた。そうやっていると、駅前の交差点が見えて来た。周りを見渡すと、人々は駅に向かって、吸い込まれるように流れていった。その流れから外れると、また。ふわふわと、浮遊したような、もしかしたら気持ち良いと呼べるような、虚無感を覚えた。
「哲夫!」
突然、自分を呼び止める声がした。
女性の声だった。
哲夫はふわふわとした虚無感を、寝不足を。
目の奥の痛みを抱えていたので。
最初はその声を聞き逃した。
耳には届いているのに、脳の奥では聞こえていなかった。
最初はそのまま歩き去ろうとした。
「哲夫! ボーっとしてんな! 哲夫ってば!」
女性の声が、ようやく哲夫の脳の奥に届いた。
脳の奥に、自分の呼ぶ声が届いた。
哲夫の目の奥が、ズキンと痛んだ。
「ああ、レーレーか」
レーレーは、哲夫の姉である。
彼女は駅前のバス停に、立っていた。
哲夫に向かって、元気よく手を振っていた。
他に数人、バス停に並んでいた。
レーレーはそこから抜け出して、哲夫の近くに小走りでやってきた。
仕事に行く途中だったのだろう。タイトなスーツを着ていた。
「どうした、哲夫。こんな朝早くに。ようやく働き始めたか」
レーレーは哲夫の近くまで来ると、威勢の良い声で話かけてきた。
レーレーは駅を挟んで、反対側のマンションに住んでいた。
哲夫は、寝不足の頭で、ようやくその事を思い出した。
「うん、いや。猛と約束があって、時間が余ってるからコーヒー」
「なんだ?」
「コーヒーだよ」
「コーヒーなら家で飲めばいいじゃないか? わざわざ、歩いてきたのか? アパートから?」
「他にやる事もなくてね」
「そうか、まあ元気そうでなにより」
「そうでもないよ、夜は今だに寝れないしね。今だって、眠いくらいだ」
「医者から貰った薬は飲んでるんだろ?」
「飲んでるよ。バスが来たぞ、レーレー」
そう言って、哲夫は道の反対側に停車したバスを指さした。
「まあ、いいよ。少し話そう」
「いいけど、仕事の時間には間に合うのか?」
「充分間に合うさ。哲夫。仕事を探してるのか?」
「いや、医者はまだ休むべきだって」
「そうか。たまには友達と遊んだりしてるのか?」
「それくらいならね」
猛青年と会って、とりとめなく時間を過ごす。
そう、哲夫には今、それくらいしか人との付き合いがなかった。
哲夫は仕事をやめてから、猛青年以外のほとんどの人とは、付き合いを避けていた。なにがそうさせる訳でもなかった。なんとなく、誰かと心を許して付き合うという事を、避けていた。
いや。もう少し、本当の事を言えば。
仕事をやめる前から、心を許して付き合った友人など、ひとりかふたりのものだった。今はそれが、猛青年ひとりになってるだけだった。哲夫にとっては、それが、ずっと当たり前の事だった。
「ふうん、そこそこやってる訳だな」
「そこそこね」
「漫画は?」
「ん?」
「漫画は描いてるか?」
「いや、それは」
哲夫は、ずっと昔。
学生と呼ばれていた頃。
漫画を描いていた。出版社に投稿する所まではやった。
出版社に漫画を送って、選評を貰った所で、気力が尽きた。
パソコンやインターネットが普及してから、専用のツールを買った。
いたずらに漫画を描いた事もあった。
けれど、完成するまで気力が持たなかった。
つまり、ずっと昔。哲夫は夢に破れていた。
「なあ、哲夫。夢は大事だぞ。趣味でも、生き甲斐でも良い。哲夫が最初に漫画を描いたのは、学生の頃だったろ? その頃から続けられる事なんて、あんまりないぞ。人が夢や希望を持って、それに向かって生きるのは、生きている証拠みたいなもんだ」
「ああ、わかるよ」
「漫画、描けよな。好きなんだろ?」
「うん、ああ」
「その気のない返事だな、わかりやすいな、哲夫は」
「そうかな」
「そうさ」
「じゃあ、そうなんだろう」
レーレーは、鼻から大きく息を吸った。
「なあ、哲夫。私との約束は忘れるな」
「約束?」
「もし、誰かを殺したくなったら、私を最初に殺しに来い」
「ああ、そんな約束したっけ」
哲夫の目の奥が、また、ズキンと痛んだ。
「ぼうっとしてんなよ。何かを目指して生きていける時期なんて、ほんの一瞬だ。そう言う時が来たら、全力でやれよ」
「うん、そうだな」
そんな会話をしているうちに、次のバスがやって来た。
「じゃあな。私はもう行くよ」
「うん、またな。レーレー」
そう言って、姉弟は、バス停の前で別れた。
まだ、通勤や通学で、人が歩いていた。
哲夫はレーレーとした会話を、少しの間反芻した。
夢や希望と言う言葉を聞いた気がする。
けれど、すぐにそれを反芻する事をやめた。
今はそれ以上に、猛青年との約束や。
コーヒーショップで飲むコーヒーの方が、哲夫には大事だった。
駅前のロータリーで、人の流れから外れた。
コーヒーショップのチェーン店に入ると、朝のひと時を過ごそうと言う客で、あふれていた。哲夫は、のろのろとした、しまりのない動きで、混んでいるカウンターの列に並んだ。コーヒーショップのカウンターで、メニューを眺めていると、哲夫はサンドイッチが食べたくなった。
朝食は味気なく、まずかった。そのせいもあっただろうか。
哲夫はモーニングセットを頼んだ。
モーニングセットの内容は。サンドイッチとコーヒーとクッキーだった。
キッチンの店員がモーニングセットを用意してる間。
カウンターにいた店員が話しかけて来た。
「お客様、大変申し訳ございません。ただいま混雑しておりますので、四階の席をご利用ください」
「四階?」
哲夫は、思わず聞き返した。
このコーヒーショップのチェーン店は、三階までしかない。
「はい、四階の席をご利用ください」
哲夫が何かを聞き返す前に、モーニングセットが用意されて、手早くトレイに並べられた。
哲夫は言われた通り、コーヒーショップの階段を、四階まで昇って行った。
階段を登りながら、何度も記憶を探った。
どう想い出しても。
このコーヒーショップは、三階までだった。
それほど、気にするほどの事ではない。
哲夫はそうやって、自分の中の疑問を払った。
四階まで昇ると、誰もいなかった。
哲夫ひとりだった。
ただ、その代わり。
たくさんの魚が、空気の中を泳いでいた。
一匹大きな魚が、哲夫に悪戯するようにして、突いてきた。
確か、ジンベエザメと呼ばれる、大きな魚だった。
泳いでる魚たちを眺めながら、哲夫は窓際の席に座った。
窓際から外を眺めると、ずっと下の方で。
駅に流れ込んでいく人々の流れが見えた。
なんだかそれが、魚が空気の中を泳いでいる事よりも。
不思議な事なような気がした。
哲夫は、サンドイッチを齧りながら、その様子を、ただじっと眺めていた。
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