第二回葉月賞 好きだった作品について少しだけ

 今回も、うみべ賞のおまけデータです。

 選ばせて頂いた作品のほかにも素晴らしい作品がたくさんありましたので、その中で印象が深かった3作品について少しだけ書かせて頂きます。

 これらの感想は、私が勝手に思ったことを書いてるだけですので……読み方として正しいかは分かりません。私はこんなふうに読みました、ということで。よろしくお願いします。



① 諏訪野 滋 様「初盆は夏の嘘」


 美しく、そして優しい作品です。

 すごく大きい事件やドラマチックな展開でぐいぐい引っ張っていくわけではないけれど。二人が抱えるもの、そしてその背景にある人間の思いを丁寧に描くことで読者を物語世界の中に立ち止まらせ、じんわりと暖かさを伝えていく。そんな作品です。こういう作品、大好き。

 決して派手に人を引き寄せる作品ではないのですが、何故か人を惹きつけて離さない不思議な魅力があります。Web小説ではスロースタートの作品は好まれないとよく言われますが、この作品の魅力はWebでも変わらずに伝わる気がする……その理由は断言できないのですが、作者様の文章力によるものかな、と思います。

 最序盤で、「初盆って何?」って疑問に思いながら、読者が小島さんと同じ目線で真希さんの話を聞くことで、いつの間にか物語世界の中に誘い込まれる。そのような書き方に表れているとおり、世界観の理解の妨げになる要素が全くなく、知らず知らずのうちに読者が物語の中に主体的に入り込んでいく力を持った作品でした。


 そして、最後の『あれから再び夏が来て、そして私にはどうやらパートタイムの家族が出来たらしい。』から始まる部分がすごく好きです。

 借りれば済んだはずの喪服を買おうとする小島さんを見ると、小島さんにとって真希さんがどういう存在であるかがよく分かりますよね。

『昇給の望みなどあるはずもなく、今の仕事を何年勤めても収支はほぼプラマイゼロが確定している』という小島さんにとって、喪服って決して安い買い物ではない。のですけれど。別にそこにお金を出すことに躊躇したりはしない。

 お金って、「いくら使うか」でも「何に使うか」でもなくて、「誰のために使うか」なんですよね。この喪服は、二人の関係性に対する小島さんの愛情の表れです。


 レンタル彼女のほうが稼げるのかな、という小島さんの発言もありましたが、まぁ今となっては実際に転職するなんて微塵も考えていないでしょう。

 お金は誰のために使うかが重要であり、だからこそ、どうやって稼ぐかが気になるところでしょうからね。誰が気にするのか? それはまぁ知らないけど。




② 佐藤宇佳子 様「天窓」


 夏とは、届かない光に手を伸ばす視線のエネルギーである。

 と仮定するならば、この作品はこの上なく夏そのものです。

 本物の夏は天窓の向こうに見えているのに、自分はいくら手を伸ばしてもそこに触れることが出来ない。自分が触れることが出来るのはただ、それっぽい理想を詰め込んだ、そのイデアだけをなぞってトレースした作り物の夏でしかない。

 という感覚。なんかすごく分かりますよね。

 例えば、私が「夏」というお題で小説を書くとき、「これは本当に夏を描いているのか?」という感覚に陥ったりする。背景としての夏を書ける。夏のイデアを描写することも(きっと)出来る。でもそこに夏の手触りはあるのか? って。


 うん。ほたるちゃんの気持ちは分かる。

 でも別に、音楽は『毒々しいほど鮮やかな色合いのゼリー菓子、舌が真っ青になるかき氷、果物以上に果物っぽいかおりがするアイスキャンディ』だけしか作れないものではないのです。(って私は思いたい)


 天窓の向こうは夏に繋がっている。

 この防音室からいくら手を伸ばしても、自分は夏に届かない。

 じゃあどうすれば良いの? って、話は簡単で。外に出れば簡単に触れられる。


 ほたるちゃんは若いので、自分の見えている景色だけ、自分の立っている場所から触れる世界だけ、それだけが全てだと思い込んでしまうこともあるかもしれない。彼みたいな根っからのアーティスト、外の世界との距離感を測るのが苦手な人ならばなおさら。

 だから。一度、防音室の外の世界を見れば。本物の夏の湿度、埃っぽさ、うるさいセミの鳴き声なんかに目を向ければ、もう少し表現も変わるんじゃないかな。と思うわけです。

 そして、その世界への扉こそが山背さんだったわけですね。

 他者の存在で容易に音楽は変わる。自分の音楽が他者を変える。


『体ん中にぎゅうっち閉じ込められちょる岩檜くんの気持ちが伝わって来た』

 山瀬さんが言うとおり、音楽とは、アートとは、自分の世界を伝えるもの。


 つまり、アートとは対話でもある。アーティストと受け手の対話。それが無くてただ自分の内側に閉じこもっても、まぁ確かに完成はしないよね、紛い物でしか無いよね。

 そう思います。

 だからきっと、この出来事の後、岩檜くんの音は変わったはずだと私は思います。本物の夏に触れられるかは分からないけれど、きっと、少しだけ世界の手触りを知った音。

 こどもと大人の間の不安定さを描くことで、この一瞬における二人の変化を立体的に描いた作品である。と思いました。




③ ミナガワハルカ 様「私の人魚姫」


 とても美しい作品でした。特に最初の場面。導入からして圧倒的です。

 この場面に限らず、作中、人魚を見つめる場面はエロスとタナトスが混然一体となった美しさがあり、かつ官能的でもあり。純文学的な静のエネルギーを強く感じます。

 そして、ひとつひとつの描写が研ぎ澄まされており、神経が行き届いている。そんな詩のような針先の光を感じました。

 『海。』から始まる5行が特に凄いと思うのですが、


『昼間の暑気はいつの間にか霧散していた。

 黙って彼女を見つめる私の背中を、汗が滑り落ちた。』

 ここは本当に強いです。

 暑気が霧散しているのに、私には汗が滑り落ちている。ということ。

 こんなふうに、言葉を尽くさずに感情と、感覚と、状況を、短い文章で表現する。作者様には詩の素養もあるんだろうな、と感じた次第です。


 人魚は古来より、嵐の前触れ(例えばセイレーン)や死を運ぶもの(例えばローレライ)と見做されることが多い存在です。

 このイメージと、水の中に住まう者 ⇒ あまりにも酷い現実世界の中で息が出来ないでいる というイメージが絡み合い、「私」が人魚を人間にしようと鱗を剥がしていく場面はひとつのイニシエーションのように見えました。

 鱗とは自分の過去であると明言されていますが、それを剥がしきることは、従来の自分を完全に捨て去ること。何者かになるために、何かを失う。

 もはやそれは、一度死んでから生まれ変わることと同義です。


 鱗を剥がすためには、鱗を見つめないといけない。

 これまで、主人公にとっての鱗とは母親でした。父親のために何もできない自分を詰る母親。でも実際は違った。実際に見つめることで、その鱗は母親ではないことに気づいた。本当に自分の重荷になっていたのは、母親には当然に出来ることを出来ない自分自身だった。

 それは確かに主人公にとっては世界が反転する出来事であり、一度死ぬにも等しいことなのかな、と思いました。


『気づけば人魚は、何も言わずに、ただ私の頭を撫でてくれていた。その手つきは、あまりにも優しかった』

 こどもの時間を過ごさなかった人は、こどもを卒業できない。ってよく言いますが、主人公が今まで得られなかったもの、今まで必要としていたものは、誰かに優しく頭を撫でてもらう時間だったのかなって思いました。

 振り返りたくもない過去を思い出すのは当然に痛みを伴うのですけれど。その結果として自分自身を許す。愛情を与えられても良い存在なのだと伝える。これこそが卒業式であり、今までの自分を殺すイニシエーション。

 言うなれば脱皮。ですけれど。人の皮は簡単に剥がれるように上手くは出来ていないのです。


 この一連の内的な葛藤と解放を、美しい作品世界として成立させる。現代的な幻想文学として、レベルの高い作品であると感じました。

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二丁目スナックさいかわ うみべ編 うみべひろた @beable47

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