第3話

 ユスティナは、大きく伸びをした。

 空はどこまでも青く、まるで彼女の心を映し出しているようだ。

 頬をなでる風が自由の匂いを運んでくる。


 ああ、まさに今自分は自分の意志で歩いているのだ。

 その喜びをかみしめ、ユスティナは声をあげた。


「ついに自由だわ! ああ、すっきりした!」


 心の底から喜びが湧き上がってくる。

 かごの中の鳥のような日々は、もう終わった。

 これからは、息を殺して暗い部屋で一日をひっそりと過ごす必要はない。理不尽に冷遇されることもなく、自分の意志で生きられる。


 ユスティナは、腰に付けた小さな刀に手を触れた。

 小さな頃から護身術を習っていたので、ある程度はこれで戦うことができる。女性を襲う不届き者から身を守る程度なら問題ないはずだ。

(もっとも、辺境伯やウォルフに比べたらすごく弱いけれど)

 一騎当千の武者たちの姿を思い浮かべ、ユスティナは小さく笑った。

 今さらだが、城の中で閉じ込められていた間は、少なくとも暴漢に襲われる心配はしなくて良かったのだと思い至る。

(まあ、それでもこの自由とは代えがたいわ!)

 ブラウンスベルク家の面々を思い浮かべそうになり、あわてて思考を切り替える。

 もうすぐ自分とは関係のない人になるのだから、すっぱり忘れようと言い聞かせた。


 勢いよく城を飛び出したけれど、きちんと予定は立ててある。

 まずは南から森を迂回して西へ向かうつもりだ。最終的には国の中心にある王都を目指すことに決めていた。

 この国は、北にユスティナの実家のモンテーニュ家、南にブラウンスベルク家があり、南西には隣国との境界がある。そして国の中心部にあるのが王の住む王都だ。


 ユスティナは、地図を広げルートを確認した。

 険しい道のりだが、彼女の心は希望に満ち溢れている。

 どんな困難が待ち受けていようと、この半年間の鳥かご生活に比べたらなんてことはない。


 ユスティナは、城から歩き続け、足取り軽く最初の街の門をくぐった。

 もう夕暮れ時だったが、まだまだ街には活気があふれていた。


「まずは服装よね。さすがにこのドレスで旅をするのは厳しいわ」

 自分の着ている衣装を見て、ユスティナはため息を吐いた。

 一番動きやすく丈夫なものを選んだが、それでもこれはあくまでも貴族の女性が平日家で着るためのドレスだ。

 今後のことを考えると、もっと軽装で気軽に街を歩ける服が必要だろう。


 衣装店は街の大通りにあった。

 幸い、城に押し込められていたユスティナの顔を知る者はいない。

 その仕草やドレスから、どこかの貴族の令嬢くらいに思われているはずだ。

 

「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」

 明るい店内を見回し、旅の軽装を探していることを告げる。

 ユスティナの希望を聞きながら、気の良さそうな店員が、あれこれと案内をしてくれた。


「でしたら、こちらの品などいかがでしょう。軽くて丈夫、動きやすさも抜群ですよ」

 提案されたのは、鮮やかなブルーのワンピースと、それに合う革製のブーツだった。

「いいわね。すごく可愛い。それに動きやすそうだし……。試着しても?」

「もちろんです。どうぞこちらへ」

 ワンピースを受け取りながら、試着室に入ろうとした。

 その時。


 隣の通路から、陰鬱な声が聞こえてきた。

「……だから、その色は似合わないと、前から言っているだろう! それにわざわざこんな高いものを選んだのか! お前にそんな金をかけるだけの価値があるとでも? 考えたらわかりそうなものだ!」

「だって……これは、あなたが……」

「言い訳をするな! お前は黙ってワシの言うことに従えばいいんだ! まったく、服を自由に選んでみろと試してみればこのありさま! ほら、手間をとらせた店員に謝れ」

 おそらくそれは、夫婦の会話なのだろう。

 しかし夫の声はあまりにも陰湿で、妻の声は今にも泣きそうだった。


 ユスティナは眉をひそめた。

 気になって見てみると、そこには貴族風の夫婦がいた。

 夫は妻に向かって怒鳴り散らし、妻は俯いて震えているようだ。

 店員は、貴族の男性に何か進言できるはずもない。

 いっきに店内の空気がよどんだ気がした。


「ああ、もう!」

 ユスティナは首を振る。

 あんなもの、黙って見過ごせるわけがない。

 そうと決まれば、2人のいる通路までずかずかと割り込んでいく。なお、ブルーのワンピースは気に入ったので取り置きをするよう店員に手渡した。


「黙って聞いていれば、あまりにも酷い言い方じゃないですか? 聞いていて不愉快だわ」

「誰だ、貴様は」

 貴族の男は、いきなり現れたユスティナを値踏みするように見る。

 ユスティナも、負けじとばかりに男を見据えた。

 たっぷりと腹に肉を蓄え、だらしなく太った体の男だ。言葉遣いや装いから下級貴族だということが察せられる。その男は、長めの髭をなでながら、幾分威圧感のある雰囲気を醸し出していた。


「私が誰だっていいじゃない。それよりも、あなたの大声が店中に響いて迷惑なんですけれど」

「はっ! どこの小娘か知らんが、ワシはシニスター男爵だぞ!」

 シニスター男爵は大きく舌打ちをしてユスティナを睨みつける。

(誰彼かまわず威圧する態度って、いかにも小物なのよね)

 ユスティナは男爵の威圧的な態度に一切の忖度をせず踏み込んだ。


「お貴族様ともあろう人が、こんな場所で怒鳴り散らして恥ずかしくないの?」

「な、ん、だ、と……!」

 どうやら、彼の怒りにあっさり触れたらしい。


 男爵は顔を真っ赤にして何度も床を踏みつける。

 ダンダンと、不快な音が店内に響いた。


「あの……主人が申し訳ありません」

 ここにきて、ようやく男爵夫人が口を開く。

 彼女は小声でそう言ったかと思うと、申し訳なさそうに頭を下げた。


「あなたねぇ。今は私とこの男が言い争って嫌な空気を出しているのよ? あなたは謝る必要がないじゃないの」

 なんと弱々しいご婦人だろうか。

 ユスティナは呆れたように夫人を見る。

「は、はあ」

 夫人は困ったように首をかしげた。


「貴様、黙って聞いていればいい気になりおって!」

 再び男爵が声を荒らげる。

 ユスティナは男爵を睨み返した。


「人前で大声を出すなんてみっともないわよ。それに、妻を貶めるような言い方をするなんて! 見たところ、やっとその地位にしがみついているだけの下級貴族のようだけれど、高貴さの欠片もないわね」


 男は男爵であることを盾に脅しをかけてきた。

 だとしたら、こちらも容赦する気はない。

 立場を利用して相手を苛むなど、ユスティナが一番嫌うことだった。


 一方、ユスティナの言葉に、男爵は激昂した。

 彼は顔を真っ赤にし、勢い良く腕を振り上げる。


「こざかしい小娘め! ワシがしつけてやる!」


 あきらかに言葉ではかなわないから暴力に訴える様子だ。

 ユスティナは周囲に視線を走らせた。この狭い店内で、小剣を構えて立ち回りをするのは難しいだろう。怒りに我を忘れている男の拳を避けながら走れそうにない。

「この……、なんて短絡的な……!」

(これなら、自分の行いを恥じた辺境伯の方がまだましだわ)

 ユスティナは心の中で呟き、次の手を考える。

 辺境伯は傲慢でユスティナを目の敵にしていたけれど、少なくとも直接的な暴力は振るわなかった。

 それに比べて、目の前の男は……。


「なによ、負けそうになったら暴力?」


 ユスティナはわざと挑発するようなことを言った。

 何とか男の怒りを煽り、隙を作ろうとしたのだ。


「だまれ……!」

 男が腕を振り下ろす。


 その時だった。

 男爵の手が、別の手に掴まれたのだ。


「痛い! 痛い!」


 男爵が悲鳴を上げる。


「え……?」

 ユスティナは、突然現れた、良く知る男の姿を見てぽかんと口を開けた。

 男爵の背後から手を伸ばし、がっちりと腕を縛り上げている見慣れた男。

 彼は真っ青な隊服を身に纏い、いくつもの勲章を揺らしている。

 美しい銀髪と、鋭い眼光を持ち、長身でがっしりとした筋肉質の……。それは今朝がた離婚を叩きつけたブラウンスベルク辺境伯の長男。ウォルフ・フォン・ブラウンスベルクだった。


「一体何の騒ぎだ。まさか、貴族の男ともあろうものが、女性に暴力を働こうと言うのか?」


 ウォルフは冷たい声でそう言い、男爵を見下ろした。

 力でねじ伏せられ、男爵は震え上がる。

 彼はウォルフの圧倒的な力に、まったく逆らうことができない様子だ。


「次はない。さっさとここから去れ」

「わ、わかりました……」


 男爵は絞り出すような声でそう言い、慌てて逃げて行った。

 それを追うように男爵夫人も店を出る。

 去り際にぺこりと頭を下げられ、ユスティナは力なく手を振り返した。


 さて。


「君は、一体こんなところで何をしているのだ?」

 呆れたようにウォルフがユスティナを見る。


 何をしているも何も、服を買いに来たのだが……。

 それはこちらのセリフだと思いながら、ユスティナはため息を吐いた。

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