3.まあ、そうだよな・・・・・・

 宇喜多は全身の筋肉を強張らせながら、それでも全速力で階段の方へ駆けていった。なにせ命の危機である。およそ自分とは思えないほどの、素早い速度であった。



 見るからに殺意むき出しのソレからは、次々と彼女に向け、殺戮兵器が飛ばされている。ボールペンやビジネスチェア、ガラス瓶や鉄製のフライパン。横目に見る、日用品として生活を彩るはずのそれらは、今現在、爆撃機が落とす爆弾と、大差ない物として、宇喜多の目には写っていた。



 恐怖心が、宇喜多の脳裏を支配する。だが、残った僅かな理性で、後方の投擲物を確認しながら、当たらないよう、器用に右に左に動いていく。



 そして、不規則に横に移動しながら前に進む彼女は、ソレの的としては非常に当てづらいものであったらしく、投げつけられる物の間を上手くすり抜けるかのように、宇喜多は前進していく。



 長いようで、実際には非常に短かった時間の後、階段まであと数メートル。後2、3歩踏み出せば届く、といったところ。



 ここで、不幸なことに。



 いや、今までを踏まえると、むしろ運は良い方であるのかもしれないが。



 突然、宇喜多の体を激痛が襲った。



 その発生源にチラリと目をやると、そこは右足のかかと辺り。鋭利な小型のナイフが、彼女の足に、靴の上から突き刺さっていた。



 ――痛い、痛い。



 経験したことがないほどの痛みであった。心臓が今まで以上に鼓動を早くしていく。



 しかし、足を止めている暇はない。きっと、ここで狼狽えでもしたら、これ以上の痛みが、すぐさま彼女を襲うことになる。



 歯を食いしばりながら、それでも彼女は前進を続け、ようやく階段にたどり着いた。だが、もちろんソレを撒けたわけではなく、依然、危険な状況は変わらない。だから、前に進み続ける他ない。



 階段を飛び越えるように降りていく。しかし、右足を踏み出すたびに、強烈な痛みが蘇る。どうやら、ナイフが刺さった右足に、この動作は衝撃が強すぎるらしい。



 後方を確認し、奴がまだ上の階にいるらしいことを認識すると、宇喜多は足を止めた。



 肩で呼吸をしながら、膝に手をつく。そして右足を確認し、その痛みに思わず歯ぎしりしてしまう。



 このナイフを抜いてしまえば、少しは楽になるのではないかと、そのまま柄に手を当てようとしたその瞬間。頭上から、何か硬いもの同士がぶつかったときのような衝撃音がした。



 ふっと視線を上に上げると、その原因が容易に理解できた。



 異音と共に、頭上のコンクリートの階段に、どんどんと罅が広がっていく。そして、その欠片や粉が彼女の周囲に降り注いでいく。



 心のなかで小さく悪態をつきながら、彼女は階段を駆け出した。



 振り返ると、衝撃音とともに、先程までいた踊り場が、コンクリートの塊や、大きな家具で埋め尽くされた。その事実に、肝を冷やしながら、彼女は下り続けた。



 痛みやら恐怖心やら、崩れ行く天井やら、あらゆるものから追われていた、災難な宇喜多であったが、どうやらそれもようやく一段落つくらしい。長い階段を下り終え、このビルのエントランス、すなわち一階にたどり着いた。



 出入り口は正面に見えるガラス製のドアだろう。降りてきた勢いそのままに、前に進む。そしてドアの取っ手に手をかけ、今日一番の勢いで、それを開き、建物から脱出した。



 少し前進すると、緊張の糸が切れたらしく、立ち止まり、倒れるような勢いで、地面に膝と両手をつけ、愛銃を横に放り出す。


 右足の痛みが、今までよりも遥かに強く感じられた。



 「・・・・・・痛い」



 消え入るような声色で呟く。


 

 彼女にとって、先の1時間は、正しく悪夢のようであった。何回死の瀬戸際を体感したのか、分からない。現実味のない、最悪の現実であった。


 

 そうだ、と腰につけているはずのトランシーバーを探す。地上に降りてきたのだから、ここでは上層部とも繋がるかもしれない。現在は彼らと連絡を取ることが、彼女の最優先事項であるように思われる。



 手探りに右の腰辺りを探すが、しかし、感触はない。



 左だったか?と、左後ろにちらりと目を向ける。すると、腰のあたりに黒い塊が確認できた。



 それを取ろうと左手を伸ばすが、しかし、感触はない。



 もう一度、取ろうと試みるが、手が空を切るのみである。



 それと、どうしてだろう。彼女には、その黒い塊が、時間とともに体積を増しているような、そんな気がした。



 一度、じっくり目を見張る。すると、その黒い塊が腰ではなく、後方に在ることが確認できた。


 

 段々と、それは大きさを増していく。そして、それが黒というよりも、黒がかった茶色であるということが分かる。



 また、それは・・・・・・いや、もう『ソレ』でいいか。ソレは、宇喜多に近づいて行き、エントランスの椅子を弾として、彼女に向け、放つ。



 咄嗟に、彼女は片手で銃を掴み、横に転がる。



 年季の入った木製の椅子は、ガラスの扉を突き破り、その破片とともに、彼女の元いた場所を襲った。



 「まあ、そうだよな・・・・・・」



 宇喜多は残念そうに呟いた。



 三度目の対面であった。ソレは彼女に向け、スピードを緩めることなく、直進してくる。もちろん、たくさんの小道具達を添えて。



 悪夢は、まだ続く。

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