第2話
遥か昔より、武を重んじる辺境伯ブラウンスベルク家と、知を尊ぶモンテーニュ家は、互いに相容れぬ宿敵同士であった。
政治思想の違いに始まる長年の遺恨が、両家の間に深く暗い溝を刻んでいた。
近年、王は、長きにわたる両家の不仲を嘆き、この状況を打開しようと思案していた。
そして思いついた策が、婚姻による結びつきである。
すぐさま王は命じた。
すなわち、ブラウンスベルク家の嫡男ウォルフと、モンテーニュ家の息女ユスティナとの結婚を、である。
年齢も、ウォルフは21歳、ユスティナは18歳と、ちょうど良いとされた。
しかし、この婚姻は決して両家にとって喜ばしいものではなかった。
ブラウンスベルク家当主は、武門の誇りにかけてモンテーニュ家との繋がりを嫌い、モンテーニュ家当主もまた、知略家としての自負から武力偏重のブラウンスベルク家を蔑んでいた。
それでも、王命は絶対であり、両家は渋々ながらも婚礼の準備を進めた。
そうして結ばれた婚姻のため、ユスティナはたった一人でブラウンスベルク城へとやって来た。
通常であれば、モンテーニュ家から大勢の従者が同行するはずだが、両家の思惑が絡み合いユスティナただ一人が嫁ぐこととなった。
当然のように、彼女を待ち受けていたのは、政敵の家門の者としての冷遇だった。ブラウンスベルク家の者たちは、ユスティナを政敵の娘として蔑み、冷たくあしらった。
食事は粗末なものしか与えられず、部屋も城の端にある薄暗い一室だけ。
誰一人としてユスティナに温かい言葉をかける者はいなかった。
そんな扱いを受けながらも、ユスティナはしばらくはおとなしく耐え忍んだ。出入りの商人と少しずつ仲良くなり、ひそかに食べ物を融通してもらうことで食いつないだ。両親が持たせてくれたお金は目減りしたが、そうしてでも食べなければ生きていられなかっただろう。
義父の睨みを受け流し、義母の嫌味や陰湿な攻撃を何とか回避し、ひっそりと息を潜めて生活した。
ユスティナはそれでも、いつかブラウンスベルク家の人々に受け入れてもらうことを願っていた。
と同時に、この境遇に耐えるのは半年だけだと決めていた。半年経っても状況が変わらないのであれば、きっぱりと諦めるつもりだった。王命だからといっても、我慢にも限界があるのだ。
このことを知っているのは、兄だけだった。
もし夫となったウォルフが少しでもユスティナに心を砕いてくれたのなら、相談しようと思っていたのだが……。
当然、そうなることはなかった。
そして、ユスティナの境遇に、なんの改善もないまま半年が過ぎた朝。
朝日が差し込む部屋で、ユスティナは目を覚ました。
体を起こすと、微かな疲労感が全身を包む。
侍女が来る気配はない。
普通の貴族の家ならば、侍女が部屋にやってきて着替えを手伝ってくれるのだろう。
だが、この家でユスティナの着替えを手伝ってくれる侍女はいなかった。
仕方なく自分でドレスを着ることにする。
手慣れた様子でドレスに袖を通し、慎重にリボンを留めていく。こういう事態を想定し、一人で脱ぎ着できるようなドレスを持参していた。半年前の自分に拍手を送りたい気持ちだ。
「まあまあの出来栄えね」
今日はいつものドレスではなく、丈夫で動きやすい簡素なドレスを選んだ。その上に上品な羽織をかぶり、薄汚れた鏡を覗き込む。
誰も彼女の部屋を掃除しないため、日に日に家具が薄汚れていくのだ。
舞い散るホコリもお構いなしに、ユスティナはくるりとその場で回転した。
自慢のハニーブロンドのくせっ毛は、ややくたびれている。
けれど彼女の瞳は、力強く輝いていた。
「さて、いよいよね」
気分は悪くない。この日のために隠していた書類をそっと羽織の間に忍ばせ、ユスティナは朝食をとるために食堂へと向かった。
そして、迷いなくその扉を開ける。
しかし、食堂に彼女の席はない。当然、朝食が用意されていることもない。
ユスティナの姿を見ても、誰も彼女に声をかけることはなかった。
それもそのはず。義母が夫である辺境伯やその息子ウォルフに、
「ユスティナは自室で贅沢な食事をとっている」
などと嘘の報告を繰り返しているのだ。
実際には、この半年ユスティナに朝食の誘いがかけられることなどなく、彼女は一人、朝から空腹を抱えるしかなかった。
ユスティナはこのブラウンスベルク家に嫁いできてからの半年を振り切るように一度首を振り、真っ直ぐブラウンスベルク家の面々を見据えた。
テーブルの上座に辺境伯。その両側に向かい合うように辺境伯夫人とユスティナの形だけの夫であるウォルフが座っている。
突然食堂に乱入してきたユスティナを見て辺境伯が眉をひそめた。
だが、誰一人として言葉を発しない。
どうやら彼らはユスティナを無視することにしたらしい。
ユスティナは、惜しみなく侮蔑の視線を彼らに向けた。
「正義の家門たるブラウンスベルク家が、聞いてあきれますね!」
腹の底から出した彼女の声は、静かな食堂に大きく響く。
そこにいた全員が、彼女の放つ威圧感に手を止めた。
「食事中だ。去るがいい」
辺境伯は、嫌そうに顔を歪めて鼻を鳴らす。
彼は辺境の守りのかなめとしていくつもの武勲をたてた古強者だ。鋭い眼光で睨みつければ、たいていの者は一目散に逃げていくという。
だがユスティナは、辺境伯の眼光を真っ向から受け、臆することなく一歩前に出た。
「あなた方の所業についてです、ブラウンスベルク辺境伯!」
ユスティナの瞳は、真っ直ぐに彼らの罪を射抜いている。
「王命により嫁いできた嫁を虐げるのが、ブラウンスベルク家の正義というわけですか!」
ユスティナの言葉は、静寂を切り裂く刃のようだった。
「モンテーニュの小娘が、一体何を始めるつもりだ……」
辺境伯は、ユスティナの毅然とした態度に動揺を隠せない。
「お義父様。私がモンテーニュ家出身というだけで、よくも食事もろくに与えず飼い殺しにされましたね」
ユスティナが畳みかける。
彼女の言葉は、これまで彼女が耐え忍んできた屈辱を容赦なく暴いていった。
「な……! お前は一人で贅沢をしていると報告が……」
辺境伯は、あまりにも正々堂々としたユスティナの態度を見て、しどろもどろに言葉を絞り出す。
彼は武者としては王国随一の実力を持つ。だが単なる言葉の応酬では、その力を発揮することはできない様子だった。
「よほど質の悪い家臣を雇っていらっしゃるのね。報告者は言いませんでしたか? 私がやせ細り、ドレスのサイズが変わったことについて」
ユスティナは辺境伯の言い訳を一蹴し、ブラウンスベルク家への侮蔑を口にする。
その言葉に、辺境伯の顔は蒼白になった。
もしそれが事実ならば、正義を掲げ武の家門として辺境を守るはずのブラウンスベルク家が、か弱い娘を虐待したことになる。
黙り込んだ辺境伯を捨て置き、次にユスティナは辺境伯夫人にも牙をむいた。
「お義母さまは侍女に命令をして、私の実家から送られたドレスを焼きましたよね? 両家の関係を悪化させることの危うさを知らないとは言わせません!」
「なっ……、わ、わたくしは……その……」
「それから、日々の小さな嫌がらせは、全て記録してありますので悪しからず」
辺境伯夫人は、さっと顔を伏せ肩を震わせる。
もはやこの場は、ユスティナの独断場だった。
最後に、ユスティナの視線は、夫であるウォルフにも向けられる。
夫とはいえ、名ばかりの関係に過ぎないのだが。
「ウォルフ! 王命である結婚の初夜をすっぽかし! 妻である私が虐げられていることを知りもせず! それで騎士などとよくも名乗れるものですわね!」
「そ……」
「王命の意味を理解できないの? それとも王の命に背くことが、あなたの正義だとおっしゃる?」
彼女は、夫の無責任さを厳しく批判する。
この結婚は王命によるものだ。だというのに、ユスティナとの関係を拒否するのは、まさしく王命に背くことに他ならないと。
ウォルフは苛烈な妻の様子を、ただ茫然と見ていた。
本当に、ただ驚きの表情で、はじめて妻の様子を真正面から見たのだ。
しんと、ブラウンスベルク城の食堂が静まり返る。
もはや誰も、目の前の食事に手を付ける者はいなかった。
辺境伯をはじめとするブラウンスベルク家の者たち、そして、その命令に従っていた使用人たちは、ユスティナの言葉に反論できないでいた。
なぜならそれが事実だと、知っていたのだから。
ユスティナはそれまでの声色を変え、静かにこう切り出した。
「一番悲しいのは、私はユスティナ・フォン・ブラウンスベルクになったというのに、ブラウンスベルク家の皆様が私を決して受け入れようとはしない、その姿勢にあります」
彼女の言葉は、悲しみと失望に満ちていた。
「……政敵の家門からの嫁ですものね。スパイとして扱われて当然の、都合のいい砂袋でしかないですものね」
「ユスティナ、君は……」
ようやく、ウォルフが立ち上がり手を伸ばす。
その手を勢い良く振り払い、ユスティナが宣言した。
「ですが、もう結構! 皆さまが王命に背いて私を受け入れないことは明々白々。よって、離婚いたします!」
「いや、それは……そ、その、離婚を言い出したのがお前なら、瑕疵はモンテーニュ家にあるということで、その」
辺境伯は、慌てて反論しようとする。
王命での結婚を反故にしたとなれば、さすがにブラウンスベルク家やモンテーニュ家といえどもただでは済まない。
けれど、ユスティナはその論を一笑に伏した。
「あら、私が離婚を申し出たのは、このブラウンスベルク家に虐待され命の危険を感じたからですわ。何の抵抗もしない哀れな娘を、死の危険が迫るまで苛め抜いたブラウンスベルク家にこそ、その理由があると誰もが思うでしょう」
「虐待……い、いじめ……」
およそ正義とは似つかわしくない言葉を投げつけられ、辺境伯は身を震わせながら呟いた。これまで誇り高い名門として正義を掲げていたブラウンスベルク家。彼らが、自らの矜持である正義を犯した事実が突きつけられたのだ。
「残念です、ブラウンスベルク辺境伯。政敵の家門に身一つで嫁いできた、か弱い娘をいじめることこそがブラウンスベルク家の正義だったなんて……」
ユスティナは、辺境伯の顔を冷たい目で見つめる。
「ぐ……ぅ……」
彼女の言葉は、彼の良心を深くえぐった。
辺境伯は、言葉を失う。彼は、ユスティナの言葉に正しく打ちのめされた。
「もうここには一秒たりともいられません! すぐに出て行きますので、この離婚届にきっちりサインをして提出をお願いいたします!」
しっかりと離婚理由、そして自分の署名を記した書類をテーブルに叩きつける。
「待ってくれ、ユスティナ……!」
遠くからウォルフの声が聞こえた気がした。
「誰が待つものですか!!」
だが、待てと言われて待つ者がいるわけがない。
ユスティナは、最低限の荷物が詰まった鞄を持ち、颯爽とブラウンスベルク城を後にした。
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