第6話 ティッシュと涙の間


ついに、その日がやってきた。

鵜久森桃那は、フィールド中央で悠然と立ち尽くしている。

その自信満々な態度――余裕たっぷりの表情――見ているだけで、こっちの心臓がいやでも高鳴る。


1対1。助けはない。私ひとりで、なんとかするしかない。


ふと応援席を見上げると、華澄と歩実がこちらを見守っていた。

「頑張って!」とジェスチャーする2人に、小さく「大丈夫」と返して、私は一歩ずつフィールドに向かう。


「ふふ……貴方が最初の生贄だなんて、かわいそうに。」

桃那が見下ろすように言う。その口ぶりは、勝利を疑っていない自信の塊。


だけど――私はもう、怖じ気づいてなんかいられない。


「そんなの……やってみないとわからないじゃん。」

言い返すと、桃那は小さく鼻で笑った。


「やらなくてもわかるから言ってるのよ。おばかさん。」


ムカッ――! 少し反応しただけで、すぐ調子に乗る態度に、じわじわとイライラが込み上げる。


思わず口を突いて出た。


「……うるさい。鼻水、垂らしてたくせに。」


……しまった! さすがに言いすぎた!?


一瞬、桃那の顔がみるみる赤く染まる。沸騰したみたいに顔を真っ赤にして、今度は怒鳴り返してきた。


「そ、それは関係ないでしょーーっ!!」


「はいはい、そこまで!」

焼津先生が間に入って、両手を挙げて制する。

「試合前にケンカしてるんじゃないわよ。……さあ、位置について。始めるわよ。」


ギリギリの空気が一瞬で張り詰める。


……いよいよ、試合開始だ。




広さはテニスコート2面分ほど。お互いの陣地に、赤と青の旗がそれぞれ立っている。


ピッと笛が鳴り、静寂を切り裂く。


桃那はすぐさま片手を地面に突きつけると、ドゴォォン!と地響きを鳴らし、私の足元に向かって地割れが迫ってきた。


「くっ……!」


咄嗟に飛びのき、横へ回避。即座に風の玉を作り、彼女目掛けて放つ――しかし。


「フッ。」


桃那はニヤリと笑い、土の壁を瞬時に立ち上げた。風の玉はあっけなく砕け、壁の向こうで力を失う。


(……やっぱり、土は厄介だ。)


次の瞬間、岩の塊がいくつも弾丸のように飛んでくる。


「うっ……!」


私は必死に風の魔法で弾き返すが、パワーが違う。一発ごとに体が揺さぶられ、じわじわと追い詰められていく。


(このままじゃ……!)


その時、足元に不気味な感触――。


「なに……影……?」


見ると、地面がじわじわと黒く染まり、ズブズブと沈み始める。足が取られ、体勢が崩れる。


「やっぱり……!」


思わず声が漏れる。闇の魔法――土だけじゃない。桃那は複合魔法を使ってきた。


「もう終わりね!」


桃那は勝ち誇ったように岩を一気に連射してくる。私はとっさに腕を交差させ、防御の風を張るのが精いっぱいだった。


(くそっ……もう、ダメか――!?)


***


――その瞬間だった。


カチッ。


「……フレイム!」


かすかな声とともに、桃那の旗の近くで小さな炎がふっと灯る。


「何……っ?」


一瞬動きが止まる桃那。だが、すぐに冷笑する。


「そんなお遊び、無駄よ。」


桃那は余裕の態度で、土の壁を高く掲げ、炎をかき消そうと魔力を練る。


……その一瞬。


「今だっ!」


私は必死で腕を伸ばし、風をその炎に向かって叩き込む。ゴォオッと風が炎を一気に広げ、まるで爆ぜるように火花が散った。


「何っ!?」


桃那が顔をしかめて飛びのく。足元で土が焼かれ、熱風が一気に吹き上がる。


その隙に私は魔力を集中させ、足元の闇からスッと抜け出す。


(いける――!)


一直線に旗を目指し走り出す。


「させない!」


桃那もすぐに態勢を立て直し、目の前に巨大な岩壁を作り上げる。その分厚さ、さっきよりさらに重く分厚い。


「私の土魔法を突破できるものならしてみなさい!」


私は足を止めない。


(正面突破しかない――でも、ただの風だけじゃ無理……だから。)


私は一瞬だけ旗の方向を見たあと、左手をすっと掲げた。手のひらには、さっき仕込んでおいた、小さな水玉がひとつ――。


「水……?」


桃那が一瞬、目を細める。


「そんなの、無駄だって――!」


私は水玉を放ち、同時に風の魔法を重ねる。


水が、矢のように一直線に飛ぶ。


「何が……できるっていうのよ!」


桃那が吠えるその直後。


ドシュッ――!


水の矢は、風の加速で鋭く尖り、土の壁に激突した。


「……え?」


ズズッ、ズズズッ――!


壁の中心が、一点だけ崩れた。そこから水が土に染み込み、もろくなった地面がガラガラと崩落する。


「なっ……! なんで……?」


桃那が目を見開く。


「土は、硬いけど……水に弱いでしょ。」


私はもう目の前だった。土煙の中を駆け抜け、勢いよく旗を掴む。


勝負は――決まった。


***


「……勝った。」


私は旗をぎゅっと握りしめ、肩で大きく息をついた。


向こうで、桃那が唇を噛みしめていた。勝ち気な彼女の瞳に、ほんの一瞬だけ揺らぎが見えた気がした――。




試合が終わった熱気だけがまだ残る中、私はそっとその場を離れた。


校舎裏の薄暗いスペース。遠くで、まだ続く試合の音が耳に届く。金属音、何かが砕ける音、声――誰かが必死で戦っている。


その音が、なぜか胸をざわつかせた。


ふと視線を上げると、フェンスの影に桃那の姿があった。さっきとは別人みたいに小さな背中で、肩がかすかに揺れている。


「……桃那?」


声をかけると、桃那は驚いて振り返り、慌てて目元を袖で拭った。でも、ごまかしきれるはずもなく、彼女の頬には涙の跡が残っていた。


私は胸がぎゅっと苦しくなるのを感じた。

あの勝ち気な桃那が、こんな風に泣いてるなんて。


「……どうして、そんなに……勝ちたかったの?」


聞きながら、心のどこかで分かりかけていた。強がり続けてきた彼女の、その奥にある何か。


桃那は目を伏せて黙り込んだ。言葉を選んでいるのか、それとも、まだ言う覚悟がつかないのか。


少しの沈黙のあと、小さな声が返ってきた。


「……このままだと、終わっちゃうから。」


私は思わず一歩近づく。


「終わるって……何が?」


桃那は何度か口を開きかけて、でも声が続かない。震える拳をぎゅっと握りしめ、ようやく絞り出すように言った。


「影……あの影は、闇の魔力を使う人から“借りた”んだ。お金を払って、端末に力をもらった。……ちゃんとしたやり方じゃないし、後ろめたいことだって分かってる。でも、それでも……勝たなきゃいけなかった。」


彼女の目が赤く腫れて、けれど真正面を見据えている。


「負けたら……私は、ここから消される。ここでやり直せる場所を……なくすの。」


その言葉を聞いた瞬間、私は頭が真っ白になった。

この学校がただの訓練の場じゃない。勝ち続けなきゃ、生き残れない世界――。


桃那は俯き、肩を震わせたまま続けた。


「それでもね……ずるいのは分かってたんだ。本当は、自分で勝たなきゃ意味ないのに……でも、もう、どうしたらいいか分からなくて。」


その横顔が痛いほどに弱くて、だけど、どこか意地っ張りな強さがまだ残っていて――私は、気づけば自然と隣に腰を下ろしていた。


「……桃那。」


彼女は顔を上げた。目元は涙でぐしゃぐしゃなのに、それでも意地を張るみたいに睨んでくる。鼻の頭が赤く、すすり上げる音がかすかに聞こえた。


「……鼻、出てるよ。」


私が言うと、桃那は慌てて袖で顔をこすりながら背を向けた。


「見んなし……!」


その必死な姿が、なんだか子供っぽくて、思わず小さく笑ってしまう。私はポケットからティッシュを取り出し、そっと差し出した。


「ほら、これ使って。」


桃那はちらっとこちらを見て、恥ずかしそうに手を伸ばすと、遠慮がちに鼻をかんだ。かすかにくしゃっとした音がして、彼女はティッシュを握りしめたまま小さく息を吐く。


「……ありがと。」


その声は、さっきよりも少しだけ落ち着いていた。私はそっと声を落として言った。


「……協力する。私でよければ、一緒にやろう。」


桃那の肩が、わずかに揺れた。信じたくない、でも信じたくて仕方がない――そんな迷いがにじむ。


「……ほんとに?」


「うん。私も、ここにいる意味が欲しいから。」


桃那は唇をぎゅっと噛みしめたまま、ティッシュを握りしめ、小さな声でつぶやいた。


「……ありがとう。」


そのまましばらく沈黙が流れた。遠くで、まだ試合の勝利を告げる声が響いている。金属がぶつかり合う音、割れるような衝撃音――必死に戦う誰かの声。


私は横目で桃那を見る。彼女はじっとティッシュを見つめたまま動かない。


「ほんとは……ずっと、怖かったんだ。」


ぽつりと、か細い声がこぼれる。


「勝てなくなったら、全部なくなる。この場所も、自分も。……それが、ずっと怖かった。」


声が震えていた。でも、もうさっきまでのようなぐしゃぐしゃの顔じゃなかった。涙の跡が残るその頬に、少しだけだけど、張りつめたものが消えていく気がした。


ふっと風が吹いて、桃那の手元からティッシュがはらりと落ちた。

彼女はそれを見下ろして、小さく、深く息を吐く。


遠くでまた勝利を告げる声が響く。

その音が、少しだけ遠く感じられた。


でも、ここにある静けさは、もうさっきまでのものとは違っていた。

私たちの物語が、少しずつ動き出している――そんな予感がした。

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